東日本大震災から12年。さいたま市立植竹小学校では2月14日、大震災の直後、福島県で取材をしていた記者を講師に招き、出前授業が行われた。授業を受けたのは、震災後に生まれた約140人の3年生の児童たち。東京電力福島第一原発事故のため、故郷から100㌔以上離れた地で避難生活を送る同県大熊町の小学生や吉田淳町長とのオンライン交流も行われ、子供たちが率直な意見を交わした。
(日本大学・田村杏菜、早稲田大学・朴珠嬉=キャンパススコープWebリーダー、写真も)
トルコ・シリア地震で高い関心
授業では、当時の新聞記事や高貝記者が行ってきた取材をもとに震災に関して説明が行われた。トルコ、シリアで、多くの犠牲者が出た地震が起きたばかりとあって、災害への関心も高く、「仮設住宅」や「除染」という言葉が登場すると、「代わりの家だよね」「悪いものを取り除くこと?」と答える児童もいた。
原発立地町の大熊町は、事故後、会津若松市に町ごと避難することになった。ある日、突然故郷を後にし、100㌔以上離れた地で生活することになった被災者の姿に、児童も心を打たれ、講義の内容を次々とメモしていた。
2時間目には、植竹小の児童と大熊町立の「学び舎 ゆめの森」で学ぶ児童たちはオンラインで、故郷で再開する新しい学校について意見交換を行った。学校は2022年春、避難先の会津若松市で開校し、2023年中には、故郷の大熊町の新校舎に戻り、子どもたちは町内で学ぶことになる。
この学校の最大の特徴は、幼稚園から小学校、中学校が同じ施設に含まれていることだ。子供たちは0~15歳まで、この「学び舎」で伸び伸び学ぶ。時間割を自分で組んだり、ICT技術が進んでいたりと、充実した教育環境が整えられている。綺麗な新校舎を見た植竹小の児童たちからは「自分も通いたい」という声も上がっていた。
福島と埼玉をつなぐ
意見交換会では、まず、大熊町の児童5人が、現在学校で学んでいることや今年再開される故郷の学校について発表。植竹小の3年生よりも小さい1年生が一生懸命発表する姿が印象的だった。
植竹小の児童からも、次々と質問の声が上がった。「(大熊町に)戻ってきた人たちに何をしてあげたいですか」という質問に、「大熊町に来た人たちと、たくさん遊びたい」と答えていた。さらに「12年前の(大熊町の)学校を見てどんな気持ちになりましたか」の問いに対しては、「家族のことを考えて、とてもショックな気持ちになった」と返答した。最後には、お互いが目いっぱい手を振って、画面越しにさよならの挨拶を言い合った。
植竹小の細川拓海君は、「東日本大震災がすごい地震だと分かって、びっくりした。防災の準備をちゃんとしようと思った」と語った。また、鈴木悠太君は「大震災のことがよく分かった。大熊の子供たちが、新しい学校で頑張ってほしいと思った」と教えてくれた。
授業を企画した植竹小の菊池健一先生は、東日本大震災後から継続的に震災を取り上げた授業を行っており、今回で12年目となる。例年、被災者や、震災で亡くなった方の親族、被災地を取材した新聞記者など、震災を目の当たりにした人達をゲストティーチャーに招き、生徒に生の声を届ける授業を行っている。
取材を終えて
授業を受けた3年生の子供たちは、震災を実際に経験していない世代だ。2011年の3月、小学3年生だった私は、ホームルームの時間に突然、ガタガタガタッ、と今まで体験したことのない強い揺れを感じた。一度は机の下に隠れたが、揺れが一層強くなった瞬間、「逃げて!」と先生が叫んだ。校庭まで上履きを脱がずに必死で走っていった。何も考えず、自分の力を振り絞ってただひたすら逃げた。その恐怖を、今でも鮮明に覚えている。植竹小の菊池先生も「いつもは『あの時どうだった?』というところから始めるが、今はそれができない」と語る。自分が当たり前として捉えていた東日本大震災の体験が、当たり前でなくなったことに直面し衝撃を受けた。
だからこそ、震災を過去に起こったこととして片付ずに、避難している人、癒えない傷を負った人がまだいる中、「私たちは震災を忘れてはいけない」と感じた。(朴珠嬉)