自然の中 遊んで学ぶ 担当者に聞く

葭田昭子園長

 

■自然は折れない心を育む

 花の森こども園園長 葭田昭子さん

(2021年5月25日取材)

 

悩みのタネは人間関係

 

小川祐二朗 聞き逃していることの中でまず伺いたいことは、この園の卒園生はどんな子に育っているのかということです。

 

葭田昭子さん(以下、敬称略) 私共の手を離れてからの方が長いわけですから、それからいろんな環境で生きていると思うのですが、森のようちえんの頃に認めてきた自分の思ったことや考え方が人と違って良いと、思える人に育っているといいですね。自分なりの考えを疑問文にしろ意見にしろ、伝えて良いことが当たり前だと思っているので、時に孤立することもあると思うんですよね。でも、それを恐れないというか、まず基本は一人で居られる。そこは変わらずに育っているといいなぁと思います。

 

小川 そういう子どもたちは、この園のどういう教育理念とか保育のあり方から育まれているとお考えですか。

 

葭田 うちの理念は「いろんな命との共生」です。そもそも地球はそうだったのだと思いますが、人間界でこれから生活していくうえで、倫理観や環境観といった体験に基づいた感覚があった方がいいと考えています。森のようちえんでは、子どもたちが社会化していくためにつきあうのが、人だけではありませんから。

 

小川 自然の生き物たちともつきあうと?

 

葭田 そう。人が悩むのは人間関係じゃないですか。(こども園とは別の施設で受け入れている)不登校やニートの子たちと関わっていても、人間関係で悩んでいるんです。社会と遮断して自分を守る理由も、人間関係が大きい。その点、自分の思い通りにはいかない自然の中でどっぷり毎日毎日過ごしていると、人間関係を含めて、もう少し俯瞰(ふかん)した世界のとらえ方をするようになる。思い通りにはいかなかったり、反対に自分に喜びを与えてくれたりすることが、人間だけではなく自然界にもあるからです。それは箱の中だけで大人になってゆくのとは、やはり違うと思います。だから、みんな野に出ましょうって、言っているんです。

 

小川 それはなんらかの指導というようなものではなく、思い通りにはならない自然の中での生活体験が、学校や実社会に入っていった時に活きるということですか。

 

葭田 そうです。(心根が)寛容に太くなっていくと思うんですよ。ちょっと拒否されたからとか、ちょっと嫌な言われ方だったからといって、折れない。そして自分が「合わないなあ」と思った世界に合わせる必要もないと、思えたりね。でも、その世界があるから、自分も存在しているわけでもあるのです。要は、(森のようちえんは)その環境なんです。私たちが指導するわけではなくて、子どもたち同士に出番が回るように、その学びの場面や環境を演出したり、保証したりするわけです。別の言葉でいえば、(ここでの教育理念は)引き算なんです。いかに口をはさまないかとか、先に教えないとか......。

 

危険は「諸感」で回避する

 

小川 森のようちえんは自然が相手です。そうすると、石につまずいて血を流したりとか、最悪の場合は川に流されたりすることだってありえます。「森のようちえん全国ネットワーク連盟」の安全研修を職員の方が受講されるなど、万全の備えをされていると聞いていますが、受容できるケガと、絶対に回避しなくてはいけないケガといったリスク管理はどうされているのでしょう。

 

葭田 リスク・マネジメント講習などを受けていますけど、「して良いケガ」というのはもちろんありません。しかし、生きている以上、無傷ではいられない訳ですね。

 

小川 それはそうです(笑)。

 

葭田 それは心身ともにそう。生きるってことは、そういうことではないですか。むしろ、それが決定的なダメージにならないよう回避する力を、子どもたちは自分の体験をその場の条件と組み合わせて「想定内」を広げていきます。たとえば体の動かし方とか、「昨日は雨だったからこうだ」といった経験を通じて、五感で――私たちは「諸感」と呼んでいるんですけど、いろいろな情報をあの小さな頭と体に吸収して動くわけです。「虫に刺されるから長袖で行こう」とか「ここで転んだのは踏み切りがちょっと早かったからだ」といった具合です。

 


遊び道具には全く不自由しない環境にある花の森こども園。枯れた木の幹を協力して持ち上げ、好きな場所に運ぶ園児たち

 

 たとえば、活動場所に丸太が転がっていて子どもが転んだら「こんなところに丸太を置いておくのが悪い」という親御さんは驚かれるかもしれもしれませんが、ここの子どもたちは自分が丸太より小さかったら、丸太によじのぼってグルンとおなかで回って潜り抜けていく。自分が丸太より大きくなったら飛び越えていく。丸太が道をふさいでいるのなら、力を合わせてどかそうとするんですよ。そうしたリスク回避の判断や知恵や社会性が図らずも整ってく。それが生きていることの「おかしれぇ」じゃないですかね。

 

小川 「おかしれぇ」?

 

葭田 ほら、大河ドラマで渋沢栄一が「おかしれぇ」って言ってますよね(笑)。(江戸弁で)「面白い」という意味です。困難なことこそ面白がれる。おかしれぇなんですよ(笑)。高杉晋作なんかも、同じようなことを言っていましたよね。子どもたちは困難なことでさえ、面白がれる訳です。それができるかどうかで、一生が苦悩続きなのか、困難をも面白がれるのか、分かれる訳です。

 

小川 なるほど。困難も面白がれる子どもに育っているという確信みたいなものはありますか。

 

葭田 ありますね。ここの子どもたちは何があっても、なんとかしようとしますよ。

 

自然の現状にこそ「忖度」を

 

小川 先日のお話の中で、「社長や部長に下手な忖度する位だったら、自然にこそ忖度すべきだ」と仰っていました。私の中で「忖度」という言葉は悪いイメージしかなかったので、これは忖度という言葉ほんらいの素晴らしい使い方だなと思いました。ここの卒園生が大自然と対峙した時、「お邪魔します」と言ったというエピソードも紹介されていましたね。これらは同じ意味合いですよね。マタギの人たちがそうであるように、自然に対して畏敬の念を示すことに通底します。

 

葭田 そうですね。私たちはつながりの中で生きている。なのに、地球や自然は人間のためにあると思って、久しかった訳ですよね。だから、天気が人間の思うようにコントロールできなくてよかったと、私は思っているんです。ひでり続きで昔は雨乞いをしたり、自然を畏怖したりするとかあったわけですけれど、それはそれで受け止めるしかなかった。しかし、科学技術でコントロールして、ここまで利便でグローバルな世界になりました。けれど地球環境がおかしくなってしまったのは、科学技術には「功」とは裏腹の「罪」があることも間違いではないでしょう。

 人間界の忖度は思惑があったり、勇気がなかったり。実は同調圧力だったり、そんな空気なら読まなくてよかったりするものも含まれていますが、そんなことは人間社会だけのことだから、自分が生物として考えるに、とてもみみっちいことだと思います。自然に忖度できる大人が増えたら、社会も変わるんじゃないかとも思います。だから、人の忖度をするくらいだったら、自然の声を聴いた方がいいって思うんです。

 それから、人間は間違うし、間違いに気づいたら踵を返して引き返せばいい。3.11の東日本大震災の時の研究者たちもそうでしたけど、誤りを認めることが賢い人を含めてできない。その点、自然は見事なまでにうまく回っています。

 

循環から逸脱した人類

 


毎週木曜は「同じ釜の飯の日」。園児がカットした野菜を使ったメニューが並び、年長者は率先して調理や配膳も行っていた(左)。包丁を持ち、ゆっくりと野菜をカットする園児(右)

 

小川 先日お邪魔した時、園舎の暖房に薪ストーブを使い、太陽光温水器を設置しているというお話をされていました。また、子どもたちが遊びに行く川では、プラスチックごみを拾ってらっしゃいました。園として、地球環境に気を配ってらっしゃいますね。平たく言うとSDGsの実践ということなんですが、どういう理由でやってらっしゃるのですか。

 


遊びに行った川で発泡スチロールの残骸をみつけ、自主的に回収して満足気な男児

 

葭田 まず環境教育として、太陽エネルギーや水、物質などの「循環」について、幼児期の生活の中で、種をまいておきたいという思いからです。そういった体験がほんとうの感覚や概念にいつごろなるのかはわからないですけど。子どもたちは体験として、太陽が雲に隠れるのがわかるんですよ。太陽を背にお弁当を食べていて、眼で見てなくてもです。

 そうすると、子どもたちは「あ、いま、おひさまがくもにはいったね」という言葉を発するんですね。「背中におめめがあるみたいね」って私たちは言うんですけど(笑)、「おひさまがそばにいる」とか「はれのひがしばらくなかったので、きょうはとってもうれしい」とか、太陽や水や土をとても身近な存在として感じている。こうした存在を愛おしいものにしていくために、荒川の上流に暮らす者としてプラスチックのように土に還らないものもあることを子どもたちにも知っていてほしい。

 


園舎の窓に衝突して死んだシジュウカラ。自然にかえるまでを見届けてもらおうと、職員が木の根元に横たえると、園児たちは梅の実や葉っぱ、枝などをたむけた

 

 (私たちが子どものころの)昭和の時代はゴミを川に流していた。不思議なことですが、ゴミを流していいんだと思っていた時代でした。しかし、そういうゴミが土には還らず、畑からからいまもたくさん出てくるんです。その点、死骸は土に還ります。(新聞記事で紹介した)シジュウカラの死骸は実は先日、誰かに連れていかれてしまいました。

 

小川 え、そうなんですか。

 

葭田 (捕食されて)誰かの命になった訳です。

 

小川 あ、なるほど。

 

葭田 そういう話に、子どもたちのお母さん、お父さんも耳を傾ける。「死」の意味について考える。子どもたちは「どこにいっちゃんだろうね」とか「どうしちゃったんだろう」とか「だれにつれていかれたんだろうねえ」とか話しあう中で、そこには自分たちが感知しない誰かがいるということを感じるんです。それなのに、今はそういう循環から、人間だけが抜けちゃっているんです。

 たとえば、太陽の光がどれだけありがたいか。太陽の光で水がお湯になり、ソーラークッカーでなにもしないのに目玉焼きができちゃう。太陽の光は私たちを元気にするし、種をまくと芽を出す。そういう体験も保育計画の中に入れていて、夏季保育などでやっています。

 そうした中で、太陽の光が弱い日などはホットケーキが焼けない日もあって、「ガスってすごいね」という話になる。何も太陽だけがすごいと言っている訳ではない。いろんなエネルギーがあって、自分たちはどれを選択していくか。そういう「問い」をばらまいて置く程度なんです。「こうしなさい」とかは言いません。

 

小川 それは知識ベースの理解ではなく、体験ベースの理解ということですか。就学前教育では欠かせない、五感や諸感で発見した自然のありようということなのでしょうね。

 

葭田 その理解というのは子どもたちにとっては確信なんです。視覚が、触覚が、鼻もそう言っている、くしゃみも出て、そこで得た理解は子どもたちにとってゆるぎない自信になっていると思います。

 

「保育者は女優であれ」

 


草笛を奏でる2歳の年少さん。この日初めて音が出せた(左)。「同じ釜の飯の日」は食材の特徴を知るところから始まる。サヤエンドウを透かして見る園児(右)

 

小川 先日、まだ生きているカナヘビ(トカゲの仲間)を水でいじめて、土に埋めてしまった子たちがいて、葭田園長と職員が連携して、「命の尊さ」を気付かせようとされたと聞きました。一人の先生が事の重大さについて諭し、葭田園長は別の日に芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の絵本を見せながら別角度から命についてお話されたと聞きました。ひとりの先生だけだったら、説教臭いだけで終わってしまう。こういうチーム保育は意識的にやっていらっしゃるのですか。

 

葭田 ええ。忘れられない授業があって、私が東京家政大短期大学部の保育科に在学中、「自然」という講義を担当された山内昭道先生は最終講義で「保育者は女優であれ」と仰いました。つまり、幼児教育の先生は子どもたちが主役になる出番をつくる目的のために演じ終えたら、舞台の袖にはけなさいと。そのための演出や感情も、計算・コントロールされているものだと仰るのです。

 カナヘビの件も、先生たち同士で報告し合い、どう立ち回るか話しあいました。「おらっおらっ」というこわいタイプの先生と、「まあまあ」というタイプのやさしい先生の両方が必要なんです(笑)。保育は「ライブ」ですから、子どもの科学的な気づきや発見も、職員としてはうすらとぼけることが大事なんです。うすらとぼけるって言葉が悪いけど、保育経験者は、「あっ、このことだな」って思い当たって下さると思いますよ。「きれいだな」「不思議」「なぜ?」と、現象のそのものについて子どもたちが関心を持ちたくなるように、あるいは美しいと感じられるように、気づかせることが大事です。

 そうした体験を積み重ねていく中で、子どもたちの人生の大発見は、彼らにとって自信や「おかしれぇ」になり、私たち職員にとっては何度でも子どもたちと得ることができる驚きだし、喜びなのです。光合成の仕組みを職員が知っていても、教えるだけでは子どもたちは面白くない。あくまで「どういうことかなあ?」と言う。子どもたちに自分たちが発見したように思わせる、環境設定が大事です。気づき方は一人ひとり異なりますから。

 

絵本の力

 

小川 私がここにお邪魔して、なるほどなと思ったことのひとつに、「絵本」がありました。幼児と接していたうん十年前、絵本の読み聞かせてはしていましたが、それほど重要なものだとは考えていませんでしたが、ここに来て認識が改まりました。

 

葭田 絵本は「15分で完結する哲学」だと、私は思っているんです。アンデルセンもそうですし、日本の民話もそうなのですが、人間の本性が書いてあるからです。欲にまみれているとか、自分の心が貧しくなるといった、誰にも起こりうること、それに打ち勝っていくことが書いてあるんですね。

 そもそも、世の中は本来、ものすごくシンプルにできています。それを複雑にしているのが人間ですよね。そこには策士がいたりするわけですが、子どもや自然の中には他意がない。だから、自然とこどもの世界は、私にとって居心地がいい。 人間は「血」を大事にして、自分の子がどうとかこうとか言いますけど、他人の子も生き物たちも「命」として愛しい存在です。だから、この園が誰にとっても居心地の良い場所であるならうれしいです。

 だから私はお母さんたちに、「我が子」から解放されることをお勧めしています。私は「我が子」という言葉も好きではないけれど、親が我が子から解放されることによって、その結果として、俯瞰して命を観られるようになると、親もそうですけど、我が子も幸せになると思いますよ。

(2021年10月18日 11:04)
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