進路室は海[13]毎晩、母に読み聞かせを

[13]毎晩、母に読み聞かせを

 

 夜中に母が倒れた。腰を骨折してしまい、救急車で運ばれた。その日は年次休暇をいただき、学校を休んだ。

 数日後、担任をしていたクラスで、生徒たちに真面目に話した。

「母の介護が必要になりました。今後、介護休暇をいただき、放課後、一時間ほど早く退勤することになります。でも、担任の仕事は、退勤するまでにきちんと終わらせるように頑張ります。よろしくお願いします」

 明るくパワフルで、教室がなかなか片付かなかった1組が、そのあとは、生徒たちの協力で、普段からあまり教室が汚れないようになった。保護者の方々も、折に触れ「お母さまは大丈夫ですか」と気遣ってくださった。

 一人では歩けなくなった母も、リハビリを経て、今ようやく、よろよろと歩けるようになった。ヘルパーさんやデイサービスのみなさんのおかげで、落ち着いて暮らしている。

 

 

ひとよりもおくれて笑うわれの母 一本の樅の木に日があたる

寺山修司『血と麦』

 

 今も、急ぎの仕事がない限りは、5時に退勤する。会議に出るのも、陸上部のみんなと走るのも5時まで。ときには、トレーニングウェアのまま、学校から家まで走って帰ったりする。

 でも、進路指導室には、いつも生徒たちが相談に来る。5時以降にやって来る生徒も多い。「俺だけ先に帰らせてもらって、すみません」と話すと、進路室の先生方は「いえいえ。お母さんをだいじにしてください」と言ってくれるけれど、本当に申し訳ない。少し前に「わたし、定時で帰ります。」というドラマが話題になり、母と一緒に楽しんで見たが、いろいろと考えさせられた。

 家に帰ると、母がなんとか無事でいてくれる。それでも、部屋を見回すと、すぐに片付けなければいけないことばかり。動作がゆっくりゆっくりになった母は、何かにつけて周囲を汚す。

「お母さん、また汚してる!」

 にっこり笑って「母が無事でいれば、それでいい」と済ませられない自分が、本当に嫌になる。

 母を叱る日々がしばらく続いたが、ある夜、テレビから「ストレスを受けると脳が委縮します」という声がした。箸が止まった。健康バラエティー番組。脳の断面写真に見入った。

 そうだ。俺が注意ばかりしていると、家の中が暗くなるし、お母さんにとってはかなりのストレスになるだろう。今でもぼんやりすることが多いのに、このままボケてしまっては困るなぁ......。

 そこで、夜、寝る前に、母に本を読み聞かせることにした。母が昔、大好きだった小説がいいだろう。

 ウェブスターの『あしながおじさん』を少しずつ読むことにする。結末はもう知っているはずなのに、母は「ジュディは作家になれるのかねぇ」と心配したり、「あしながおじさんは、どんな人なんだろうね」と気にしたり。

 古本屋さんで見つけた倉橋耀子の『風を道しるべに』を読むと、少女マオの恋愛模様に夢中になりながら、母は「これはNHKの朝の連ドラになりそうな話だね」と感動していた。

 どんなことがあっても、一日の最後には本がある。本の世界に浸れば、母は「あぁ」とか「これからどうなるの?」とか言いながら少女に戻る。

 俺は国語教師だ。母のために、これからますます頑張って、上手に朗読をしようと思う。

 

 

からだの中の白い部分にわたくしの母眠るらむ眩しくてある

尾崎まゆみ『真珠鎖骨』

 

千葉 聡 @CHIBASATO

1968年生まれ。横浜市立桜丘高校教諭。歌人。第41回短歌研究新人賞を受賞。生徒たちから「ちばさと」と呼ばれている。著書に『飛び跳ねる教室』『短歌は最強アイテム』。3月に発売されたショートショート集『90秒の別世界』、ぜひご一読ください。

期末テストが終わりました。夏休みが待ち遠しい日々です。ちばさとは、夏休みの講習のスケジュールを立てています。

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(2019年7月 5日 15:15)
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