2045年の学力(19)一流の教育者は一流の研究者

安西祐一郎(あんざい・ゆういちろう)日本学術振興会理事長、文部科学省顧問。前慶応義塾長・大学長。認知科学。70歳。

 「高大接続」という言葉が独り歩きしている。目まぐるしく変わる世界で、私たちの子どもはどんな力を求められるのか、それにふさわしい教育を創っていこう。そんな思いで始めた改革だったが、その方向に進んでいるのだろうか。議論を進めてきた責任者の一人として、改革に込めた思いを語りたい――中央教育審議会会長として改革を世に送り出した安西祐一郎氏が語り始めた。

第1、3金曜日掲載(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈)

 

[vol.19] 一流の教育者は一流の研究者


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 大学は教育を重視すべきだ、と言われて久しい。しかし、研究あってこそ大学、ということがむしろ忘れられているように思う。今の大学生は手取り足取り教えないと一人前の社会人になれない、だから研究などと言っていられない、まずは教育が大事だ、というロジックは、いかにも通りそうな理屈だ。もちろん、教育に力を入れている立派な大学もあり、教育に心血を注ぐ大学教員もたくさんいる。それでも、大学の教員は研究水準が高くなければ教員とは言えない。また、研究水準の高い教員がいない大学は大学とは言えない。研究水準が高いとは、知の消費者や知の評論家ではなく知の生産者である、ということだ。

 大学は高等学校とは違う。大学の教育も高校教育とは意味が違う。論文や本で読んだこと、他の学者や評論家から聞いたことを生徒・学生に伝えるだけの授業は、大学の授業ではない。大学の教員は一流の研究者であってほしい。先達の産み出した膨大な知識の体系を吸収しながら、未知の世界に挑戦し、新たな知を生産する。そこで得た成果を自分の言葉で学生に語る。それが大学教員のまともな姿だ。

 

 どんな小さなことでもいい。単なる解説者に終わらないこと、自分の学問分野における従来の学問体系と現在の世界の動きに通じていること、それが大事である。そのためには、世界を見渡し、自分の分野における知の生産者がどこで何をしているのかを知っている必要がある。ところが、世界に広がる学者間のネットワークに加わっていないと、自分の考えていることが本当に「世界で他人が考えていないこと」であるかどうか分からない。どこかの町の歴史をこつこつと調べている研究者を思い浮かべてみよう。日本各地にいる郷土史家は、史学の方法を踏まえたうえで新しい見方、新たな発見、新しい方法論を産み出しているのであれば、本格的な知の生産者であり立派な研究者である。

 先日、今年度の学士院賞の授賞式に出席した。受賞研究の一つ「南ガリアのキリスト教祭壇 五世紀から一二世紀まで」は、フランス語で書かれた印象的な研究である。「南ガリア」と呼ばれた地中海沿岸地方(スペイン、フランス)のキリスト教の祭壇454点を精緻に調べ上げ、記述している。祭壇一つ一つに写真と実測図、観察記述などをつけ、先行研究や文献にもつぶさに当たり、古代末期から中世にかけてキリスト教の祭壇の形態や構造がどう変遷したのか、大規模な実証に基づいて世界で初めて明らかにした研究である。もちろん、信仰のありようや祭壇制作の技術、その他多様に絡まった時代変化の背景がこの研究から浮かび上がってくる。天皇皇后両陛下ご臨席のもとでの授賞式の情景を見ながら、知の消費でなく知の生産の好例だと感じた。

 もちろん、こうした研究はこの一つだけではなく、地味でも独創的で自由な発想を粘り強く進めている研究者はたくさんいる。私自身、たくさんの素晴らしい研究者にお会いし、いろいろな形でご指導いただいている。ただ、そうではない研究者で、大学教員の看板を掲げている人たちもいるのではないか。どこの「業界」も、すべての人たちが高水準なわけではない。大学もそういう「業界」の一つに過ぎない。

 研究者にとって切磋琢磨の場の一つが、学会のはずである。ところが......。頑張っている学会もあるが、目を覆いたくなるような学会も目につく。いかにも研究をやっているようだが、お互いに知っている者同士で発表をし、形ばかりの質疑応答をする。深くは突っ込まない。質問が一つも出ず、場を持たせるために司会者が適当に質問をする姿は、学会によってはよく見られる風景である。もちろん、きわめて活発で、出席するのが待ち遠しい学会もある。そういう学会では、他の研究者から刺激を受けると同時に自分も他の研究者に貢献でき、充実感がある。まっとうな学会か否かは、(1)その学会の主要メンバーに世界に通用する研究実績があるか、(2)にもかかわらず若手研究者が多く出席して独立した意見を活発に述べているかどうか、で分かる。これらのどちらが欠けてもまっとうとは言えない。

 

 昨今の問題の一つは細分化だ。小さな学会が雨後のタケノコのように生まれている。お互いに話の通じる人たちの集まりになるから、論敵も少ない。その意味で気持ちよく話ができる。しかし、「お山の大将」になる危険性もある。小さな研究集団の中で論文を出していれば、業績にカウントされて大学に正規教員として採用される可能性が高まることもありうる。

 大きな学会にも課題はたくさんある。特に、大きな学会ほど守旧的になりがちだ。偉い先生方が仕切っていて、中堅の研究者でさえ学術雑誌の編集委員長になることは滅多にないし、若手研究者は「使い走り」程度に扱われることも多い。若手はそうやって鍛えられていくものだ、という感覚が年配の研究者に残っている分野もある。

 電気、電子、通信、情報関係などのIT系学会では、会員数の減少に悩んできたところが多い。大きな原因の一つは産業界が低迷して企業会員が減っている点にある。企業にとっては学会の仕事や学会発表よりも本務に時間を使い新技術は内部に秘匿する、という考え方が広まった。グーグルやIBMなどITの巨大企業の研究者が積極的に国際学会などで発表しているのと対照的な様相を呈している。もちろん米国のメガIT企業が学会発表を主な目標にしているわけではない。しかし、グーグルにしてもITの中の分野別に出版学術論文数を公表している態度は、余裕といえば余裕に過ぎないのかもしれないが、日本の企業とは際立って異なるものだ。

 その一方で、学会で大学の先生方と話をするよりも国際的な情報ネットワークを自分で創ってそこで情報収集するだけで十分と考える日本の企業も増えてきたように思うが、企業の態度というよりもむしろ、日本の大学が長い間情報科学技術の本格的研究を軽視し続けてきた結果、学会に行って発表を聞いてもあまり意味がなくなってきた、ということかもしれない。

 

 IT関係のことだけではないが、一般に学会は、かつて若い人たちを育てる場でもあった。しかし、学会発表の水準が下がればそういう場としても機能しなくなる。正規雇用の研究者ポストが奪い合いの現状では、かつてのように学会の仕事を通して顔が売れ、それが就職に役立つことも少ない。

 現実問題として、今の若手研究者の労働環境はきわめて厳しい。任期の限られた非正規の雇用が多数を占める。任期の終わるかなり前から次の仕事を探さなければならず、それにはとにかく業績が必要になる。業績を上げるためには研究費が必要で、予算の潤沢な大型プロジェクトの「親分」研究者の下に自分のやりたいテーマを曲げてでもつかざるをえない。

 プロジェクトの代表を務める研究者にとっても、昨今はプロジェクトの評価が厳しいから、例えば5年プロジェクトなら5年の期限が終わるまでに多数の論文を出さないと評価が落ちてしまう。ところが研究には時間がかかるから、成果が出るとしてもどうしても5年期限のぎりぎりになる。そこで、プロジェクトの期限が切れる間際になって、すぐに論文を載せてくれる学術雑誌に論文を投稿する傾向が出てくる。伝統的なジャーナルだと、内容の査読が繰り返されて掲載するまで1年近く、大幅な修正を要求されると場合によってはそれ以上かかる。その一方で、査読期間が短く採択率の高い雑誌が多数出版されており、そういうジャーナルだと長くとも数か月で掲載が決まる。ただし、伝統的なジャーナルに比べると、かなり高額の掲載料を著者から徴収するビジネスモデルを用いている。

 5年プロジェクトの成果が必要な研究代表者と4年目には「次のポスト」を探さなくてはならない非正規雇用の若手研究者、内容を吟味することなく載せてくれる新興ジャーナル、これらの連鎖で、長期にわたって粘り強く続ける本格的な研究が少なくなっていく。独創的な研究を自由に、しかし孤立して続けている研究者にとっては1本の論文の掲載料さえままならないのに、予算の潤沢な大型プロジェクトのメンバーでさえあれば、1本数十万円の掲載料など気にすることなく論文の数を増やせる。

 

 話が学会から学術ジャーナルのことになってしまった。要するに、研究者の世界も、また大学も、世の中に数多くある「業界」の一つだ、ということである。それぞれの「業界」の内部が外からは見えにくいように、研究者の「業界」も外からはなかなか分からない部分がある。

 その一方で、研究者の本分は新たな知を生産することだ。研究者「業界」の特徴は、知の生産者は他にいないのだから自分たちでお互いに評価し合う、という仕組み(ピア・レビューと呼ぶ)が基本になることである。大学所属の研究者の場合、所属大学の偏差値水準、職位や年齢、既得の権力、自分の将来への政治的な思惑などと無関係に、研究そのものの評価をお互いに行うことは、人間であるからにはそれほど簡単ではない。

 それが可能になる基本的な条件は、研究者が真に「新たな知の生産者」であり、消費者ではないことだ。つまり、人にへつらわなくても一本立ちできる研究者であることだ。大学の教員にとって、「新たな知の生産者」であることが学生に学問を教えることのできる人間としての最低条件だというのはこういう意味である。

 話を学会のことに戻そう。果たして学会は今の時代に必要なのだろうか。学会に行けば必ずしも「新しい情報が耳に入る」わけでもない。インターネットの方が早いから、日本国内の学会にわざわざ行くよりも得るところがあったりする。では、学会は何のためにあるのか。学生の研究発表のけいこ場か、お互いに褒めあい、派閥をつくる場なのか。

 

 こうしたことは今に始まったことではないし、再三になるが、「正しい」研究者、「正しい」大学教員もたくさんいる。ただ、世界の学術研究の在り方や大学教育の在り方を俯瞰すると、日本の現状を楽観することはできないし、特に、若い人たちへの影響については、彼らのキャリアパスを含め、シニアの人たちが身を切って努力すべき点がたくさんある。

 一つだけ私自身の経験を挙げておこう。いま箱根に来ている。ある学会の若手サマースクールで、2泊3日の泊まり込みで、2011年の夏から続いていて、今年で7年目になる。緑濃く、観光客でにぎわう夏の箱根で、「一流の研究者」を視野に入れた若い研究者や学生50人が合宿で夜明けまで議論をしている。今回のテーマは「科学の方法」ということで、講師(私も)から学生まで、良い理論とは何か、良い仮説とは何か、新しい理論、新しい仮説はどのように受け入れられていくのか、立派な研究でさえあれば必ず学術論文として出版できるのか、といった議論を正面切ってやっている。大人の都合で若手研究者の雇用環境が激変し、任期付きの研究職しかない、むしろそれも覚束なくて研究者志望をあきらめようか、博士課程進学はやめようか、という時代である。その真っただ中で将来を案じている若い人たちに、それでも、学問とは何か、どれほど厳しく、しかし楽しいものなのかを伝えたいと思い、結局7年続けてきた。

 研究室、ゼミに固執していなければ生きていけない、研究室が固執している方法論から逸脱しようとすれば生きていけない、若い研究者はそんな環境で、しかも先の就職を考えればとにかく実績を挙げなければならない。このため、今まで確立された「科学の方法」にどうしても囚われてしまう。しかし、学問における多くのブレークスルーは方法論のブレークスルーに由来する。もし将来一流の研究者になりたいのであれば、自分でブレークスルーはできないとしても、特に方法論のブレークスルーをもたらしつつある研究環境を、日本の中だけでなく世界に求め、そこに身を置くことが大事だ。

 今回の箱根サマースクールでは、このことを伝えようと、5時間かけて話をした。彼らがどう感じたか、将来に活かしてもらえればと願っている。未来は彼ら若い人たち一人ひとりのものだ。

>>[現場から]3.垣根を越えて考える力


(2017年9月 1日 10:00)
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