異見交論36 大学生に「体育」は不可欠だ 小林勝法氏(文教大学教授)

小林勝法 1958年生まれ。国際基督教大学卒業。筑波大学大学院修了。2011年から全国大学体育連合専務理事。日本体育学会理事、大学教育学会常任理事などを歴任。59歳。

 大学教育における「体育」の重要性が見直され始めている。1991年の大幅な規制緩和に伴う大学設置基準の「大綱化」で必修科目から外され、多くの大学が選択科目としていたが、必修科目に復活させる動きが出てきたのだ。背景には、大学生の体力やコミュニケーション能力の問題、生活の乱れなどへの懸念があるという。なぜ今、「体育」なのか。改めて全国大学体育連合専務理事、小林勝法・文教大学教授に聞いた。(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈)


 

■生活スタイルの激変期

――最近、体育を必修科目に戻す大学が出ていると聞きました。

 

小林 その通りです。東海大学は建学の精神に「若き日に汝の体躯を養え」とあることを再確認した結果、必修に戻しました。山口大学は、保健センターを利用する学生の増加を問題視し、必修に戻しました。ただ、全体としては大きな動きにはなっていません。全国大学体育連合の「大学・短期大学の保健体育教育実態調査報告書」(2013年度)によると、保健体育科目を必修とする学部・学科は68%。10年度調査が66.7%でしたので、横ばい状態です。

 

――どういう大学が必修にしているのでしょうか。

 

小林 国公立大学では90.5%が必修で、私立の61.2%を大きく上回っていました。体育は教養教育の大きな柱です。教養教育を大切にしている大学は概ね体育を必修にしている、という言い方も可能でしょう。

 

――率直にうかがいます。大学生に体育の授業は必要なのでしょうか。

 

小林 体力やコミュニケーション能力の低下が問題視されている今の学生には必要と考えます。文科省などの調査では、体力は「依然、低い水準」と明記しています。体力がピークだった昭和60年頃の水準までには回復していません。データはありませんが、気力や気概では確かに低下していると実感します。体力はあっても気力がなければ、体力がないように見えてしまいます。

 中でも1年次の体育履修はとても意義のあることです。受験期は基本的には運動をしていないので、入学後の4月に体育を履修すれば、学生は自分の体力がいかに衰えているかに気づくはずです。そこから、生涯を通じて健康維持することの必要性を実感させることができます。

 さらに大学生時代は、各自がライフスタイルを確立する重要な時期であることからも体育は意味があります。高校生までとは異なり、自由な時間が増え、アルバイトや、20歳を超えれば飲酒、喫煙が認められるなど生活習慣は大きく変化します。いくつもの調査結果から、大学生の生活習慣は、中高校生や社会人などと比べ、最も望ましくない状況にあることがわかっています。学生の「自己責任」と放置するのではなく、その後の長い人生をどう生きていくのか、食生活や生活リズムをどう整えたら健康に過ごしていけるか、「体育」は心身のメカニズムと運動の重要性を認識する時間になります。昔の話ですが、「体育」が必修科目から選択科目に変わると決まった際に、ある学生の一言が印象に残っています。「学生の健康について、大学は考えてくれなくなったということですね」。学生の自主性に任せっきりでいいのか、大変不安です。

 

 

――それに対して、週1回の体育の授業が有効でしょうか。

 

小林 週1回でも、体力向上や心理面での改善につながることがこれまでの研究でわかっています。大学の体育は、高校までとは異なり、体力維持や体を動かすことを楽しむ側面を重視します。だから、学生の満足度は比較的、高い。大綱化以前は、実は1年生に最も人気があり、満足度が高い科目でした。授業でリフレッシュできる、大声を出してゲームを楽しみ、いいプレーに感動して拍手を送る。自然な感情の発露が許された場です。さまざまな学部の学生がいて、学部を超えた友だちもできる。コミュニケーション能力や感情表現の仕方が向上し、共感したり、誰かを支えてあげようと思ったりした時にどうしたらいいのか、手の出し方や言葉かけの方法も覚える。これもさまざまな研究で立証されています。

 

 

■「付け足し」の科目

――1991年に大学設置基準が大綱化されました。教養教育と専門教育に関する規制がなくなり、大学はそれぞれの建学の理念を具現化するために自由に教育課程を編成する、というのが柱でした。その結果、大半の大学が体育を「必修」科目から「選択」科目にしました。それほど意義のある科目なのに、なぜ外されたのでしょうか。

 

小林 必修であることで均質的な授業にならざるを得ず、大学や教員ごとの創意工夫の余地に限りがあったことと、他方では、必修にあぐらをかいて、内容や教員の資質向上に取り組んでいなかった面もあります。教育よりも研究に関心が向いたことも否めません。なぜ大学教育に「体育」が必要なのか、という声に対して、その重要性や意義をきちんと教育実践やデータで伝えられていなかったのです。

 何も主張しなかったわけではありません。大学審議会のヒアリングで、日本体育学会と全国大学体育連合の関係者が意見を述べたことがあります。大学審が示した大学設置基準の改定案の「教育課程の編成にあたっては、大学は、学部等の専攻に係る専門の学問を教授すると共に、幅広く深い教養および総合的な判断力を培い、豊かな人間性を涵養するように適切に配慮されなければならない」という文言についてです。「豊かな人間性」の前に「すこやかで」の文言をいれ、「すこやかで豊かな人間性」にするべきだと。それに対し大学審は、「すこやかで、と入れたら体育が必要だと思われてしまう」と却下しました。「体育を外す」は既定路線だったのです。

 

――そもそも体育が必修化されたのは、1949年。新制大学の発足時にさかのぼりますね。

 

小林 米国教育使節団の強い勧告があったためです。当時、卒業単位は120単位とすることで合意ができていましたが、度重なる勧告と当時の体育関係者の要望で、必修体育を4単位追加したのです。その結果、大学卒業要件は「単位一二〇及び体育の単位四」と定められました。大方の大学人は納得していなかったので、その後もたびたび、「体育は必要か」という議論が起こっていました。

 新制大学発足時には、体育を必修にする社会状況もありました。結核が流行し、多くの方が命を落とす時代でした。特に青年の感染者は多く、1万人規模の大学であれば、年間20人以上が亡くなった計算です。経済界からも「健康な学生を育ててくれ」という強い要請がありました。ところが結核の治療法が確立し、予防できるようになり、衛生・栄養状態が良くなって「恐ろしい病気」でなくなると、「必修であるべきなのか」という疑問が大学界内外から寄せられました。

 

――社会的な必要性が薄れたということですね。

 

小林 そうですね。学生は、睡眠や食事など、不規則な生活をしていますが、若さゆえに大病に至っていないので問題視されていません。しかし、朝食を取らなければ血糖値が上がらず、集中力も低い状況で授業を受けています。学生の健康状態をモニターしていれば、良くない状況にあることが分かるはずです。

 新制大学発足時に戻りますが、そもそも「体育」内部にも問題を抱えていました。必修科目としたものの、担当教員が払底していたのです。旧制の体育専門学校や師範学校の卒業生のほとんどは、国公立大学の教員として引っ張られていました。そこで、体育の専門教員を採用できなかった私立大学には、自校の運動部出身者で間に合わせることが、「当面の間」として認められました。当時の教員名簿を見ると「文学士」や「法学士」などがほとんどの大学もあります。体育の専門知識も訓練も受けていない教員たちなので、学生を遊ばせるだけの授業も横行していました。

 

 

■スポーツは公共財

――小林さんは、全ての大学が必修化するべきだとお考えですか。

 

小林 規制緩和の中で、一律に「必修化すべきだ」とは言いにくいですね。自分たちの学生の現状をよく見て、体育は必要かどうか、各大学によく考えてもらいたい。米国の大規模大学の多くは、必修ではありませんが、一般学生向けのスポーツレクリエーション施設が充実していて、サポートできる専門スタッフが配置されています。ある州立大学を視察した際に「○月○日、トレッキングを行います」と参加者を募集していました。トレーニングルームやプールはもちろんのこと、サークル活動をする運動施設が複数ありました。学生はキャンパス内の寮か、すぐ近くに住んでいるので、いつでも気軽に運動ができる環境が整っています。そうした施設やスタッフのない中小の大学の多くは必修にしています。日本も大学の規模や環境に合わせて、学生の健康への配慮や課外活動支援をして欲しいです。

 

 

――「必修化」だけが解決策ではないということですね。ところで、体育は大学、社会にとっても意味のあることでしょうか。

 

小林 駅伝やラグビーなど、スポーツがその大学のブランド力を高めている例は枚挙にいとまがありません。大学スポーツは、見に行く、応援する学生が増えないと盛り上がりません。体育教育はその面からも有効です。大規模大学はスポーツ局をつくって盛り上げることができますが、中小規模の大学は授業に組み込むことで裾野を広げることができます。

 社会にとっても、「体育」は必要です。スポーツは「公共財」です。スキーやテニス、ボウリング、フライングディスク、太極拳など新しいスポーツが、体育の先生たちが教材化して学生に教えていったことが社会に広がり、一大ブームを作ってきました。スポーツ用品業界だけでなく、旅行業界も活性化しました。地域貢献の面からも、体育は重要です。先日、うれしい話を聞きました。福岡大学がサッカーで日本一になった。そのとき、大学関係者は「我々がサッカーで日本一になっても、大学以外の人は誰も喜んでくれない」と気づいた。そこで、教員や学生らが地元の小学校などでサッカー教室を始めた。地域とサッカーを通じて交流を広げたのです。そうしたら、サッカーの試合に、小学生や親ごさんが大勢応援に来てくれたそうです。

 

――学生にとってだけでなく、大学、社会にとって「体育」は意味がある、ということですね。

 

小林 ノーベル平和賞を受賞した南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領が「スポーツは社会を変える力をもっている」と発言していました。異なる文化や言語をもつ人々の交流と理解を促してくれます。何よりも、人間教育の観点からの重要性を重視すべきです。学生を人として成長させたいと取り組んでいる大学にこそ、「体育」は必要だと思っています。

 


おわりに

 大学を取材するたびに、学生の書いたリポートなどを見せてもらっている。誤字脱字もさることながら、筆圧の弱い、小さい文字が目につく。机に正対せず、背中を丸め、横に脚を投げ出している姿勢の悪さもあるのだろう。長時間、机に向かって書くことを嫌がる学生が多いようだ。

 だからこそ、高校・大学教育と、その間をつなぐ大学入試の一体的改革で「書く」を重視することは当然だ。そして、その前提として必要なのは、学べる体づくり、つまり「体育」だろう。(奈)


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(2017年7月20日 17:14)
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