NPO法人・日本語検定委員会による第10回「日本語大賞」(読売新聞社など協賛)の入選作のうち、小学生、中学生、高校生、一般各部の文部科学大臣賞受賞作品の全文を紹介します。 ※敬称略
<文部科学大臣賞>
■小学生の部
尊い
大嶋 英敬(おおしま・ひでたか)
湘南ゼミナール センター南教室(神奈川県)小学六年
僕が初めてセミの羽化を見たのは小学一年生の夏のキャンプの夜のことだった。
夜の探検をしていた時、父が「ここを見てごらん。」と言って指を差したのは、木によじ登ってじっとしていた、殻をかぶったセミの幼虫だった。
まだその時は、僕にとって何百匹、何千匹いるセミの一匹でしかなかった。
「こんなにかたい殻、本当に自分で破れるのかな。」
「目がついている。」
「からだが白いね。」
「お腹と殻が一本の糸でつながっているよ。」
「がんばれ、がんばれ。」
色々な言葉をかけ続けていた僕は、セミが半分からだを出したあたりからは何も言わず、ただただじっと見ていた。
セミがからだをすべて出した時、透き通るような背中とうす黄緑色の羽を見て心から感動したのを今でも覚えている。そして一緒に見ていた父のひと言、「尊いね。」という言葉を同じくらいはっきりと覚えている。尊い生命、尊い価値、尊い感動、それらをひっくるめて表現した言葉だったのだろう。僕はその瞬間、きちんとした意味がわからなくても目の前にあるセミの神秘的な姿や時間、生命力が「尊い」に値すると心に刻んだのだと思う。
セミはおよそ七年もの間、土の中で成長している。やっと地上に出て羽化できたとしても、約一週間から十日程の命だと言われている。しかも羽化は命がけでおこなわれていた。あれから五年、僕は羽化できずに死んでいたセミの幼虫を何匹も見た。穴から出ても木までたどり着けなかったり、羽化の途中で死んだり、羽化してもやっと飛び立ったセミが空中で鳥に食べられたりしたのも見た。
僕はセミを通して命の尊さを知った。今、羽化したあとの殻でさえも尊く感じる。それまでの気持ちとは全くちがう。そしてセミを尊く感じた時から、どんな生き物も植物も一生懸命に生きているんだと感じるようになった。
「尊い」とは、神聖・きわめて価値が高い・非常に貴重・大切にすべきもの、これらの意味を含んでいる。日常的に使う言葉ではないけれど、自分の感じ方や心のあり方で使える言葉だと思う。僕にとって貴重な経験と忘れられない言葉となった。
■中学生の部
"私"で生きていく
野口 夏葉(のぐち・なつは)
南多摩中等教育学校(東京都)中学一年
このままでいいのか。
入学してからある程度の時間が経って人間関係が確立しつつある今、そう考える瞬間がふとした時にやって来るようになった。このままでいいのか、自分を疑い出したのは七月になってからだ。私はその迷いをそのままにして、中学生になって初めての夏休みを迎えた。
その日、目が覚めると部屋がムンと暑かった。汗で首のあたりにはりついた髪を払い、今日の午前中は部活があることを思い出す。それから制服に着替え、一階に下りた。
洗面台の前に立つと、まだ眠い顔の私が鏡に映っていた。前髪が寝ぐせのせいで盛大に右側に片寄っている。それを直しながら、私は視線を少し下に落とした。
そこには、首から下がるだらしなく緩んだリボンがあった。
「何でリボン、そんなキツくしてんの?」
「え? リボンってこういう物じゃないの?」
「もっと緩くすればいいじゃん。暑いし、苦しくない?」
私がリボンを緩くしたきっかけは、こんな友人とのささいなやりとりだった。シャツの襟がある時点でリボンがあろうがなかろうが、あまり変わらないような気もしたが、何となくそれからはリボンを緩くだらしなくするようになっていた。
もう一度、鏡の中の自分と目を合わせてからリボンに目をやる。
何かがチクッと胸の中で疼いた。
結局、私はそのまま家を出た。外は抜けるような八月の青空が広がっている――。
夕方、私は疲れてリビングのソファの上でぼうっとしていた。というよりも、最近感じる「このままでいいのか」について、また考えていた。
「ねぇ、母ちゃん。私さぁ、やっぱり自分のこと見失ってる気がするんだよね。」
台所に立つ母にそう呼びかける。
「ええ? ごめん、今水使ってるから聞こえないんだけど。」
「だからぁ、自分を見失ってる気がするんだけど。」
母は包丁を握り、野菜を切り出した。まな板に包丁が当たる規則的な音が部屋の中に響く。
「何? また何か、他人に引っ張られてるって感じることあったの?」
「そういうわけじゃないんだけどさぁ......。小学生の時は自分がありすぎて、逆に直した方がいいんじゃないかぐらいに思ってたのに、今はさぁ......。」
ふと、今朝のリボンのことを思い出した。あれも中学入学してからのことだな、と思うと改めて環境や他人に流されていることを感じた。今までになく、強く。
人の顔色を窺いながら行動していることが悔しい。判断さえも他人(ひと)に流され、相手の方の流れが強ければたとえ悪事であったとしても軽く首を縦に振ってしまう。今の私はそんな人間になっていた。
頭の芯がチリチリと火花を散らし出したその時だった。
「"私"で生きていくこと。」
その言葉が、私の中で散る火花を一瞬にしてしずめた。
私の好きな、松任谷由美さんがベストアルバムのメッセージの冒頭で綴った言葉。
暗く渦を巻いていた思いがすーっと引いていくのが分かった。ごちゃごちゃとしていたものが整理されていく、そんな気がした。
私は、テーブルの上のCDケースを手に取った。カパッと音がして、フタが開く。そして、歌詞が書いてある小さな冊子の表紙をめくった。
「"私"で生きていくこと。」
オレンジ色の、手書き文字。
それは、私がこれからどうするのがいいのかを確かなものにしてくれていた。
私は冊子をCDケースの上に静かに置き、代わりにテーブルの隅にあった制服のリボンを手にした。そして、首にかかる紐の部分をしっかりと自分の首に合うように短く調整する。
小さい事でも、自分の信じた選択をしたい。確かに、時には誰かの話に合わせることも大切な事だが、他人のために自分を捨てる必要はどこにもない。
もう、私がリボンを緩くしてつけることは絶対にないだろう。
これからは"私"に従って"私"で生きていくのだから。
■高校生の部
糧
佐原 昌連(さはら・まさつら)
安田学園高等学校(東京都)一年
「自分に降りかかるマイナスをプラスにすることができるかは、自分次第である。」
この言葉を祖父からかけられたのは、私が中学一年生の頃だった。この言葉は、「捉え方、見方、努力次第でどんなマイナスな出来事も自分の成長の源とし、プラスに変換できる。」という意味があると、その時祖父から説明を受けた。
私は小学五年生の頃から囲碁を趣味として嗜んでいる。囲碁との出会いは、伯父が持ってきてくれた囲碁のテレビゲームがきっかけだった。あっという間にのめり込み、毎日時間を忘れて囲碁の勉強をした。次第に棋力は上達していき、地域の囲碁教室では、私に勝てる者がいなくなる程までになった。そしていつしか私は囲碁のプロ棋士になりたいと思うようになっていた。そんな時にかけられた言葉が、先程の祖父の教えであった。その時の私は、囲碁に夢中でほとんど負け知らずであったため、「自分に降りかかるマイナス」の意味が理解できなかった。なぜなら、その時の私の耳には、周囲からの称賛や期待の声ばかりが入っていたからだ。そして私は、本格的に囲碁のプロ棋士を目指すため、プロ養成機関である院生になった。
院生は、毎週土日に対局があり、月毎に序列が発表される。一勝が序列を大きく動かす世界。それはさながら憧れていたプロの世界だった。今までライバルのような存在がいなかった私にとって、院生は自分と同等、またはそれ以上の実力を持った人達ばかりであった。新鮮な反面、とてつもないプレッシャーを感じていた。今まで何気なく打っていた一手一手に、いつの間にか深く重い何かを感じるようになっていた。そしてある日から、私はとたんに勝てなくなった。そんな時に思い出したのが、あの祖父の言葉だった。
それからの私は、マイナスをプラスに変える努力を惜しまなかった。自分のダメなところを徹底的に分析し、改善することにした。今まで我流でやってきたことを見直すうちに新たな発見をいくつもすることができた。その一つが、これまで感覚で打っていたため、ほとんど考えるということをしてこなかったという点だ。その癖を改善するために、碁笥の上にハンカチをかぶせてみたり、必ず手を膝に戻してから打つという独自のルールを作ったりした。このような試行錯誤を繰り返すうち、次第に勝率は上がり、全勝する日も珍しくなくなっていた。
こうして、不安の中にも喜びを見出せるようになったのだが、六十人程いる院生の中からプロになれる者は年間たったの数名しかいない。
中学二年生になった時のことである。上位の壁は厚く、このままプロを目指すべきか、早く見切りをつけて高校受験の勉強に切替えるべきか悩む日々が続いた。食事が喉を通らないこともあった。小学校高学年からその時まで家での勉強は囲碁だけであった。このままではどちらも中途半端で終わってしまう可能性があった。そして私は院生を辞退することを決断した。二年生の夏休み、受験生としてぎりぎりのところであった。
こうした不安でいっぱいの中、私はまた祖父のあの言葉を思い出していた。囲碁のプロを目指し、それに専念した三年間を「悔い」として捉えるか、逆に「囲碁を一生の友とし、貴重な経験ができた」と捉えるかは自分次第だということだ。私は祖父の教えから、囲碁で培った経験はこれからの人生できっと何かの役に立つ時がくるだろうと思うことにしたのである。そう思うことで何かが吹っ切れ、その後の受験勉強に集中して取り組むことができた。
これからも私の人生で、マイナスのことが押し寄せてくるだろう。そんな時、また私は祖父の言葉を糧に生きていきたい。院生の頃のように必死で、囲碁で養った先を読む力や大局観を大切にし、状況を冷静に捉え、マイナスのうねりの中にある小さなプラスを探し、見方を転換していきたい。
■一般の部
ごはんごしらえ
福島 洋子(ふくしま・ようこ)
(長崎県)
その言葉を耳にしたのは、二十二年前の六月。梅雨入り間近で、どんよりとした灰色の雲がたれこめた夕刻でした。
私は大阪のとある下町で、たこ焼き屋の前に並んでいました。といっても普通の民家の軒先で、その家のおばあさんが焼いているのです。近所の散策中に見つけたお店でしたが、やや小粒ながらカリッと香ばしく焼けた外側とふわふわの中身。見かけはいまひとつでも味はいけるし、何より安い。たしか五~六個入りで百円程度だったと思います。
(さすが大阪、有名店からこんな小さな店まで、たこ焼きのレベル高いな~)
と、感服した私。小腹がすいたときなど、ちょくちょく通うようになりました。
その日も図書館からの帰りでしたが、夕食を作るのが面倒で、手っ取り早くたこ焼きで済ませることにしたのです。
ところがいつもならすぐに買えるのに、その日に限って数人が順番待ち。学校帰りの中学生たちが、
「おばちゃん、ボク十個入り。マヨネーズたっぷりかけてな」
「俺は醤油。青のりいらんで」
「ボクのは、たこ、大きいの入れてや」
などあれこれ注文をつけたため、おばあさんのゆっくりした手つきでは余計に時間がかかるのでした。
空模様は怪しいし、空腹でイライラしていた私。あきらめてよそで食べるかと思いかけたとき、ようやく前の人の番になりました。
「こんばんは。いつものやつ頼むわ」
いかにも近所の常連風のおばさん。店のおばあさんは手を動かしながら天気の話などをして、ふいに、こう訊ねたのです。
「夜のごはんごしらえ、済んだン?」
「ごはんごしらえ」――はじめて耳にした言葉です。おばあさんの口調がおっとりしていたせいか、それは〈漢字〉ではなく〈ひらがな〉の響きでした。
「いいや、今夜はダンナ遅いねん。たこ焼き食べてから献立考えるわ~」
そう笑い合うふたり。ぼおっと聞いていた私の胸が、ほんわりと温かくなりました。
(「ごはんごしらえ」......なんて優しくて、いい言葉なんだろう)
そのあと自分の番に――。買うつもりだった十五個入りを六個に変更し、帰宅した独り暮らしの部屋で、久々にきちんとした夕食を作ったのでした。
私が広島から大阪に越してきたのは、その二か月半前。二十七歳の春でした。
激務から心身のバランスを崩し、番組制作会社を逃げるように退職。自信喪失と自己嫌悪とで闇の中にひたすらうずくまるような生活を変えるべく、思い切って恋人が暮らす大阪へ出てきたのです。彼とは将来を約束した仲でした。
ところが引っ越す一週間前になって、突然の破局。すがりつきたい唯一の希望の糸が断ち切られ、混乱と絶望の中、ほかに知り合いもいない大阪へ嫌々ながら居を移したのです。
〈キタ〉と〈ミナミ〉の区別さえつかない大都会。ほとばしる街の活気とエネルギーに圧倒され、孤独な私はさらに自信を喪失。笑顔なんてとんでもなく、息をするのもやっとという有様でした。
そんなときです。「ごはんごしらえ」の言葉と出会ったのは。
やんわりとした優しさと温かみがあって、古めかしい表現なのに新鮮。大げさですが「~ごしらえ」という言いまわしに、人間の暮らしの営み――さらには私たち現代人が忘れかけている大切なものまで込められているように思えたのです。
その日以来、私はまめに台所(ワンルームの狭いものでしたが)に立ち、三食きちんと料理を作る――こしらえるようになりました。
元々料理は嫌いではなく、九州の実家でも、広島での独り暮らし時代も(恋人と過ごすときは特に気合を入れて)色々なメニューに挑戦したものです。
近所の商店街へ足繁く通い、関西ならではの食材の名前、調理方法を教えてもらいました。テンポが速くて、最初は乱暴に聞こえた大阪弁も、慣れてくると耳に心地よく、人懐っこくて情の深い人々とのやりとりにも心を開きはじめました。
「お姉ちゃん、これが加茂ナス。みそ田楽にしたらうまいで。作り方教えたろか?」
とは、ねじり鉢巻の八百屋のおっちゃん。
「えっ、てっちり食べたことないの? そらアカン。いま一人分包んであげるさかい」
これは、曲がった腰できびきび働く魚屋のおかみさん。
あのたこ焼き屋のおばあさんとも親しくなり、九州土産を持っていくなど、ささやかな交流も生まれました。
そうした日々が少しずつ、荒れ果てた心に光を灯したのでしょう。気がつけば、私はなくした笑顔と自信を取り戻しつつありました。
やがて勇気を出して求人に応募し、再就職。人の輪が広がるにつれ、行動範囲も広がり、趣味の教室などへも通うようになりました。
考えてみると、あの日の「ごはんごしらえ」が「人(人間関係)ごしらえ」になり、「笑顔ごしらえ」「勇気ごしらえ」「仕事ごしらえ」へと繋がったのです。
結局それから四年、大阪で暮らしました。そういえば、親しくなった人たちに訊ねたことがあります。
「ねえ、『ごはんごしらえ』って大阪独特の言いまわしなの?」
「え~そんなン言わへんわ」
若い世代は、一様に首を振りました。唯一聞いたことあると答えたのは、五十代前半の女性のみ。
「あたしが子どもの頃、京都のおばあちゃんが言うてはった気がする......」
「ごはんごしらえ」――もはや死語に近い言葉なのかも知れません。それでもいいのです。だってこの言葉は、私の心の中で生き続けますから。
(あ~疲れた。料理作るの面倒くさい)
いまや五十手前のおばさんとなった私ですが、たまに――いえ、しょっちゅうこう思います。そんなとき、必ず心の中で呼び替えるのです。「ごはんごしらえ」と――。
すると不思議と背筋が伸び、台所へ立てます。たとえ簡単な手抜き料理でも、こしらえる気持ちになるのです。
それは食事作りだけではなく、仕事や人間関係でも同じ。面倒なこと、途中で投げ出したくなる出来事にぶつかると、心の中で「○○ごしらえ」と呼び替えます。〈作る〉のは億劫だけど、〈こしらえる〉のは楽しい。私にはヘンな思い込みがあるのかもしれません。
「ごはんごしらえ」――私にとって、日々を慈しむ魔法の言葉。生涯大切に使い続けます。
(2019年2月19日 21:00)