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　月曜日の朝。これからまた一週間が始まるという時に、祖母は逝った。体中に転移したガンとの闘いに力尽き、この世にいることを諦めたような幕の引き方だったが、その死に顔には微かに安らぎが浮かんでいるように見えた。長い夜は明けた。祖母の苦しみは終わったのだ。五月の連休後、すぐのことだった。

　祖母の四十九日が過ぎた頃、がらんとした部屋の窓辺で揺れるハンゲショウに気がついた。小さな稲穂のような花をつけ、丈は私の腰くらい。一体、いつからここにあるのだろう。庭の片隅で何気なく佇み、静かに私を見つめている。その姿が、私の心をざわざわと落ち着かなくさせた。

　ハンゲショウは、どくだみとよく似た細長いハート形の葉が特徴的だ。盛りの時期は、青々と緑色に茂りながらも、花の近くの数枚だけ、ペンキを塗ったようにべったりと白く変化する。夏の眩しい光を浴びて、その白い葉は一層白さを目立たせる。この自然界にあって、不自然ではないかと思ってしまう程に。

　心の中が騒ぎ出した理由は分かっていた。ハンゲショウの姿が、私と重なるような気がしたからだ。白い葉を際立たせながらも、潤いほとばしる緑の葉との調和。そのコントラストを受け入れることができない。作り物のような葉に、違和感を抱いた。自分を見ているようだ。あの時抱いてしまった感情と似ている。それは、蓋をしたはずの祖母への感情。暮らした日々で現れた顔。思い出すと、胸がちくりとする。

　昨年十二月。市内で一人暮らしをしていた母方の祖母に、大腸ガンが見つかった。秋に入った頃から体調不良が続いていて、その原因をさがす為に何度も病院に通っていた。そしてようやく見つかったガンは既に体中を蝕み、「来年の夏は越せないかもしれない」状態まで進行していた。

　即、入院。祖母は人工肛門（ストーマ）を作った。ガンは切除できなかったので、ストーマの状態が落ち着いたら退院し、抗ガン剤治療をすることになった。騒がしくなった母の毎日。叔母と協力して、祖母の面倒を見る為に飛び回る日々が始まった。病院と家の往復、ストーマケアの仕方や注意点の勉強、空っぽになってしまった実家の管理、役所への手続き等々、大きな負担がかかっているのが分かった。

　でも、私には何もできないことを知っていた。せめて自分のことは自分でする、くらい。母の負担を増やさないようにする、くらい。祖母の容態が気になりながらも、学校、部活動、ピアノの練習、そして勉強、とルーティーンをこなすだけだ。日々の生活を滞りなく送るというのはなかなか大変だったが、隣の母屋に住む祖父母に助けてもらった。

　祖母が病気になって、考えなければいけないことが、今後の生活についてだ。退院したら、どうするか。一人で暮らせるか。いや、難しい。まず、生活に不可欠な車の運転ができない。ドクターストップがかかってしまった。それでは、買い物や食事が心配だ。入浴も一人ではできない。ストーマ装置の交換も自分ではできない。やはり、誰かと暮らした方が良い。祖父に先立たれてからの六年間、一人で家を守ってきた祖母だが、母たちの手助けが必要だ。同居することを誘ったら、祖母は「うん」と言うだろうか。気ままに生活できないことを、嫌がりはしないだろうか。我が家も叔母の家も、隣に母屋が建っているので、気を遣って遠慮してしまわないだろうか。私は心配だった。母たちはどんな決断をするのだろう。

　何日かして、母が提案した。

「おばあちゃんの残りの人生を楽しいものにしてあげたい。うちと順子叔母さんのうちの両方で暮らしてもらおうと思うんだけど、どう？」

私はすぐ賛成した。反対する人は誰もいなかった。今まで寂しい思いをしていただろうから、娘家族の中に混じって、賑やかに過ごしてもらおう、と一致団結した。娘たちが嫁ぎ先でどんな風に暮らしているのかを見てもらったら良い。病気になって塞いでしまった気持ちがきっと紛れるだろう、という考えだ。両方の家で暮らすと言えば格好良いが、母と叔母の予定を合わせながら、介護をしていこうというのが本来の意味だった。

　祖母の返事は意外なものだった。

「行っても良いの？悪いねぇ。」

と、あっさり承諾。いつもしゃんとして、心の隙を見せようとしなかった祖母がこぼした本音だった。驚くと同時に、母たちは胸を撫で下ろしていた。

　祖母と暮らせることになって、私は嬉しかった。どんな生活になるのか、何の話をしようか、想像するとわくわくした。母たちの子ども時代のエピソードを聞いてみたいと思った。又、上達したベートーベンのピアノソナタを弾いたら褒めてくれるだろう、と心が弾んだ。祖母に一時でも良いから、華やいだ時間を贈りたいと思った。

　そうと決まれば、準備をしなくては。五人家族の、物がひしめき合っている我が家に、一人分のスペースを作る作業。荷物や家具の移動に大わらわ。少しでも居心地良く、困ることがないようにしなければならない。しかし、そのしわ寄せを受けてしまったのが私の領域だった。

「千晴のベッドと千晶のベッドを、二段ベッドに戻そう。」

母の一声で、二段ベッド案が通ることになった。五歳の頃買った二段ベッド。最初は姉妹で喜んで使っていたが、それぞれの部屋を持ったことで、役割を終えているはずだった。それなのに、また元の姿に戻すとは。もちろん、従わなければならないことは十分に分かっていた。しかし、私は反抗したかった。私の領域を他の人に踏み込まれたくないと思った。

「嫌だ。」

ぼそりと言った。母は、私が小さい頃のように喜んで寝るとでも思っているのだろうか。二段ベッドにしたら、私のプライバシーがなくなってしまうような気がする。それに、ハシゴの登り下りも面倒だ。私の意見も聞かずに決めようとする無神経な母に腹が立った。

「絶対、嫌だ。」

もう一度言った。さっきよりも強い口調で。

　次の瞬間、母に火がついた。

「自分の主張ばかりしてはいけない。一緒に住んで、みんなで介護に協力する、と決めたはずでしょ。」

母の勢いは止まらない。更に続けて、

「こんな時に、我がままを言うのは間違っている。」

と、怒っている。私は何も言えなかった。その通りだ。母の言うことは正しい。ぐうの音も出ない。まだ反抗したい気持ちをぐっと押し込み、私は白旗を揚 げた。

　今思えば、母にも余裕がなくなっていたのだろう。見たこともないような目をしていた母。鋭くもあり、悲しそうでもあり、弱そうでもあり、でも強い目をしていた。私は、母の中にもう一人の母を見たような気がした。

　こうして、二段ベッドは十年前の姿に戻った。

　一月の終わりに、祖母は我が家にやって来た。初めての祖母との暮らし。今まで同じ市内にいても、泊まることがあまりなかった為、夜になり朝を迎えることが楽しみだった。自分の家にいながらも、祖母の家にいるような、よそ行きの表情で過ごした。しかし、何日かたつとイメージしていた生活とは、少し違っていることに気付いた。祖母は予想以上に、人の手が必要だった。電子レンジの使い方を教えてほしい。体温計はどこにあるか、そこの窓を開けて良いか...。その都度、誰かが手を貸した。よその家に住み始めたばかりで、戸惑うことばかりだったのだろう。何をするにもどうしたら良いのかを聞いてきた。今まで自分でできていたことも、家の勝手が分からず手が出せなくなった。私たちも、祖母が何に困っているのか理解しきれなかった。病気の心配をすることは覚悟していたが、生活動作の一つ一つまで手解きするとは予想外。だから、その回数が重なると少し面倒に思えた。もちろん、楽しく談笑する時も多かったが、祖母に対するちょっとの配慮が煩わしく感じる。そんな時は、少し気がとがめた。

　そうして、私と祖母の関係は少しずつ変わっていった。祖母は、時々遊びに行って甘えさせてもらう人から、私の家で療養する人になった。距離が一気に近くなったのだ。それは嬉しいことであると同時に、新しい悩みにもなった。今一つ、祖母との心の距離が摑めない。行き詰まりを感じるようになったのである。その悩みは団欒の時間にも及んだ。

　我が家には、隣に父の両親が住む母屋がある。農業を営んでいる祖父母の生活は規則正しく、朝昼晩の食事と、十時、三時の「お茶」の時間を決めて働いている。土曜も日曜もない。幼い頃は三時の「お茶」がとても楽しみで、お菓子目当てによく参加していた。楽しいコミュニケーションの時間だった。最近は、学校の帰りが遅く仲間に入れない。

　祖母が一緒に暮らし始めたことで「母屋で一緒にお茶をしないか」と再び声を掛けられるようになった。これは、母が仕事などで留守をしている時や、祖母の体調の良い時に、「外にも出られず、塞ぎ込んでもいけないから、気晴らしに一緒にお茶をする」という母の計らいだ。祖母はとても喜んだ。すっかり社会から遠のき、友達とも兄弟とも会えずにいる毎日にストレスを感じていたようで、生き生きとした表情で数歩先の母屋に出かけて行った。

　私は、帰りが早かった日など、時間に余裕がある時には祖母に付き添った。離れの家で、回復しない体調を嘆かれるより、賑やかにお菓子やお茶を囲んでいた方が、祖母の為にも私の為にも良いだろう。玄関の段差に注意し、むくんだ足の立ち居動作を介助し、「お茶」の用意を手伝って、祖母の傍らにいた。

　同世代の会話というのが良いのだろうか。祖父母たちの話は、とても長い。病気の話を一通りしてから、昔の親兄弟の話に、家や土地や資産の話までしていて、いつまでも終わりそうにない。下手をすると、夕飯の時間になってしまうと思うほどだ。側にいる私はというと、退屈していた。祖父母たちとの会話を楽しめず、早く離れに戻りたいと思ってしまった。ピアノの練習がしたい。塾の宿題がしたい。私の時間を奪わないでほしい。いつまで、こうしているのだろう。拘束されているみたいだ。この時間が煩わしい。悩んだ私は、いっそのこと、この不満を伝えてしまおうと口を開いたが、祖母の顔を見てやめた。離れで私たちと居る時には見せない、はつらつとした笑顔をしていたからだ。生きた笑顔をしている。そんな祖母の表情を見たら、何も言えなくなってしまった。私の心の声は、祖父母たちの会話に埋もれていった。

　私は、自分に戸惑った。祖母が楽しんでいる時間を面倒に思ってしまう自分がいる。祖母との暮らしが嬉しかったはずなのに、なぜこんな気持ちが生まれてしまうのだろう。
　私は祖母が好きだ。優しくて、話を聞いてくれて、どんな時も味方になってくれる。ピアノが上達すれば喜んでくれた。成績が下がったと言えば励ましてくれた。いつでも認めてくれることが心地良い。目標達成の報告に行った時などは、満面の笑顔で喜び、褒めてくれる祖母。そんな祖母が大好きだ。

　私の時間が空いている時、都合のつく時に会いに行っていた祖母。私の一方的で身勝手な訪問を、何も言わずに受け入れてくれた祖母。その祖母と私は、今、同じ屋根の下で暮らしている。「おはよう」「行ってきます」「ただいま」という挨拶を、毎日交わす家族だ。この急激な接近は、祖母とどのような距離でいれば良いのか、私を分からなくさせた。

　祖母との生活の中で、たくさんの感情が生まれ出した。安らぎの中に、不満や戸惑いが生まれた。そんな自分が嫌で誰かに相談したくても、口に出すと心が一層乱れてしまいそうになり、できなかった。声にしたい声、言葉にしたい言葉に蓋をした。

　祖母は、叔母の家でも時々暮らした。母と叔母の都合で、片方の負担が大きくなりそうになると、祖母の住む家を変えて調整した。やっと慣れてきたところで家を変えさせられる祖母には負担が大きかったかもしれないが、そんな素振りは一切見せない。それどころか、

「嫁に出した娘たちと暮らせて幸せだよ。」

と言って、家族全員を安心させてくれた。私は、正直なところほっとしていた。自分の中では収集のつかない感情をリセットできる、そして、説明のつかない自分の存在を忘れられる、と思ったからだ。祖母の前では取り繕っている自分が浮き彫りになる。祖母と暮らせて嬉しい私と、どこか取り繕ってしまう私で苦しくなる。狭間で揺れる心。なぜ、心は決めた所にとどまっていてくれないのだろう。

　春。学校では新年度がスタートした。小学生の頃は、新しい何かが始まることに、ドキドキ、ワクワクとしたものだ。しかし、私もついに中学三年生。どちらかというと、新しく始まることが心配で、落ち着かず不安な気持ちになっていた。

　祖母は、この春をどう感じていたのだろう。抗ガン剤治療の成果はほとんどなく、むしろ副作用による足のむくみに苦しんでいた。部屋の移動でさえ、何かにつかまりながら足をする ように歩く。目と鼻の先にある母屋に行くこともできなくなっていた。楽しくおしゃべりをした「お茶」のお誘いも断らざるを得なかった。

　春。やわらかな日差し 。生暖かい風。草や木の若葉が、一斉に萌え出る季節。生命力あふれる季節の中で、祖母の命の灯は、徐々に弱っていった。

　祖母の側にいると「死」の足音が聞こえていた。ベッドで横になっている時間が増えた。体を起こすことに手間がかかる。食事がとれない。声に張りがない。体は骨と皮。でも、足は象のようにぱんぱんにむくんでいる。私は怖かった。祖母が祖母ではなくなったようで怖かった。更に狭くなってしまった祖母の世界。もはや、やせた腕を伸ばした程度の広さしかない。

　現実は無情なもので、病状は悪化の一途をたどった。とうとう、祖母は救急車で運ばれ再入院となった。

　お見舞いに行った私に、

「これが最期だと思って、おばあちゃんに会いなさい。」

と母が言った。その言葉に覚悟を決め、病室のドアを開けた。私は、息をのんだ。そこには、痛み苦しみ、悶える祖母がいた。すかさず母は側に駆けより、背中を摩る。

「お母さん、痛いね。大丈夫だよ。今、先生が来てくれるよ。もう少し我慢してね。ここにいるからね、お母さん。」

何度も何度も声をかける母。驚愕のあまり、私の体は動かなくなった．凍りついたようにその場に立ちすくみ、怯えてしまった。

　怯えながら、祖母と一緒に住むことになった時を、思い出していた。あの時、私は嬉しかったのだ。したいこと、してあげたいことがたくさんあって、心が弾んだ。でも、過ごしているうちに、抱きたくない別の気持ちが生まれてきて、どうすれば良いのか分からなくなってしまった。本当は、閉じこもってしまった祖母の世界の窓を、私が開くはずだった。その役割を果たしたかったのに。

　胸がつぶれそうだ。甦る記憶。突きつけられた現実。そして、後悔。もう遅い...手遅れなのか。祖母の命は尽きようとしている。今、私に何ができるのだろう。
　その心を見透かしたように、母が言った。

「千晴、背中摩ってあげて。」

その言葉で、やっと体を動かすことができた。そっと祖母のベッドに近づき、背中に手をあてる。祖母の背中は温かかった。どうか、この温もりが消えませんように。私はそう願いながら摩り続けた。今までの時間を埋め合わせたい。濁ってしまった思い出を、クリアにすることはできないかもしれないけれど、せめて祖母が私にとってかけがえのない人だと表したかった。ただひたすら、それだけを思って摩り続けた。すると、祖母との心の距離が不思議な程近くなるのを感じた。もっと早く、この距離を見つけていれば...。それとも、回り道をしたからこそ、見つけられた距離なのだろうか。苦しんでいる祖母の顔をそっと見ると、口元に微笑みが浮かんでいた。

　再入院から七日目の朝、祖母の命の灯は静かに消えた。

　それから、四十九日が過ぎた六月末。今年の関東地方は梅雨明けが早く、まだ六月だというのに真夏の陽気だ。

　祖母が亡くなってからの私は、以前と変わらず学校、塾、部活動、と忙しい毎日を送っている。慌ただしく過ぎる時間の中、家には一ヶ所だけ、時が止まってしまったような空間がある。それは、生前祖母が使っていた部屋だ。着ていた洋服。愛用のバッグ。読んでいた雑誌。祖母の面影を感じ、私はたまらない寂しさに襲われる。

　その部屋の窓辺で、ハンゲショウが揺れている。白い葉は、一層美しさをアピールし、緑の葉はぐっと深みを帯びている。それを見ると、あの苦しんでいた祖母の表情を思い出す。祖母を煩わしく思ってしまった私の感情を、最期の瞬間に許してもらったと信じたいが、後ろめたさはどうしても拭えない。だから、無意識のうちにハンゲショウから気持ちをそらす。心の蓋を開けることはできない。

　でもハンゲショウをじっと見つめて考えた。私に、何を伝えたいのだろう。辛い感情を呼びおこして、私にどうしろというのか。私の姿と重なるハンゲショウの訴えたいことは、何なのだろう。

　夏休みに入った。まとわりつくような暑さが体にこたえる。溶けてしまいそうだ。

　私は、今年も夏の行事としてボランティア活動に参加した。このボランティア団体は、福祉施設や病院等を訪問し、愛唱歌を一緒に口ずさむ、というふれあいコンサートを行っている団体だ。母がこの団体に所属していることもあり、毎年仲間に加えていただいている。伺った介護施設では、多くの利用者さんたちが楽しみに待ってくれていて、一時間程のレクリエーションタイムを過ごした。短い時間で二十曲近くを盛り込むのは少々せわしないが、笑いあり、おしゃべりありの和やかな一時が作れた。私が生まれてくるずっと前の大正、昭和の歌がほとんどで、利用者の方に教えてもらうこともあった。大きな声で歌う人、手拍子をする人、ただ歌詞カードを見ているだけの人、体を動かせずベッドに横たわったままで参加する人...。様々な健康状態の方が、様々な姿で楽しんでくれた。

　特に、私たち中学生五人が歌った「翼をください」は好評。若い声が素晴らしいと、涙を流して褒めてくださる方もいた。

　活動が終わって控え室に戻った、私は母を見て驚いた。目が赤く潤んでいるのだ。泣いていた？施設の利用者の方たちは、祖母と同じ年代だ。思い出して辛くなってしまったのだろうか。

　思えば、今回の活動に参加することを、母はためらっていた。

「まだ参加するのは早いかな。」

でも、しばらく迷った末に、

「毎年お世話になっているから。」

と、参加を決断した。施設に行って利用者の方たちに会えば、祖母の介護のことを思い出すだろうが、そんな空気に触れるのも悪くない、と決断したのだ。決めたことを後悔しているわけではないだろう。きっと、すぐに明るい母に戻るはず。私は軽く考えていた。予想通り、帰る頃には笑顔があった。いつも通りの母にほっと息をついて、車に乗り込んだ。

　ところが、母は、

「泣いちゃった。」

と突然言った。普段と変わらない声ではあったが、明らかに平静を装っている声だ。私は心配になった。そもそも、母はあまり泣く人ではないからだ。ましてや「泣いた」と口にする人ではない。祖母が亡くなって悲しい時でも、崩れることなく耐え、目の前のやるべきことを気丈にこなしていた。辛い思いも、寂しい思いも、人一倍ありながら内に秘めて見せようとしない人だ。だから、「泣いた」と言った母にどんな言葉をかけたら良いか、困ってしまった。見てはいけない母の表情にうろたえた。

「おばあちゃんとね、同じ靴の人がいたの。」

慌てる私をよそに、母は話を止めなかった。

「さっきね、私の隣に座っていた方の靴がおばあちゃんと同じだったの、足がむくんで履けなくなっちゃったから、大きいサイズにしたいって言ってたじゃない。あの靴と同じだったの。同じ靴を見て、涙が止まらなくなっちゃった。」

「同じ」を繰り返す母。いつもの母とテンポが違う。しかし、すぐその後で、

「あ、『翼をください』良かったよ。中学生の声は透明でいいね。みんな感動してくれたと思うよ。」

と取って付けたように言った。私には、母がいつものテンポに戻す為に言ったようにしか聞こえなかった。

　母はいつも全力だ。祖母との生活。祖母の介護。全力で親孝行をしていた。祖母が末期のガンだと分かった時から。我が家と叔母の家で介護をする案を出した時から。母は祖母の最期まで寄り添う決心をしていたのだと思う。穏やかに、安らかに。普通の生活を大切に。自分たちが娘として祖母の元で育っていた頃のように。最後の一ページを幸せなものにする為に懸命だった。祖母の暮らしやすい環境を作る為に、二段ベッドに戻す。家の中に籠ってばかりで気が滅入ってしまわない為に「お茶」に誘ってくれるよう頼む。こうした一つ一つに強すぎるくらいの気持ちを込める。母はそういう人だ。

　祖母の介護をしながら、仕事や母親業を両立させていた母を、私は尊敬している。だからこそ、行動と気持ちを休めずにいることが、心配だった。母には、張りつめた気持ちを緩める余裕すらないように見える。

　それは、祖母が亡くなってしばらく経つ今も変わらない。この世に親がいなくなってしまった悲しみを、もっと表に出せば良いのに、日常の会話を普通にして、家の中を明るくしてくれる。しかし、母の朗らかな笑顔の奥には、涙でにじんだ笑顔があることを、私は感じていた。

　だから、今回ボランティアに行って、祖母の面影を見て涙した母に、ほっとした。こうした些細なことに触れて、祖母のことを思い出したら良い。思い出に浸ってほしい。心の糸をいつも張っていなくて良いから、弱い姿を見せても、誰も笑ったりしないのだから、心のアルバムをめくって、祖母との日々を振り返ってほしい。そうすることで、母自身が悲しみを乗り越え、人生がもっと彩り豊かなものになるのではないか、と私は思った。

　母は、車を運転しながらもう一度言った。

「同じ靴を見て...泣いちゃった。」

「良かったね。」

と、私は返事をした。

　ハンゲショウは「半化粧」と書くこともあるそうだ。葉の半分ほどが白くなるからだ。半分というのは、表側だけで裏側は緑色のままという意味。表面を粧って体裁を整えようとしているなんて、まるで人間みたいだ。

　誰だって、良く見られたい。しかし、良く見せることはエネルギーのいることだと思う。そのエネルギーがハンゲショウにはあるのだ。内側から作り出すエネルギー。与えられた場所で根付く為に光や水を吸収するエネルギー。か弱そうに見えるあの姿に、そんな力があったのだ。そして、その力を発揮するのは、ほんの二、三週間のことだ。八月に入る頃には、すっかり色落ちして、葉は緑一色になってしまう。

　ある日、母がぽつりと言った。

「おばあちゃんの部屋から、ハンゲショウが見えたんだ。」

ドキッとした。私にとって、ハンゲショウはしまい込んでいる感情を開ける鍵のようなものだ。その鍵が予期せぬタイミングで現れた。しかも、母の口から。

「知ってたよ。今頃どうしたの？」

「今頃」と言ったのは、「既に盛りが過ぎているのに」という意味。気付いたにしては、時期が遅い。

「ずっと思っていたんだよ。六月の終わり頃ね。綺麗だったよね、ハンゲショウ。鮮やかだったぁ。」

「えっ？鮮やか？」

母の言葉に、目が覚める思いがした。

「うん。白と緑の二色がはっきりしていて、主張の仕方が良いと思ったよ。堂々としてる感じが立派に見えたなぁ。」

驚いた。母にはそんな風に見えるのか。何か言いたそうだとか、私に挑戦しているようだとか、そう感じていた私の見方とは全く違う。今までずっと、曖昧で中途半端なイメージを持っていたが、「鮮やか」という言葉一つで、別の植物になった。見る人によって、こうも変わってしまうものなのか。

　母の言葉を聞いた後、改めて盛りのハンゲショウを瞼に浮かべ、考えた。ハンゲショウは、人の心を映すのかもしれない、と。母の目に「鮮やか」と映るのは、全力な思いがあるからだ。辛くても上手に粧って、明るく見せる姿は、悪いものを隠すということではなく、美しく見せる為の彩りなのだろう。化粧上手、ということかもしれない。では、私の心に映るものは何か。やはり、心の迷いだ。このぐじぐじした気持ちの表れが、ハンゲショウを曖昧に見せるのだ。

　白と緑。ハンゲショウは二色の葉が存在している。その二色は、どちらも主張している。どちらも譲っていない。堂々としている。だから立派に見えるのだ。片方では駄目だ。白と緑の二色が同時に存在して、互いの存在を認め合ってこそ、鮮やかさが際立つのだ。

　私の心の中にも、二つの感情があった。隠してしまいたい気持ちと見せていたい気持ち。隠してしまいたい気持ちは、何とか繕ってごまかそうともしたが、すればする程苦しくなった。胸が痛かった。今、私は、蓋をしたはずの感情を受け入れる時期に来ているのかもしれない。受け入れることで、祖母との時間に命が宿り、私の心で生き続ける。

　感情と向き合う。そして、認める。それから、自分の姿をハンゲショウに映していけば良い。

　ハンゲショウは、夏の日差しがよく似合う。白く粧い、華やかに変身する。緑を深くし、生命を支える。二色のコントラストは、鮮やかな輝きを放ち、その調和が美しい。

　私が鮮やかなハンゲショウと重なるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

　ハンゲショウが、気持ち良さそうに風に揺れている。