理科の授業で蝶の変態について学んできたばかりの息子が、私に聞いてきた。この子は一体、私がどんな変態を遂げて今の姿になったと思っているのか......。そう思うと、ふつふつと笑いが込み上げてきた。
脱皮とは、動物が成長する過程で、古い皮を脱ぎ捨て、新しい外皮を形成する現象のことだ。即ち脱皮は、動物が成長する上で必要不可欠なプロセスであると言えよう。息子が理科で学習してきた蝶も、幼虫からサナギ、サナギから成虫と、数回の脱皮を経て大空へと飛び立つ。逆に言えば、脱皮というプロセスを経なければ、その動物としての完成形になることはできない。
完成形とは何か。
姿の問題か、それとも、その機能の問題か。
蝶で言えば、美しい羽を広げ、大空に舞い上がるその瞬間を、蝶の「完成形」と呼ぶのだろうか。
二十年ほど前、家の庭で育てていたパセリに、アゲハ蝶が卵を生んだ。卵がかえり、小さな幼虫が脱皮を繰り返し、丸々と太った幼虫へと成長した。
やがて、幼虫はサナギになった。蝶になる日を、今か今かと楽しみに待っていた。
そして、ついにその日がやってきた。
蝶は必死で硬い殻を突き破り、「最後の脱皮」という大仕事を終えた。
だが......。
その蝶が、大空に舞い上がることはなかった。片羽が開かぬまま、乾いてしまったのだ。
片羽のアゲハ蝶。
それでもその命は、生きようとしていた。バランスが取れない体を動かし、花の蜜を探すかのように細い足で歩き出した。
そっと手を差し出すと、躊躇うことなく手のひらに乗ってきた。
「きれい......」
最初に、そう思った。
虫かごに蝶を入れ、砂糖水で湿らせた綿を小さなコップに入れて置いてみた。しばらくすると、ストローを伸ばし、砂糖水を飲み始めた。蝶が自分の意志で、命をつないだ瞬間だった。
その日から、蝶との生活が始まった。
自然の摂理に反するのかもしれない。
そう思いながらも、虫かごの中で蝶を育て続けた。
片羽の蝶は、一ヶ月ほど生き、そして、この世を去った。天国には、美しい両羽を広げて飛んでいっただろうか。
片羽の蝶の一生が、幸せだったかはわからない。飛べない一ヶ月の命より、飛べる一週間の命の方が幸せだったかもしれない。
でも、飛べない蝶が見た景色は、その蝶にしか見ることができない景色だったと思う。だから私は、あの蝶が脱皮を失敗したのではなく、そんな脱皮の形だっただけなのだと思いたい。
運命には逆らえない。どんなに辛い現実に直面しても、それを変えることはできない。
だが、その事実を変えることができなくても、自分の気持ちを変えることはできる。生き方を変えることはできる。
脱皮は、「完成形になるため」にするものではなく、「生きるため」にするものだ。
これこそが真の「脱皮」の意味なのだと、片羽の蝶が私に教えてくれた。
泣くのも脱皮。
失敗するのも脱皮。
立ち止まるのも脱皮。
諦めるのも脱皮。
逃げるのも脱皮。
生きることは、無意識の選択の連続だ。そしてそれは、「脱皮」の連続とも言える。
そして、こう思う。私も、脱皮の連続で生きているのだと。
私の、ある一日を振り返ってみる。
朝食をパンにし、息子から「おにぎりがよかった」と言われる。
いつもバスが遅れてくるからと通常より二分遅く家を出たら、バスに乗り遅れる。
天気予報を信じて長靴を履いて出かけたら、一日中晴天に恵まれる。
息子から「顔に線かいた?」と、ほうれい線の深さを指摘される。
イライラしたり、焦ったり、がっかりしたり、ショックを受けたり......。
毎日いろいろな出来事に遭遇し、心は忙しく動いているけれど、今もこうして生きているのは、その都度、脱皮をしているからだ。
時に、後戻りしてしまうこともあるだろう。そしてそれは、一度歩んだ道を再び歩むことになる。
でもそれは「後退」ではない。同じ道でも、二度目に見る景色は一度目とは違うからだ。
二度目の道は、一度目には気づかなかった小さな花に目を留めたり、一度目には会えなかった人に出会えたり、そんな新しい「何か」が必ずある。だから、一見すると「後戻り」でも、それは紛れもなく「進歩」だと言えるだろう。
日々、脱皮。
これは私だけでなく、命あるもの全てのキャッチコピーと言える言葉なのだと私は思う。
「お母さん、脱皮したことある?」
そう聞いてきた息子に答えよう。
「お母さんは、毎日脱皮しているのよ」
そして、こう付け加えたい。
「あなたも、毎日脱皮しているのよ」
と。