安西祐一郎の「2045年の学力」

 文部科学省の有識者会議「高大接続システム改革会議」座長の安西祐一郎氏が「高大接続」改革に込めた思いを語ります。
2045年の学力(16)「1億総ゆでガエル」にならないために(2017年5月19日)

 「高大接続」という言葉が独り歩きしている。目まぐるしく変わる世界で、私たちの子どもはどんな力を求められるのか、それにふさわしい教育を創っていこう。そんな思いで始めた改革だったが、その方向に進んでいるのだろうか。議論を進めてきた責任者の一人として、改革に込めた思いを語りたい――中央教育審議会会長として改革を世に送り出した安西祐一郎氏が語り始めた。

第1、3金曜日掲載(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈)

 

[vol.16] 「1億総ゆでガエル」にならないために


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 先日、人工知能の性能を競うコンテストで審査委員長を務めた。料理の写真を見て、人工知能に料理名を当てさせるのだ。

 人が料理の写真を見てその名前を当てるときには、画像だけでなく、今まで食べてきた経験がものをいう。だが、料理を食べたことも、作ったことも、買ったこともない人工知能が、写真を見せられただけでその料理の名前を当てられるものだろうか。5月22日に大阪で開かれる人工知能のシンポジウムで表彰式が行われるので、結果は次回に譲るとしよう。

 人間はその経験に横串を刺し、知識として体系化し、さらに枝葉をどこまでも広げることができる。人工知能は、いったいどうすれば「多様な経験を積む」ことができるのだろう? 多様に広がる世界の情報にどうやって「横串を刺す」ことができるのだろう? これらの問いへの答えは、まだ出ていない。

 人工知能にまだできない多様性への対応こそ、主体性と並ぶ「2045年の学力」の大きな柱だ。

 

 一瞬で情報が地球の裏側まで届くこれからの時代に求められるのは、多様性への対応だ。画一的にものごとをとらえ、狭い社会の規範や前例だけで判断していては、思考の広がりは望めない。だから、2014年の中央教育審議会答申「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」には、「主体性をもって多様な人々と協働して学ぶ」という字句を盛り込んだ。学校教育法には「主体性をもって学習する態度」とあるが、「多様性」ということばはどこにもない。画一的から脱するためには、主体性だけでなく、「多様な人々」と学び合う環境が大切だ。国籍や言語、文化など全く異なる人々と学び合うことが、学びの場を大きく変え、子どもたちの心を広く豊かにし、柔軟な判断力を育ててくれる。

 

 だが、そうした人々を育てるには、今の大学はあまりに「画一的」だ。たとえば国立大学の関係者は、口を開けば「運営費交付金」という。2004年に国立大学が法人化された後、収入の不足分を補うため、学生数などをもとにそれぞれの大学に金額をはじき出し、機械的に分配されてきた。それでは不合理だという政財界からの指摘などもあり、「頑張っている大学には手厚い」重点配分が始まったが、そのため、国立大学関係者の口から「運営費交付金」の言葉が飛び出す頻度がますます上がっているようにみえる。「部局」も同様だ。国立大学関係者は「部局」ということばを頻繁に使う。しかし、この用語は国立大学あるいは公立大学以外の大学には通用しない。「部局の壁を越えられない」「部局のタテ割り」「部局の合意を得る」.........否定的な場面に使われるケースもあるが、関係者の間での用語の使い方はともかくとして、使う言葉が同じ人々は思考の方法もそう変わらない、ということだ。ともあれ、国立86大学の中だけで通用する用語を使っていると、その中だけの思考法になってしまう、という点は、当の国立大学の関係者はあまり気づいていないように見受けられる。

 では、私立大学はどうだろうか。国立大学を凌駕するほどに個性的といえるかといえば、やはり「画一的」を否定できない。私立大学の個性は、建学の精神にあるはずだ。なのに、建学の精神に基づいて入学者受け入れの方針を定め、入試をしている大学がどれほどあるだろうか。大量の入学者を短時間の画一的な試験によって無造作に入学させ、ところてんのように押し出すところが目に付いてならない。

 「日本の大学は、ゆでガエル状態」と自嘲気味に語る、心ある大学人が少なくない。曰く、徐々に温度が上がっても「いい湯だな」とのんきに構えているうちに、すっかりゆであがってしまう......。前を見ても、横を見ても、「画一的」にのほほんと温泉につかっている仲間と一緒であれば、安心していられるのかもしれない。あるいは安心していることにさえ気づいていないのかもしれない。つまり、「画一的」とは、思考停止の結果なのだ。

 

 そうした大学の姿は、これまでもたびたび問題視されてきた。哲学者で批評家の三木清が1936年2月に、以下のような指摘をしている。

 

 「試験制度はまた我が国における教育機関の画一化によって強化されている。(略)各学校の特色がもっと明瞭であり、各々その特色を発揮することに努力するならば、試験の激烈さも緩和され、その弊害も減少するであろう。ところが現在では、例えば官立学校と私立学校とにおいて教授内容は同一であり、ただ後者は設備その他の点で劣っているというだけで前者と相違するといった状態であるために、試験制度も強化されるのである。画一主義の教育と試験制度とは相互に関連している。そして今日我が国の風潮が教育における制度主義、画一主義を強化しつつあることは見遁せない」(「三木清 大学論集」講談社文芸文庫より)

 

 激烈な試験が次世代の育成にどれほどの弊害をもたらすか、という問題指摘の中で書かれている。2・26事件の起きた時期に書かれた三木の指摘がやや特殊だという言い方はあるにしても、「官立学校と私立学校とにおいて教授内容は同一」と大学の画一性を強調しているところに目をひかれてしまう。中身が同じであれば、受験生は設備や、ここには書かれていないが「知名度」「官立か私立か」など外形的なことで選ぶのは当然だというわけだ。

 

 教育の自由化・多様化を全面に打ち出した1971年の「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」(四六答申)では、大学の体質改善を迫っている。

 「高等教育の大衆化は、単にその進学率の上昇というだけでなく、現に社会で働いている人が、その学歴水準にかかわらず再教育の必要を感じているという事実が示すとおり、さまざまな年齢や職業の人にまで拡張して考えなければならない。それは、急激に変化する社会が、たえず人間能力の再開発を求めているからである。このような国民の要請にこたえるためには、多様な資質を持つ学生のさまざまな要求に即応する教育の内容と方法を備えた高等教育機関が必要となる」と問題提起をしている。

 

 その16年後、1987年の「臨時教育審議会」の最終答申でも「高等教育の個性化・多様化」が強調されている。「高等教育の個性化、多様化、高度化、社会との連携、開放を進める、また、学術研究を積極的に振興する。これらを裏付ける条件として、組織・運営における自主・自律の確立、教職員の資質の向上、経済的基盤の整備を図る」と提言する。

 

 大学の個性化、多様化を妨げる要素は、受験生側にも根深く横たわっている。依然として偏差値で大学選びをする傾向だ。偏差値とは、ある試験を受けた受験者全員を母集団として、その中でどの程度の位置にいるかを示した数値で、それ以上のものではない。「難易度」に使われているのは、「入試合格者」の偏差値で、「入学者」の数値ではない。にもかかわらず、それで「行ける大学」が決められ、人生が決まってしまうかのような仕組みが社会に埋め込まれている。

 偏差値ばかりを気にして若い人たちの一生を台無しにしているのが、今の高大関係だ。健康を維持するために体重ばかりを気にしていたら、摂食障害を起こしたり、精神的に病んだりもする。食事や運動、生活リズムなどのバランスの中での体重管理、たった1本のものさしだけで健康を測らないことが大切だろう。

 いまの試験制度自体にも大きな問題がたくさんある。社会では多様な能力を持った多様な人たちが必要なのに、覚えたことの多寡を1本のものさしで測って優劣をつける仕組みになっているからだ。それぞれ異なる能力を磨いてきた人たちの優劣を同一の試験で判断するのはそもそも意味がない。

 

 18歳人口は1992年約205万人、現在は約120万人。にもかかわらず、大学生の数は減っていない。高校を出て就職する人たちの数が25年間で激減した。したがって今は、大学に進んで何をどう学ぶのかがより重要な問題になる。大学には50%以上の高校生が進学する時代だから、大学を出ただけではもはや「価値が高い」といえないからだ。進路は実に多様なはずだ。だが、社会全体が「大学にいけば何とかなる」、もっといえば「いい大学に入れば、いい会社に入れて、幸せな人生を過ごせる」と画一的に思い込んでいる。その結果、画一的な高校と、その延長の大学がシステムとして用意されることになる。社会では多様性への対応が要求されている。この矛盾をどうとらえるかが問題だろう。

 

 「画一的」は、新卒一括採用で入試合格者の「偏差値」を重視する企業にも当てはまる。この偏差値は入学前の偏差値だから、その大学でどのような教育をしているかとは全くかかわりがない。にもかかわらず、偏差値を使うのは、効率がいいと踏んでいるからだろう。1人ひとりを丁寧に面談し、どの業務に向いているか、社風と合うかを考えて選ぶのは大変手間がかかる。それで妙な新人を入社させたりしたら、人事担当者は責任を問われることになると心配し、「とりあえず東大卒業生」を重く見て採用する風潮があるようだ。

 平時はそれでいいかもしれないが、いまは「乱世」。かつて有名大学卒業者をぞろぞろと集めていた企業が危機的状況に陥っている。それを、企業は、またこれから大学を選ぶ受験生やその保護者、進路指導の教員は、やはりぬくぬくとぬるま湯につかりながら見ているのだろうか。

 

 「1億総ゆでガエル」――想像もしたくない。

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