遅刻常習犯のルーズな彼女は、テストの度に文末に句点、マルを打つのを忘れ、三年間減点され続けてきた。
「マルぐらい、別にどうでもよくない?オマケしてくれたっていいじゃん、先生のケチ!」
反省どころか、ふてぶてしく開き直る彼女に、遂に私の堪忍袋の緒が切れた。三年間言い続けてきたお馴染みの説教を一気に捲し立てる。
「文章の最後にマルを打つことは日本語のルールよ! 最後にマルもつけられない人間は、結局何をやっても未完のまま、途中で放棄する中途半端な人間ってこと! 正しい日本語を使いこなせるってことは、いっぱしの大人になれるってことなの! 尾崎さんは来月には社会人になるのよ?なのに、相変わらず遅刻ばかりして、こんなんで...」
「あっ! 先生見て! 雪だ! 雪が降ってる!」私の説教を遮って、はしゃいだ声を上げた彼女は窓を指した。
「本当だ、いつの間に...」雪に見惚れ、説教中だと言うのについ弾んだ声が飛び出てしまった。
ふわり、ふわり。鈍色(にびいろ)の黄昏(たそがれ)の空から校庭へと舞い踊る粉雪。
「お~、雪だ! 道理で今日は寒いと思ったよ」職員室にいる先生たちも浮き足立って窓辺に近づき、一様に物珍しげに雪を眺めた。
温暖な静岡では滅多に雪は降らない。だから皆、好奇心を抑え切れず、仕事も中断して雪に目を奪われていた。
窓を開けると、身も縮こまる冷気が一気に室内に雪崩(なだ)れ込んだ。暖房が効いた暖かい職員室に飛び込み、乱舞する細雪(ささめゆき)は床に落ちると瞬く間に溶け、消えてしまう。
「先生、雪って、なんて数えるの?丸いから、一粒、二粒とか?」
尾崎さんは窓の外へ手のひらを突き出し、楽しげに雪と戯れながら興味津々に尋ねた。
「雪はね、ひとひら、ふたひらって数えるのよ」
「ひとひら?なんか綺麗な響き! そっか、綺麗なものは数え方まで綺麗なんだね」
しみじみと感動する尾崎さんに新鮮な喜びを覚え、私はまるで自身を誉められたように、
「そうよ。日本の数詞は、とっても風流なの」と誇らしげに胸を張った。
「うん! ひとひらって、なんか花みたい」
「言われてみれば、雪って、白い花みたいに見えるね。細かい雪は、風花(かざはな)とも言うし」
窓から忍んでくる雪に身震いしながら頷いた。寒さが身に染みても、窓を閉めて静謐な雪の世界と遮断する気にはなれなかった。
「カザハナ?」外国人のようなぎこちない発音で訝しげに問い返された。
「風の花と書いて風花(かざはな)。晴天の空に風に舞う花びらのように、ちらちら降る小さな粒の雪のことよ」曇った窓硝子に指で『風花』と書いてみせる。
「風花かぁ、それも綺麗だね。日本語って、綺麗な言葉がいっぱいあるんだね。なんか、知って得した気分! ダルかったけど、今日は学校に来て良かったかも」
普段憎まれ口ばかり叩く尾崎さんの、いつになく素直な言動に教師魂が刺激され、ここぞとばかりに力説した。
「そうよ。日本語ってね、本当に綺麗な言葉がいっぱいあるの。せっかく情趣豊かな言語文化を持つ日本人に生まれてきたんだから、先生は是非ともあなたたちに、美しく正しい日本語を知って貰いたいの。だからこそ、」
「文の最後にはマルをつけなさい、でしょ?」私の言葉を遮り、彼女は得意げに言った。
「そうよ」人差し指で窓一面にとびっきり大きな『〇』を描き、『風花』という文字を包み込んだ。
「それ、デカすぎだから!」弾けたように大笑いする尾崎さんに、「これだけ超ビッグサイズのマルを描いたら、もう一生忘れられないでしょう?」と鼻高々に言う。
正六角形の雪の結晶で飾られた窓硝子の特大のマル。それは、高校(ここ)を卒業して新たなステージへ旅立ってゆく尾崎さんへの私からの餞(はなむけ)。
「こうやって先生と一緒に雪を眺めたこの瞬間も、忘れないと思う。卒業して何年か経っても、雪を見たらきっと思い出すよ」照れ臭げにはにかんだ尾崎さんの横顔を、私もずっと忘れないだろう。教師冥利に尽きる言葉を贈られ、目頭が熱くなる。雪が降るほど寒いのに、体の芯からじわじわ広がってゆく熱に心は温められ、満たされていた。
「私、学校をサボってばっかりだったけど、このまま逃げ癖のついたハンパな大人になりたくないし、自分が決めたことぐらいはちゃんと最後までやり遂げられる人間になりたいから、これからはちゃんと文章の最後にはマルを打つことにするよ」
風花が舞う、小春日和の澄み切った空のように晴れやかな顔で彼女は笑った。
「じゃあ、約束! 雪に誓って指切りしよう」私は窓の外に右手を出して小指を立てた。
「指切り~?小学生じゃないんだから」彼女はなんだかんだ言いながらも、素直にその小指を私の小指に絡めた。繋がった二本の小指に淡雪が静かに、厳かに降り注ぐ。
「ひとひら、ふたひら」彼女は唄うように幸せそうに口遊(くちずさ)んだ。続けて私も唄う。
「みひら、よひら」
清らかな白い花びらは小指の先に落ちては、儚く溶けてゆく。雪が消えてしまっても、この小さな約束はいつまでも消えずにいて欲しい。純白の雪にそう願った。
温暖な街に奇跡的に舞い落ちた白い花は、天の神様から尾崎さんら、卒業する生徒たちへの祝福なのかもしれない。
隣を振り向くと、雪のように純真な瞳が白い花を見上げていた。その二つの眼は、この雪景色を透き通し、未知数の可能性を秘めた光溢れる未来を映してゆく。
ひとひら ふたひら
みひら よひら
生徒たちがこれから進みゆく道々にも、どうかこの白い花のように無数の幸(さち)が優しく降り注ぎますように。そう祈りながら、無垢な横顔に声をかけた。
「ひとひら、ふたひらって数え切れなくなるくらい雪が積もる前に、さあ早く帰ろう」