第70回全国小・中学校作文コンクールの中央審査で各賞が決定しました。文部科学大臣賞3点を要約して紹介します。作品の全文は、要約の下の「全文を読む」をクリックしてご覧いただけます。(敬称略)
<中学校>
「かけがえない命をそっと ~名前がつなぐもの~」
宮城県仙台二華中2年 太齋純香(ださい・すみか)
6月中旬。私は、祖父の生家のある宮城県白石市の越河(こすごう)へと向かっていました。少し不安で、怖いけれど。この木々のトンネルを抜けた先に、「私」を見つけにいくために。
「ださい」。私はこの苗字(みょうじ)に、嫌な思いを抱えてきました。小さい頃は名前を聞かれた時、「純香」とだけこたえていたことを覚えています。苗字が恥ずかしかったからです。自分の名前に自信を持つことができなかったのです。
名前はラベルになる。どこまでも貼り付いてくる。一方で名前なんて重要じゃない、自分は自分だ、と思いたい。二つの考えは、いつも私の中でせめぎ合ってきました。
祖父が住んでいた家の前に「太齋館(たて)」という館跡があるらしいと知ったのは、私が自分の名前と真剣に向き合いたい、と思い始めた頃でした。館があった山を見てみたいという好奇心から、私は越河へ向かうことを決意しました。
道路端に「片倉小十郎」と書かれた旗がありました。小十郎は戦国武将・伊達政宗の重臣で、その一帯をまとめていました。片倉家は代々、小十郎を襲名したそうです。先代の名誉や精神を受け継ぎ、気持ちを新たにするという願いからです。名前は人と人との絆の役割も果たしていたのです。そして、太齋という武将が片倉家に仕えていたと、祖父が教えてくれました。
館を守っていたその武将の子孫が越河に住むようになったのではないか。祖父が昔、文化財保護委員長をしていた片倉小十郎の十五代目から、そう教わったそうです。
祖父が小中学生の頃は、戦争の真っただ中でした。みんなが生きるのに精いっぱいだったそうです。
「小さい頃を思い出すよ、必死に畑仕事をしていた時に見えていた山とか」
祖父はじっと館のあった山の方を見上げていました。
苗字には先祖の確かな存在を、まだ見ぬ子孫へとつなげていく役割もあるのではないか。下には親の願いのこもった名前がある。私はいつの間にか、自分の名前をいとおしく思い、名前に自信が持てるようになっていました。
それは、先祖の歴史を知り、命をつないでくれた地を訪れ、その風を肌で感じることができたからです。彼らと血がつながって、今ここに生きている。それを苗字が証明しているということが、とてもすてきに思えたからです。
名前は他者との関係の間に成り立つのだと思います。名前を呼んでくれる、いとおしんでくれる家族や友達がいるからこそ、私は私でいられるのだと思います。いつも笑顔で声を掛けてくれる友達にもまた、名前があるのです。
名前は、相手を認識する初めの情報です。その人や、その人を大切に思う人々を理解するための鍵でもあります。これまで避けてきた、名前についての話題。今は、それを話してみることで、周りの人のことをもっと好きになれるような気がしています。自分のことも、きっと好きになれると信じています。
私は、自分の名前に自信をもって、これからの人生を歩んでいきたいと思います。
私の名前は太齋純香です。あなたの名前は何ですか?(指導・畠山大輔教諭)
◆トンネルを抜けて
抜けるような青空。目に染みる緑の森。白石川の清流の恵みを、たっぷりと受けた水田。
日本の田舎といえば誰もが思い浮かべるであろう、絵に描いたような原風景の中を、私と祖父を乗せ、母が運転している車が進んでいきます。
窓を開ければ、澄んだ風と共に、鳥のさえずりがどこからともなく聴こえてくるような六月中旬の昼下がり。父方の祖父、母、そして私は、宮城県白石市の越河(こすごう)という地区へと向かっていました。
祖父の生家のある越河は、私の暮らしている宮城県の最南端、つまり福島県との県境に位置しています。祖父母の話にはよく出てくる越河ですが、私が実際に行ってみるのは初めてのことでした。
白石市の市街地を抜けると、モダンな造りの家々の間に、ちらほらと水田が目立つようになってきます。五月に田植えが終わり、すっかり根ついた稲が、青空に向かってすくすくと伸びていました。
越河へは、福島県へと続く一本道を、さらに進んでいかなくてはいけません。いつの間にか、先程までの水田は見えなくなっていました。一車線しかない国道四号線は、鬱蒼(うっそう)と茂った木々に囲まれていきます。
向かう先には、澄んだスカイブルーの空。ほんの昨日まで、曇ったり雨が降ったりしていたのが、まるで嘘(うそ)のような晴天でした。
未知の場所へ向かうのは少し不安だけれど、怖いけれど、それでも、進んでいきます。この木々のトンネルを抜けた先に、あの大空の下に、「私」を見つけにいくために。
◆葛藤(かっとう)の日々
「ださいすみか」。
この名前を初めて聞いた時、みなさんが率直に思うことは何でしょうか。
「太齋純香」。
この名前を初めて見た時、考えることはどんなことでしょうか。
これは、紛れもなく、今この文章を紡いでいる私自身の名前です。
生まれて六日目。「純香」と名付けられたその日から、私はこの名前とずっと付き合ってきました。その年、十四年。
多くの場面で名前を名乗るたび、人は様々な反応を示します。ある人は目を見張り、ある人は苗字(みょうじ)を何度も聞き返し、大勢の前で名乗る時には、今まで興味もなさそうにそっぽを向いていた人が、急に視線を向けてくることがあります。それくらい、「太齋」という苗字は、初めて聞いた人にはインパクトのあるものなのでしょう。もう十四年も付き合ってきた私には、その驚きを体感することはできないけれど。
インパクトはなかったとしても、私はこの苗字に対して、ずっと嫌な思いを抱えて生きてきました。小さい頃は、「名前何?」と聞かれた時、できるだけ、「純香」と、下の名前だけで答えるようにしていたことを覚えています。
「ださい」という苗字が恥ずかしかったからです。言ったら、変な目で見られるのではないか、仲間外れにされるのではないか、という恐怖もありました。自分の名前に、どうしても、自信を持つことができなかったのです。
幸い、これまで生きてきた中で面と向かって何かを言われたり、いじめられたりすることはありませんでした。けれども、名前の点呼の際に向けられる、めずらしいものをみるような好奇の視線は、いつまでたっても慣れることはできません。
ずっと抱えてきた、名前への嫌だという思い。それが、新たな局面を迎えたのは、四月の上旬のこと。庭に咲くハナモモが満開になり、あでやかなピンクの花びらを、そよ風に微(かす)かに震わせる頃でした。人生で初めて、署名をする、という体験をしたのです。
署名。それは、自分の名前を記すことで、何かに賛同しようとする自らの意志を表すことです。自分の意見を相手に伝える時には、必ず納得できるような理由や根拠を伝えるようにしなければならない。今までそう教えられてきた私には、自分の名前のみで意思表示をする署名が、とても新鮮な出来事に映りました。同時に、自分の意見を代表するものとなる「名前」の重要性を改めて感じたのです。
名前は、重要。幼い頃から、そう思っていました。いつもいつも、名前に対するコンプレックスを抱えてきたからでしょうか。
「自分は変われる。変わることができる。」と、よく言われます。確かに、そうかもしれません。努力すれば、変えられる。好きな自分に、近づけるかもしれない。
けれども、名前は変えられません。正確には変えることもできるけれど、日本では裁判など、長くて大変な手続きが必要になり、実質的には難しいようです。
一度ついた名前は、「太齋純香」というラベルになる。そして、どんなに頑張っても自分自身が変わったとしても、変わることなくどこまでも、どこにでも貼りついてくる。それは、姿こそ見えないけれど、確実に重しとなり、心にのしかかってきます。
その一方で、名前なんて重要じゃない、名前がどうであろうと自分は自分だ、と思いたい、言ってほしい、という正反対の私がいるのです。じゃあ、私は太齋純香という名前でなかったとしても、例えば①という名前だったとしても、自分でいられるのだろうか。それは、本当に私と言えるのだろうか......。
二つの考えは、いつも私の中でせめぎ合い、しのぎを削ってきました。
その思いが、署名という出来事によって引きずり出された今だからこそ、私は名前について調べてみなければいけない。名前は昔からどのようなものとして捉えられ、人々の間に生き続けてきたのか知りたい。そんな思いが芽生え始めたのです。
◆名前の歴史
自分の本当の名前を、親や配偶者以外には決して知られてはいけない。この習慣を、日本では本名を指す「諱(いみな)」とかけて「忌み名」と呼んでいた......。
これは、名前の歴史を知りたいと思い、図書館から借りてみた「名前の禁忌習俗」という本から知ったことです。
実は、人々は二つ以上の名前を持っていたというのです。生まれた時につけられ、親と自分との秘密とされる本当の名前「諱」と、他人とコミュニケーションを取るためのもう一つの名前であり、通称の「字(あざな)」。どうやら昔は、自分の名前を知られることは、相手に支配されることと同じだ、名前を知られるイコール呪(のろ)われる、と考えていたようなのです。
驚いたのは、「諱」や「字」という名称は違えど、日本だけでなく、どの民族にも名前を隠す文化があったということです。昔は今のように、SNSですぐに広まるということはなかったはずです。それにもかかわらず多くの民族がこの習慣を持っていたというところに、とても興味をひかれました。それだけ、人々にとって名前は大切なもの、力を持ったものとして捉えられてきたということが分かりました。
◆思いをつなぐ
いつまでも続くかと思われた木々がぱっとなくなり、視界が急に開けました。辺り一面に広がった水田の間に、ぽつりぽつりと一軒家が建っています。
ここが祖父の生まれ育った村、越河でした。
私たちは車を降り、高速道路に沿って延びる細い道路を歩いています。
右手には、太陽に向かって青い穂を一生懸命に伸ばす水田が、ずっと遠くまで広がっています。時折、日光が水面にあたってはね返った光が、私の目を射して、まぶしいくらいでした。
ふと私は、道路の右わきに一本の旗が立っていることに気が付きました。
『俺が行かずば、誰が行く。片倉小十郎(こじゅうろう)。』旗には、そのような文字が力強く躍っています。
「これ......。」
思わず歩みを止めた私に、祖父が近寄ってきます。
「観光客用の旗かな。この辺りは昔、片倉小十郎という武将が治めていたんだよ。」
私の住む宮城県は、伊達政宗(だてまさむね)という戦国武将によって治められていました。その重臣が、片倉小十郎という武士だったとのこと。片倉家は、白石城という城を与えられ、その一帯をまとめていました。
「あれ、有名ですよね。小十郎が、大坂夏の陣の時に、真田家の娘を引き取って大切に育てたっていう話。」
後ろを歩いていた母も、いつの間にか私の隣に立って、旗を見上げていました。
「ああ、それは、二代目の小十郎、重綱だよ。一代目の景綱の方が有名かな。片倉家は、一代目から十代目まで、全員が片倉小十郎と名乗っていたからね。」
父や祖父の名前をそのまま受け継ぐ。
片倉家でも行っていたこれもまた、名前がたどってきた歴史の一ページを彩る文化であったと、本には書いてありました。その文化のことを、日本では「継名」や「襲名」といいます。「継名」は初めて聞きましたが、「襲名」の方は、歌舞伎の世界などにあると、何となく聞いたことがありました。
改めて襲名について調べてみると、これには、先代の名誉や精神を受け継いで、気持ちも新たに向上していくという願いが込められているということが分かりました。
この考え方は、血のつながっていない主従関係においても、家来を手なずけるための方法として用いられてきたようです。敬避するべく主君や師匠の名前を自ら称することで、社会的な権威にあやかり、主従の絆が確かめられ、様々な点で有利になるからです。実体はなく、敬われるべき名前を逆手にとって武器にする。とても頭のいい戦略で、面白いな、と感じました。
さらに調べると、同じような考え方に、「通し字」もあるということに気付きました。
通し字とは、通り字とも言い、名前に先祖の一字を継承することです。これは、現在の日本の名付け文化にも色濃く根付いていると思います。
ただ単に、自分を他人と区別しやすくするためのラベルのようだと思っていた、名前。ずっと呼ばれ続けるからこそ重要だけれど、それが全てを表すわけではないと願いたかった、名前。調べてみることによって、私は、名前は自分のためだけに意味があるものではないことに気が付きました。人と人との絆をつなぐ手段としても、名前は大きな役割を果たしていたのです。
◆太齋館へ
祖父の住んでいた家の前に、「太齋館(ださいたて)」という館跡があるらしい。
それを知ったのは、私が名前の持つ意味について調べてみて、自分自身の名前とも真剣に向き合ってみたい、という思いを抱き始めた頃でした。私を苦しめてきた、「太齋」という苗字の由来を知りたい。
しかし、簡単に見つかるかと思っていた自分のルーツ探しは、思いがけず進みませんでした。確たる資料が、なかなか見つからなかったのです。本来、「齋」という漢字は、「斎宮(さいくう)」や「潔斎(けっさい)」など、神道(しんとう)に関わる行事や物事につくものです。そこから、ご先祖様は神社などとの関係が深いのではないか、という推測はできても、それ以上調べることができませんでした。
祖父の兄弟で、家を継いだ方や、祖父のいとこにあたる本家の方。様々な方に祖父母を通してお話を伺ってみましたが、なぜ「太齋」という苗字を名乗るようになったのかは、誰も知らないようでした。
その中で聞こえてきた話が、「太齋館」についてだったのです。正確には、「太齋館」そのものは残っていません。館があったといわれる山が残っているだけです。それでも、山を見てみたいという思いと、祖父の生まれ育った地に行ってみたいという好奇心から、私は太齋館へ向かうことを決意しました。
「城」ならよく聞くけど、「タテ」って何だろう。そもそも、「タテ」ってどんな漢字を書くのだろう?「建て」「縦」「盾」?
最初に「太齋館」という名前を聞いた時、私の頭に浮かんできたのは、無数のクエスチョンマークでした。戸惑う私に、祖父は、館とは小規模な城や砦(とりで)のことで、軍備を伴い、藩主の一族や重臣などが住んでいた建物のことだと教えてくれました。
「昔、仙台藩主だった伊達政宗に仕えていたのが片倉小十郎で、その片倉家に仕えていたのが、太齋っていう武将だったんだね。」
田んぼに挟まれた農道で、太齋館が建っていた山を仰ぎ見た祖父が言いました。
「館があったのは、あの山のどの辺りなの?」
「山の左側の、あの段差になったあたりかな。あのへこんだところに、館があったんだ。」
祖父が、山の少しへこんで平らになった部分を指します。
「今は木が生い茂っているから、形が少し見えにくいかな。秋から冬にかけて、紅葉が終わって木だけになると、もっと見やすいんだけどね。」
「そうしたら、山にも登れるかな。」
「そうだね。登り口のところくらいまでは、行けるかもしれない。」
できることなら、太齋館のあった山に登ってみたい。出発前から、私が抱いていた願望でした。
祖父は登山や山の事にかなり詳しく、私も山登りが大好きだから、少しは山を歩けるかもしれない。そう期待していたのです。けれども祖父に、この山は草や木がぼうぼうに生えていて、とても足を踏み入れることなどできないだろうと言われ、残念に思っていました。
「秋も終わった頃に、また来てみるといいかもしれないよ。田んぼの稲も刈り取られて、景色もがらりと変わっているはずだから。」
「わかった。そうする。」
館のあった部分に吸いこまれるように、ゆらりゆらりと通りすぎていく真っ白な並雲。まだ短い稲が、風に揺られて奏でる無数のささやき。
「おじいちゃんは昔もさ、こういう風に山を見ていたの?」
祖父は私の方をちらりと見てうなずきます。
「そうだねえ。改まって立ち止まって眺めることはなかったけれど、そこらへんで走り回っている時とか、家の窓からとか、いつもこの山は見えていたなあ。小さい頃は、太齋館が建っていた山だということは知らなかったけれどね。」
「子供の頃は太齋館のこと知らなかったの?」
「うん。そのことを知ったのは、大人になって、白石市の役所に勤めてからのことなんだ。」
太齋館を守っていた代表者だったのが「太齋」という武将で、その子孫が越河に住み、ふもとで百姓を始めて代々つながってきたのではないか。
この話をしてくれたのは、祖父が昔、教育委員会に勤めていた頃、文化財保護委員長をしていた片倉小十郎の十五代目の方だったそうです。祖父は、白石市の歴史について、その方から様々なことを教えてもらったと言います。
「それまでは、自分の住んでいた地域の歴史なんて全然知らなかったんだけどね。役所に勤めるようになってから、その方にいろいろ教えてもらったんだよ。その中に太齋館の話も出てきて、そこで初めて、この山とご先祖様との関係について知ったんだ。」
「おじいちゃんが役所に勤めてなかったら、ここに太齋館が建っていたということが、今でも分からなかったかもしれないね。」
「そうだね。片倉さんには、お家にまで伺って、たくさんお話を聞いていたんだよ。そこで、太齋という苗字の話になってね。資料もいっぱい見せていただいたんだよ。」
残念なことに、太齋家の家系図は今はもうありません。二度ほど起きた火災によって焼失してしまったからです。
しかし、太齋という武将が片倉家に仕えていたという記録は、片倉家の家臣の系譜をまとめた史料に残っていました。
「詳しい地図だと、太齋館という名前も載っているんだよ。でも、子供の頃は太齋館の話は聞いたことがなかったから、私のお父さんやお母さんも知らなかったのではないかな。」
祖父がお父さんやお母さんという言葉を口にしたことに、私は新鮮な驚きを覚えました。祖父の子供時代の話は、今まで一度も聞いたことがなかったからです。だからこそ、聞いてみたいな、という興味もありました。
「おじいちゃんは子供の頃、どんなふうに過ごしていたの?」
「どんなふうにといってもねえ。私が小学生だった頃は、ちょうど日本が戦争をしていたからね。」
昭和八年生まれの祖父。小中学生の頃は、戦争をしている真っ只中(まっただなか)だったそうです。みんなが、その日生きるのに精一杯だったというその時代。どの家も、暮らしはよくなかったそうです。
「おじいちゃんの家もそうだったの?」
「その頃は大変だと思っていたよ。一番上の兄が戦争に行ったからね。」
祖父は、お兄さんの代わりとして、朝は二時や三時頃に起きていたそうです。二番目のお兄さんと一緒に山で草取りをした後、学校へ。帰宅してからは家畜の世話をしていたといいます。また、祖父のお父さんがしていた炭を焼く仕事を手伝い、それを運んで売ったりもしていたとのこと。
「一番上の兄は戦死してしまい、その頃はすごく大変だと思っていた。でも、今考えれば、うちはとっても恵まれた家だったと思うよ。」
「どうして?」
田んぼをたくさん持っていたんだ、と祖父は言いました。
「周りの人に田んぼを貸して、年貢をもらっていた。他にいろんな仕事もしていたから、食べるものに困ることはなかったよ。その頃は、たいていの人が米に麦やじゃがいも、さつまいも、大根葉を入れて食べていたけれど、私の家ではそうはならなかった。みんなが同じ食事にありつけることだけでも、その当時からすればすごいことだったと思うよ。」
「そうだったんだ......。」
祖父のご先祖様、つまり私のご先祖様でもある方が、この辺りの土地を取り仕切っていたなんて、初めて聞いた話でした。
「田んぼは昔、こんなにきれいじゃなくてね、とっても小さいのとか、三角形のもあったんだ。建物も、ほとんどが建て替えられて新しくなっているよ。でも、全体のこの眺めは、変わらないものだね。」
「そうなの?」
「うん。多くの街が、今住んでいる白石市を含めて変わっていってしまったけれど、ここは懐かしい雰囲気があるんだ。小さい頃を思い出すよ、必死に畑仕事をしていた時に見えていた山とか......。」
祖父はそれっきり何も言わず、じっと太齋館のあった山の方を見上げています。私もその隣で、眩(まぶ)しい空に目を凝らしていました。祖父の見ている景色は、きっと私のそれとは違うのだろう。一体どんな景色が、祖父の前には広がっているのだろうと思いながら。
気が付くと、隣にいたはずの祖父は、水田の真ん中の一本道を、太陽のある方向に向かって遠くへと歩いていました。
八十代にしては背の高い祖父は後ろ姿。ふと私は、幼い頃、祖父にたかいたかいをして遊んでもらったことや、一緒に山登りをしたことを思い出しました。
寡黙で、自分から話しかけてくることがあまりない祖父。私が大きくなるにつれ、話す機会が少なくなってきていました。それでも、いつも畑でとれた野菜を段ボールにいっぱい詰めて送ってきてくれます。恥ずかしそうにお米を渡してくれる祖父の表情や、電話に出た時の優しい声を、私はひとつひとつ思い出していました。思い出しながら、光の方向へと歩んでいく、祖父のゆっくりとした足取りを見ていました。
これまで、苗字どころかご先祖様についてさえ何一つ分からなかった私。こうしてお話を聞き、実際に彼らが生きた地に足を運び、感じたことがあります。
歴史は、誰かが書き、伝え残していかなければならないということです。
ご先祖様一人一人が生きた証や土地との結びつき。それらは、今、ここまで命が繋(つな)がって、自分が生きているという確かな証拠に違いありません。それを迷宮入りにしてしまわないように、私はこれからも、太齋家の歴史を探り、後世へ伝えていきたいと思いました。
歴史を自ら守り伝えてきた、片倉家の方から祖父へ、祖父から私へ。今、小さな歴史のバトンが渡されたように、私には感じられます。この手の中にある、かけがえのないバトンを、歴史や史書だけでは語れない、ささやかなご先祖様達が生きてきた軌跡を、私は大切にしていきたいです。一人の歴史の継承者として。
太齋館の上からは、一体どんな景色を見ることができたのでしょうか。
今となっては分からないけれど、当時もきっと、向こうには山々が見え、眼下には、そこで毎日一生懸命に生活を営む、町の人々の姿が望めたはずです。私のご先祖様は、そんな風景を見下ろしながら、この町の歴史を、人々を、何ものにも侵略されることなく後世に残していくために、太齋館を守っていたのではないでしょうか。
たとえ、手柄を挙げた武将として、大きく注目されたり、たたえられたりすることがなかったとしても。静かに、ひっそりと。
何も知らなかった私をここまで導いてきてくれたのは、この、「太齋」という苗字に他なりません。そう思った時、私は、苗字には今は亡きご先祖様の確かな存在を、生きた証を、まだ見ぬ子孫へとつなげていく役割もあるのではないかと感じました。親の願いや思いのこもった下の名前と、歴史をつなぐ苗字。それを合わせたフルネームには、襲名や継名のように先代の意志を引き継いでつながりを表しつつ、自分らしさを持って生きるという意味があるのではないでしょうか。
そのとき私は、いつの間にか、自分の名前をたまらなくいとおしいと思っていることに気付きました。「太齋純香」というこの名前に、大きな自信を持てるようになっていることに気付きました。
それは、太齋館を守っていたであろうご先祖様の歴史を知り、生のつながってきた地を訪れ、その風を肌で感じることができたからです。そして、確かにそこで息づいてきたその方々に、誇りを持てるようになったからです。彼らと血が繋がっていて、今ここに生きているということ。それを、紛れもないこの苗字が証明しているということが、とてもすてきなことだと思えたからです。
これからだって、苗字のことで何か言われることはあるかもしれません。からかわれることだって、あるかもしれません。
けれども私は、何と言われようとも、太齋純香というこの名前に自信をもって、これからの人生を歩んでいきたいと思います。自分に自信を持つということ。それは、今の私へと命をつないでくれた、たくさんのご先祖様の人生を、肯定することになると思うから。感謝の思いを伝え、それを背負って生きていくことだと思うから。
水田に整然と植えられた苗はどこまでも並び、その間の澄んだ水に、遠くの山々の影がぼんやりと映っています。
私は、最後に一度、太齋館のあった山を振り返ってから、遠くに小さく見える祖父の背中に向かって走り出しました。ほんの一瞬だけ、そこに館があって、生活を営んでいたご先祖様の姿が、幼い頃の祖父が畑で仕事をする姿が、見えたような気がしました。
◆未来へ
太齋館から帰ってきた次の日。学校の朝の時間に、みんなで集まって話している友達をぼんやりと眺めながら、私は名前そのものについてもう一度考えていました。
名前の最大の特徴。それは、あまりに当たり前すぎて普段は意識することがないけれど、名前は自分で決めることができないという点だと思います。自らを表す大切なもので、一生付き合っていく、かけがえのない「自分のもの」であるにも関わらず。
それはきっと、名前は他者との関係の間に成り立つものだということを表しているのだと思います。名前は、付けてくれる家族によって誕生し、その役目を果たすには、呼んでくれる他者の存在が必要なのだから。
だからこそ、私が太齋純香という人間として生きるためには、私の名前を呼んでくれる、家族や友達の存在が大切なのだと思います。名前を呼んでくれる、いとおしんでくれる他者がいるからこそ、私は私でいられるのだと思います。
「純香ちゃん、おはよう!」
「おはよう!」
いつも笑顔で声をかけてくれる友達。私の名前を呼んでくれる、その友達にもまた、その人自身の名前があるのです。その名前の奥に、脈々と受け継がれてきた歴史が、ここまで命をつないできてくれた数えきれないご先祖様がいらっしゃるのです。
そう考えた時、私は体の奥がふわっと浮いていくような不思議な感覚に陥りました。
今日、電車で隣の席に座ったあの人も、通学路ですれ違ったその人も。一人一人に名前があって、それぞれが自らの人生を生きている。その名前を与えた人がいて、呼んでいる人が、確かにいる、ということに気付いたからです。
誰もが、その名前に、その背中に、ご先祖様が生きてきた歴史、つないできた命を背負っているのです。そして、私の周りで今日も精一杯に毎日を生きる人々にもきっと、ご先祖様が生きてきた故郷と呼べる風景、心の風景があるはずです。
私にとってのそれは、あの日越河で見た景色です。たったの数時間しかいませんでしたが、あの時の光景は、未(いま)だにはっきりと、心の奥に焼き付いて離れません。
衝撃的なほどに鮮やかで、吸いこまれそうだった空の色。ふわふわと浮かんでいた白い雲の輪郭。爽やかに木々を揺らす青い風の匂い。そして、古くは太齋館が建っていたであろうあの山の形......。
私は、そんな風景を、一人一人のご先祖様が築いてきた歴史を、大切にできる人でありたいと思います。自分の大切なものだけでなく、全ての人が抱いているかけがえのないものを、自分のそれと同じように尊重し、いとおしんで、そっと抱きしめられる人でありたいと思います。
この世界に生きる誰もが、たとえ地球の反対側に生活している人であろうと、自分と同じように悩んだり、苦しんだり、ささやかな喜びに身をうち震わせながら生きているということ。今、その人にしかない人生を生き、命をつないでいるということを、忘れずに生きていきたいと思います。
「ねえ、純香ちゃん。何してるの?」
友達が、私の机の隣に立っていました。
「あのね、名前について考えているの。苗字の歴史とか......。」
「私の苗字にも、何か歴史あるのかなあ。」
友達は、私の机の上にあった苗字の本を手に取って、読み始めます。
「おはよう!その本、何?」
近くにいた何人かが集まってきました。
「苗字の歴史......?あ、私、おじいちゃんに聞いたことある!」
「そうなの?私は全然気にしたことなかったなあ。家に帰ったら聞いてみようかな。」
本の周りで、楽しそうに話す友達の笑顔が嬉(うれ)しくて。心がほんわりとあたたまって。私は名前について、たくさんの人と話してみたいと思いました。
名前は、相手を認識するためのまず初めの情報です。それと同時に、その人や、その人を大切に思う周りの人々、家族について、深く理解するための鍵でもあります。これまで避けてきた、名前についての話題。今は、それを話してみることで、周りの人のことをもっと好きになれるような気がしています。自分のことも、きっと好きになれると信じています。
私の名前は、太齋純香です。
あなたの名前は、何ですか?
◆謎解きの旅 心の変化表現
【講評】作品は、祖父の生家のある町に向かう旅の場面から始まります。この旅は、太齋さんの長年の葛藤の種であった「太齋(ダサイ)」という名前の謎解きの旅でした。まず、太齋さんの巧みな情景描写に引き込まれます。更に、太齋さんの心の変化が実に鮮やかに表現されていることも、この作品の魅力を高めています。(新藤久典)