第71回全国小・中学校作文コンクールの中央審査で各賞が決定しました。文部科学大臣賞3点を要約して紹介します。作品の全文は、要約の下の「全文を読む」をクリックしてご覧いただけます。(敬称略)
<小学校高学年>
「二つのたん生日」
栃木県宇都宮市立豊郷中央小4年 紺野(こんの)あかり
私には、たん生日が二つある。一つは生まれてきた日。もう一つは、母から腎臓をもらった日。生まれつき腎臓が小さい病気で、2才の頃、透析するためにお腹(なか)に管を入れる手術をした。透析を始めて6年たち、腎臓も疲れてきてだんだん悪くなってしまった。だから移植することになった。手術の2週間前から入院した。手術の前日、母も別の病棟に入院する。「お母さん、がんばって!」。心の中で母に言った。母が入院した部屋から私の部屋に来て、父と3人でぎゅっと手を握って、父と母がしっかり抱きしめてくれた。
手術当日。父も母も病院の先生も看護師さんもみんなついていてくれる。「よし、がんばろう」と思った。手術は、7時間くらいかかったらしい。父は病院をうろうろしていたという。私と母を思って、心配だったのだろう。私が生まれたときみたいだなと思った。
手術が終わって目が覚めると、手術室にいた。次に目が覚めたときPICUという病棟にいた。子どもの集中治療室だ。父から「おしっこがたくさん出ているよ」と言われたとき、びっくりした。移植した母の腎臓が、体の中で元気に働き始めていた。手術は成功したんだ。母の腎臓が私の腎臓になったんだ。体が楽になって心が温かかった。
母から手紙が届いた。「よくがんばったね。お母さんはずっと、あかりの無事をいのっていました。あかりは、腎臓や体のことをたくさん勉強したね。笑顔で乗り切ろうとするあかりを見て、すごく大人になったなって思うよ。こんなに成長したあかりは、自まんの娘です。あかりのお腹の中にいつでもお母さんがいる。がんじょうなお母さんの腎臓だから、あかりのことをきっと守れると思うよ」。
お母さんありがとう。この腎臓を大切にするよ。母がつらいことがあった時には、私が力になろうと思った。
退院の日が来た。病院の外に出ただけで幸せな気持ちになった。病院の先生から「学校に行っていいよ」と言われた。その言葉をずっと待っていた。うれしくてとび上がりたい気持ちだった。前日から眠れなかった。1年ぶりに登校する学校。新しいクラスはどうかな? クラスの友達は私のことを覚えているかな。ドキドキしていると、とつ然、母が私のお腹に手を当てた。
「ここにお母さんがいるから大丈夫。心配になったら、右側の腎臓をさわってごらん」。母のパワーをチャージしてもらった。すると、何だか安心してきた。学校に行くと、みんなが優しく迎えてくれた。
今年も二つのたん生日が来る。その日までに母に恩返しをしたい。できるといいな。(個人応募)
私には、たん生日が二つある。一つは生まれてきた日。もう一つは、母から腎臓をもらった日。その日は、母とつながった日。大切なたん生日が二つある。私は、命のプレゼントを二つもらった。
私は、病気がある。母のお腹にいるときに腎臓がしっかりできあがっていなかった。生まれつき腎臓が小さい低形成腎という病気だ。私は、二才の頃腹膜透析をするためにお腹に管を入れる大きな手術をした。それから毎日家で透析の機械につないで、十時間くらい治療をしていた。透析のチューブに穴が開いて入院したり、チューブを入れ替えるために手術をしたりとそういうことが何度もあった。透析を始めてから六年たち、腎臓も疲れてきてだんだん悪くなってしまった。だから、移植をすることになった。
今までは自分に病気があることは知っていたけれど、詳しくは知らなかった。移植が近づいてくると、何をするのか分からなくて、不安でいっぱいだった。その頃、看護師さんが移植を知るためのテキストを作って教えてくれた。お人形を使って手術後の私の様子を見せてくれたり、ペットボトルで作った手作りの教材を使って、腎臓の働きのことや、私の腎臓はみんなとどう違うのかなど分かりやすく教えてくれたりした。主治医の先生に、分からないことを聞いたこともあった。先生は、分かりやすい簡単な言葉で教えてくれた。みんな、とてもていねいに優しく教えてくれたので、だんだん、自分の病気のことが分かるようになってきた。学校のみんなと同じようにはできないことも多く、いやだなと思ったこともあったが、病気のことを知って、意味が分かった。移植をするといいこともたくさんあると知った。移植は少し怖いけど、楽しみにもなってきた。自分の体のことが分かるようになってきて、うれしかった。
移植手術の二週間前から私は入院した。体調を整えるための入院だ。でも、家族や友達に会えなくてさびしいし、病院の食事はなれてないからいやだなあ⋯と思っていた。
手術の前日、今日から母も別の病棟に入院する。面会に来ていた母が、入院の手続きや検査があると言って病室を出た。
「お母さん、がんばって!」
心の中で母に言った。母が入院した部屋から私の部屋に来て、父と母と私の三人で病室にいた。そろそろ、母が自分の病棟に戻らなければならない時間になった。三人でぎゅっと手を握って、父と母が、私をしっかりと抱きしめてくれた。父は、私が眠るまで、読み聞かせをしたり、手を握ったりしてくれていた。夜、眠ったはずなのに、起きてしまった。いろいろなことを考えた。「明日はいよいよ手術だ。少し怖いな。でもお母さんもがんばってるから、私もがんばろう。でもやっぱり怖いな⋯。」頭の中がぐるぐるしてきて、眠れなくなってしまった。そうだ、父に電話しよう。深夜、十二時頃に公しゅう電話から電話をかけると父はびっくりしていた。本当は母の声が聞きたかったけど、入院中で電話ができなかった。父の声を聞いたら泣いてしまった。なぜか分からないけど、涙が出てきた。しばらく話をして、電話を切った。そして、病室に戻って眠った。
手術当日。朝、八時に手術室に行くことになっていた。父が病室にきてくれてたくさん話をした。母とは、メールで話をした。元気そうな写真が送られてきた。腎臓班の先生たちも病棟の看護師さんも何人もきてくれた。みんなにこにこ優しい笑顔だった。手術前で不安もあったけれど、みんなが応援してくれていることが分かってうれしかった。私は一人じゃない。父も母も家族も、病院の先生も看護師さんもみんなついていてくれる。「よし、がんばろう。」と思った。
私たちの手術は、七時間くらいかかったらしい。その間、父は落ちつかず、病院の中をうろうろしていたという。そういえば、私が母のお腹にいるときに、赤ちゃんが病気だと聞いてから、毎日通勤のときに信号待ちで止まっていると見えるお地蔵さんに「赤ちゃんを守ってください。」とお願いしていたと母からこっそり聞いたことがある。病院にはお地蔵さんがいないから、心の中でお地蔵さんを思い浮かべていたのだろうか。私と母のことを思って、心配だったのだろう。私が生まれたときみたいだなと思った。
手術が終わって目が覚めると、まだ、手術室にいた。少しびっくりした。ぼうっとしていて、眠くてまた寝てしまった。どんな様子だったか、眠くて覚えていない。
次に目が覚めた時、PICUという特別な病棟にいた。いつも入院する病棟とは違って、大きな手術のあとなどに入院する子どもの集中治療室のことだ。周りにはたくさん機かいがあって、体にはたくさんの管がつながっていて、あまり体を、動かせなかった。父から
「おしっこがたくさん出ているよ。」
と言われたとき、びっくりした。私は、今までほとんどおしっこが出ていなかった。尿検査の時にも、とることができなかったぐらいだ。だからとてもおどろいた。移植した母の腎臓が、私の体の中で元気に働き始めていた。手術は成功したんだ。母の腎臓が私の腎臓になったんだ。体が楽になって、心が温かった。
手術の後、母からこんな手紙が届いた。
『大きな手術だったけど、よくがんばったね。お母さんはますいで眠っていたけれど、ずっとずっと、あかりの無事をいのっていました。お母さんは、あかりがお腹にいるとき、病院の先生から、「お腹の赤ちゃんが病気ですよ。」と言われて、とても悲しくてたくさん泣いちゃいました。でも、ちゃんと生まれてきてくれました。今日まで元気でいてくれたことが、本当にすごいことだと思っています。あかりは、移植までに腎臓や体のことをたくさん勉強してきたね。分からないことを病院の先生や看護師さんに教えてもらったり、自分で調べたりしたね。不安で心配なこともたくさんあったと思うけど、笑顔で乗り切ろうとするあかりを見て、すごく大人になったなぁって思うよ。薬や血液のデータを見て自分のことを知ろうとするあかりは、本当にすごいよ。こんなに成長したあかりは、お父さんとお母さんの自まんの娘です。これからは、移植したので、あかりのお腹の中に、いつでもお母さんがいるから、つらい時もいつも一緒だよ。がんじょうなお母さんの腎臓だから、あかりのことをきっと守れると思うよ。お母さんみたいに、食いしん坊になっちゃうかもしれないね。』
と書いてあった。母みたいに食いしん坊になるのは少し困るなあ⋯と思ったけれど、腎臓をプレゼントしてくれて、うれしいなぁと思った。お母さんありがとう。この腎臓を大切にするよ。母は、私のことを守ってくれると手紙には書いてあったけど、母がつらいことがあった時には、私が力になろうと思った。これで、二人はつながったんだね。
次の日、母が病室からPICUに来てくれた。父が車いすを押してきた。まだ、傷が痛いようだった。来てくれてうれしかった。母の顔を見て安心した。
手術のあとはお水をたくさん飲むようにと言われていた。実際にやってみると、聞いていた以上に大変だった。今まで、透析をしていた時には、水は一日七百ミリリットルしか飲めなかった。おしっこがほとんど出なかったので、体の中に水分がたまってしまうから、それ以上飲んではいけなかった。夏の暑い日でも氷をなめてがまんしていた。
「もっと飲みたいよ。」
と泣いても、それ以上飲むことはできなかった。でも、今は一日に二リットル以上飲まなくてはいけない。飲んだらすぐにトイレに行きたくなってしまう。五分ともたなかった。今までとは全く違う体の様子に、びっくりした。なんでこんなに違うんだろう。急な体の変化にとまどってしまった。体の変化になれるために、看護師さんたちはおしっこをがまんしなさいという。でも、先生からは、がまんしすぎるとばい菌が入ってしまうからがまんしすぎてはいけないと言われていた。治療のためではあるが、私は、どうしたらいいか分からなくて、初めは困っていた。しばらくすると、だんだん慣れてきて、落ちついて生活できるようになった。
入院してから三か月ぐらいたったある日、先生から、退院していいと言われた。やったぁ。会えなかった妹に会える。大きくなったかな。家のご飯が食べられる。ずっと休んでいたけれど、冬休みが終わったら、学校にも行けるようになるのかな。友達にも会えるかなと思った。入院から九十七日たっていた。
しかし、私の入院生活はこれで終わりではなかった。腎臓は元気だけど、他の心配なことがあるから、入院して、様子を見た方がいいということになった。
新型コロナウイルスが流行し、病院の面会も厳しくなっていた。一日一時間以内。両親のうちのどちらかだけ。二十四時間のうちのたった一時間だけしか会えない。他は一人ぼっちの時間。「何で私だけこんなに入院しなければいけないんだろう。早くこの入院生活が終わって、家に帰りたいなぁ。一人ぼっちはつらいなぁ。」と思っていた。
前に読んだ細胞の働きについての本のような事が私の体の中で起きていた。細胞たちが戦ってくれていたが、なかなかよくはならなかった。そこで、別の治療をすることになった。 その時の私の体は、ばい菌をやっつける力が弱まっていた。アイソレーターという空気をきれいにする機かいをつけて、ベッドの周りをビニールのカーテンで囲った。一日中そのせまい場所で過ごさなくてはならない。トイレ以外はいつもベッドの上で過ごさなければならなかった。家族に電話をすることもできない。誰にも会えなくて、寂しかった。そして、毎日注射をしなければならなくなった。この注射はとても痛い。初めは、鋭い剣で刺されたみたいにとても痛く感じた。副作用で骨も痛くなってくる。でも、この注射を続ければ、よくなって家に帰れるかもしれない。みんなに会えると思うと、勇気がわいてきた。私の体の中の細胞たちががんばって戦ってくれたおかげで、よくなってきた。
やっと退院の日が来た。やった。家に帰れる。家族に会える。移植後一回目の退院は、十二月の終わりの頃。お正月を迎える前に帰れてよかったと思ったんだった。二回目の退院は、三月。少し早めに咲いた病院の桜がきれいで、写真を撮った。今回は五月。移植のために入院したのが一年前の九月だから、私が入退院を繰り返していた間に、季節が四つも変わっていた。外の空気は、おいしかった。春の花がきれいに咲いていて、いい香りがした。太陽がまぶしかった。私と同じくらいの年の子どもが遊ぶ声が聞こえた。何でもないふつうの景色なのに、病院の外に出ただけで、何だか幸せな気持ちになった。私には、幸せに包まれた虹色の世界のように見えた。
退院してすぐは、
「まだ学校には行かないで、家で様子を見ましょう。」
と言われた。早く学校には行きたいけれど、病気が治らなければ、また、入院しなければならないかもしれない。だから、今は先生の言うことを聞こう。
ある日、ようやく病院の先生から
「学校に行っていいよ。」
と言われた。私はその言葉をずっと待っていた。やったぁ。学校に行ける。目の前が輝いて見えた。うれしくてとび上がりたい気持ちだった。病院からの帰り道、うれしくて、大好きな歌をずっと歌って帰ってきた。
初めて学校に行く日、うれしくて前日から眠れなかった。一年ぶりに登校する学校。新しいクラスになってから、ほとんど学校に行っていなかった。新しいクラスはどうかな? クラスの友達は私のことを覚えているかな。緊張してドキドキしていると、とつ然、母が私のお腹に手を当てた。
「ここにお母さんがいるから大丈夫。一人じゃないよ。心配になったら、右側の腎臓をさわってごらん。」
母のパワーをチャージしてもらった。すると、何だか安心してきた。そうだ。私は一人じゃないんだ。みんなが支えてくれているんだ。大丈夫。
学校に行くと、みんなが優しく迎えてくれた。クラスの友達は、私のことを覚えていてくれた。みんな私のことを待っていてくれた。友達も先生も、何でも親切に教えてくれた。話しかけてくれる先生方もたくさんいた。一人ぼっちだと思っていたけれど、学校にも、こんなに仲間がいたんだ。うれしかった。
神様は、乗りこえられる人の前にしかかべを与えないという話を聞いたことがある。私は、病気を乗りこえられる人だと神様に選ばれたんだなぁと思った。でも、神様が与えてくださったのは、かべだけじゃなかった。乗りこえるためにたくさんの優しい人たちに出会わせてくれた。私は、もう一人ぼっちなんて思わない。だって、私の体の中には母がいるし、家族、友達、学校の先生、病院の先生、看護師さん、病院で出会った友達やその家族、たくさんの人が、私を支えてくれている。今まで出会った全ての人が、私のことを支えてくれている。たくさんの人に支えられて、私は幸せ。
私には病気だからできないこともあるけれど、病気の人の気持ちなど、私だから分かることもある。私は、人の役に立つことがしたい。神様が与えてくれたプレゼントを受け取って、支えてくれた人のためになることをしたい。そして、まだ出会っていない人のためにできることを見つけたい。それが私の願い。私からのおくりもの。
もう少しで、また今年も二つのたん生日が来る。私はまず、その日までに母に恩返しをしたい。できるといいな。
◆心ゆさぶる記録のお手本
【講評】腎臓移植は大手術です。不安の大きさははかりしれません。ところが紺野さんは、自分の体の変化や心の動きから、ドナーのお母さんの思い、見守るお父さんの不安までを淡々とつづっていきます。なんという目配りのよさ! なんと冷静な筆致! 心をゆさぶる記録のお手本のような作文です。(石崎洋司)
(2021年12月10日 12:00)