「学問の自由」の侵害ではないか、いや国民として当然で大学も例外ではない――。文部科学省が、国立大学に入学式や卒業式などで国旗掲揚と国歌斉唱をするよう求める検討を始めたのを受け、議論が広がっている。4月の参院予算委員会での安倍首相答弁を受けて動き始めた、この問題の本質は何か。「学問の自由を守る会」の代表である広田照幸・日本大学教授(教育学)、日本教育再生機構の理事長を務める八木秀次・麗澤大学教授(憲法学)にそれぞれの意見を聞いた。(聞き手・専門委員 松本美奈)
■「『学問の自由』を侵害する危険性」広田照幸氏
広田照幸 日本大学教授(教育学)。「学問の自由を考える会」代表。 |
――単刀直入にうかがいます。国旗掲揚・国歌斉唱に反対ですか。
広田 いや、私は国旗掲揚・国歌斉唱に反対しているわけではないのです。そうではなくて、時の政府がそういう事項を大学に要求も要請もしてはいけない、と訴えたいのです。そうした要請は、教育研究の独立性を失わせ、学問の自由を脅かす、大きな政策転換ではないかと危惧しているのです。政府と大学との関係の転換が、この問題の本質と考えます。
政府が大学に強く干渉した事例では、矢内原事件(矢内原忠雄・東京帝国大学教授が日中戦争勃発直後の1937年、論文「国家の理想」をきっかけに、職を辞した)が知られますが、「言論抑圧」事件として有名になったのは後年になってから。当初は東京帝大の一教官の問題として受け止められていたようです。大きな転換は、小さなごく些細に見えるところに隠れています。
――「関係の転換」とおっしゃいましたが、そもそも大学自治や大学の根本的な在り方に関して、旧来の関係はどうだったのでしょうか。
広田 時の政権は大学の教育や研究の具体的中身に踏み込まない、という関係です。たとえば2008年、大学教育の分野別の質保証の必要が中教審で議論されたとき、慎重を期して、その検討作業は、学者の国会とも言われる日本学術会議に依頼しました。距離が必要なのです。文科大臣が「適切な対応を」などと言うべきではありません。小中高校教育の基準である学習指導要領ですら、ワンクッション入れて、中央教育審議会がやっています。文科省はこれまでそのような配慮をしてきました。
今回の発言は、大学教育の特定の場面に立ち入る、という形で介入を意図するものです。入学式や卒業式は単なるセレモニーではなく、教育の重要な場面です。入学式は学長が、これから始まる大学教育の方針やそこに込めた思いを語る場です。大学は「新しい知を生み出す」ところ、そのスタート地点は「何事も疑え」です。そう語る学長が、国の要請に従うだけだったら、やはり説得力には欠けるでしょう。
――「学問の自由を考える会」は4月末に声明文を発表しました。その中で、教育目標の一つとして「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する(中略)態度を養う」とする教育基本法2条を今回の要請の根拠にしていることも、問題視していますね。
広田 教育基本法2条は、具体的な対象を限定しない極めて抽象度の高い条文です。それをもとに政治家が特定の教育場面で特定の教育のあり方を求めるのは、今後、問題が拡大する危険性があります。その論理をもし認めると、家庭教育や社会教育でも、あるいは、大学の個々の授業内容についても、「第2条のここに照らして逸脱だ」と、政治介入が可能になってしまいます。
――いま、国は国立大学の運営費交付金の改革を進めています。一律の分配をやめ、国が決めた評価基準によって配分を変えようという内容です。声明文は、そうした状況下での「要請」はあからさまな「圧力」になるとも懸念しています。
広田 そうです。それでなくても、市場化・民営化の手法の改革によって、大学の自治・自律性はやせ細ってきています。今年4月には「教授会の権限」の制約を盛り込んだ学校教育法の改正法が施行されました。外堀はどんどん埋められて大学の自治が衰えてきている。大学が自律的に動く自信を失いつつあるのが現況、と思っています。そこに、今回のような、「こう教育しろ」という話が降ってきたわけです。
大学が国家権力から距離を置き、独立を保つことは、学問の発展には不可欠です。既存の常識や概念を疑い、別のことを考え、議論するエネルギーが学問を発展させ、ひいては国がさかんに求めている「イノベーション(革新)」の原動力になるからです。言われたからやる、型にはまることに慣れてしまった大学から、イノベーションが生まれるでしょうか。
国家権力だけでなく、大学は時の世論とも距離を置く必要があると思います。いま極論や異端とされていることの中に往々にして時代を先取りする要素が隠されているのは、歴史の真実です。あまりに時代の常識に密着していては、「新しい知」は創造できません。
――声明文の「呼びかけ人」には当の国立大学の学長クラスや学生が入っていませんね。
広田 国立大学の学長クラスは、運営費改革のうねりの中で名乗り出ることに慎重になっているようです。個人の考えで大学に迷惑をかけてはいけないからと、「陰ながら応援している」と言ってくれた方もいます。ものが言いにくい時勢になっているのです。
日本の大学は、学生の参画が乏しいという大きな欠点があります。今回の問題に関心を持ってくれている学生が少ないことは残念です。世間の人も、「学問の自由?自分たちには関係ない」と思うかもしれません。しかし、「学問の自由」は、「表現の自由」と並んで、自由な思想・言論の社会を支えていく重要な柱です。議論の輪を、学者にとどまらず広げていかなくてはならないと考えています。
■「問われる国立大学の存在意義」八木秀次氏
八木秀次 麗澤大学教授(憲法学)。日本教育再生機構理事長。 |
――「学問の自由」を侵害すると懸念されています。
八木 「学問の自由」が問題になるのでしょうか。入学式や卒業式などでの式次第の問題であって、研究の自由を含む学問の自由の問題ではありません。学問の自由の問題として受け止めるなんて、他国ではありえないでしょう。
私はむしろ、ガバナンス(統治)の問題だと考えています。国立大学をコントロールするのは誰か。この問題は同時に国立大学とは何か、その存在意義を問うていると私は考えます。
事の発端は、国立の教育大学付属中学校で生徒に国歌斉唱を指導していなかったことです。学習指導要領で、教員に指導が義務付けられているにもかかわらず、徹底していなかった、つまり国立大学に対し、文科省のガバナンスが機能していなかったことになります。
――安倍首相は答弁で「学習指導要領がある中学と高校ではしっかりと実施されている。同時に税金でまかなわれていることに鑑みれば、新教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないか」と述べています。つまり、税金が投入されていることを重視しています。
八木 それは当然でしょう。小中高校では学習指導要領で国旗や国歌の尊重が明記されていて、教員には指導する義務があります。大学は研究機関としての性格があるにしても、教育の連続性、つながりがあってしかるべきでしょう。とりわけ、国から年間1兆円超の税金を直接投入されている国立大学での教育には。
グローバル化が進み、グローバル人材の育成の必要性が求められています。その養成の中核が、日本人としてのアイデンティティーをどう確保するのかということです。学問の自由をたてに、グローバル人材の核を教育現場から排除することの方が私には違和感があります。
――大学と国家との関係が変わり始めていると指摘されています。
八木 そうですね。安倍内閣が、1980年代の米国の大学改革を目指しているのは明らかです。国家戦略の中に大学経営、教育、研究を位置づけています。優秀な研究者と学生を世界から集め、卓越した研究をしてもらい、産業を作り、世界をリードする。そのために人事権を教授会から奪い、研究も教育もしない教員を排除し、優秀な研究者を高給で世界から集めたのです。いまやスタンフォードなど米国の大学の学費は年間数百万円にも高騰しているにも関わらず、世界から優秀な学生を集め、大学教育が一大産業として成り立ち、国力を支えているわけです。
今年4月に施行された、教授会の権限を制限する改正学校教育法は、そのひとつです。人事権を学長や理事会に移し、外部から優秀な人材を引っ張ってこられるようにして世界と競争できる研究をしてもらうのが狙いでしょう。根底には、大学、とりわけ国立大学を改革しなければグローバル競争に生き残れない、という危機感があります。産業界からの要請もあります。その障害が教授会だった。これもガバナンスの問題です。
――日本の大学の行き残り策として一連の改革が行われ、この問題もその延長にあるということでしょうか。
八木 いやおうなく進むグローバル化の中で生き残るために、日本の大学を適応させようとしているのだろう、と私は見ています。米国、そして欧州、アジアの潮流から、日本の大学だけがすでに乗り遅れ、波に飲み込まれようとしている。そんな時に「学問の自由」と言うのなら、そう主張できるほど世界に求められる研究をしているのかと反論したくなります。
――「学問の自由」に批判的ですね。
八木 「学問の自由」はもちろん大切です。けれども、誤った使われ方をしていると感じているのです。大学人が口にする「学問の自由」の中には「学問をしない自由」も含まれています。1年間で書く文章は年賀状だけ、という大学教授は昔から山ほどいます。教えるのが下手で、何十年も同じ講義ノートを読み上げるだけという人もいます。そういう大学人への批判は何もなされてこなかった。いま、世界の現状が見え始めて、批判が始まっています。これに対し、これまでの環境を守るためのせりふが「学問の自由を守れ」です。きわめて温かい、ぬるま湯の環境を維持できる、それでいいと自分たちも納得できる、そんな使われ方です。
――政治家が特定の教育場面で特定の教育のあり方を求めることが、社会教育や家庭教育にも拡大するという懸念が指摘されています。
八木 そういう懸念があればそのつど拒否すればいいことです。教育基本法は学校教育法の上位法ですから、当然大学は対象になります。国を愛する態度を養わないような教育、研究はするな、と国が求めたら、それはやりすぎでしょう。
けれども、これまでは正反対のことが教育活動としてまかり通ってきました。国を愛する態度を養うような教育や研究は、国立大学では軽蔑され、社会教育の役割を担う公民館でも、完全にある政治勢力のコントロール下に置かれていた所も珍しくなかったのです。むしろそこを問題にすべきでしょう。民主的な手続きを踏まない外部団体の支配に服してきた現場が、正当な民主的な手続きを踏んだ政府の要請を拒否しようとする。結果、一部の政党や外部団体の不当な支配を受けることになる。
学問の自由を訴える言葉の裏側には、これまで通りでありたい、従来どおり、自分たちの仲間うちで好き勝手に運営し、国や社会からの圧力、要請を拒否します――という理屈が透けて見えます。それは多くの国民に受け入れられないと思います。それならば、国立大学でなくてもいいということになるでしょう。
――国立大学でなくてもいいと。
八木 東京大学に最も富裕な所得層の子どもが通い、地方の私立大学に貧しい家庭の子達が奨学金で通う......。国立大学が国立である意味は何でしょうか。わが国初の大学が誕生した明治時代は、研究者と官僚、医者などの高度職業人材の養成が求められていた。今はどうでしょうか。世界と競争できない、場合によっては反国家的な教育をしている国立大学を多額の運営費交付金投入で支えることに、納税者、国民の理解は得られるのでしょうか。
■経緯
発端は、4月9日の参院予算委員会。国立大学の入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱について、安倍首相は「税金で賄われていることに鑑みれば、教育基本法の方針にのっとり、正しく実施されるべきではないか」と答弁した。次世代の党の松沢成文氏の質問に答えた。松沢氏の求めで文部科学省が86の国立大学に聞き取り調査したところ、国旗を掲揚したのは74校、国家を斉唱したのは14校だった。
下村文部科学相は、「適切な対応がとられるように学長が参加する会議で要請することを検討する」と述べた。
おわりに
両者の言い分は対極にある。「学問の自由」を脅かすか否かにとどまらず、大学の存在意義についても、大きな違いを見せている。大学は「新しい知を生み出す」場なのか、いまや「存在意義が問われている」ものなのか。
大学改革の動きを取材しながら、筆者もたえず悩ましい思いを抱いている。読者の皆さんのお考えをうかがいたい。(奈)
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