白血病の治療は、免疫が著しく低下するので、感染を防ぐために隔離された無菌棟で行われる。私が入院していた病院は、全員が個室で治療を受けていた。患者同士が接触することは殆どなく、週一回のシーツ交換で全員が廊下に出るタイミング以外、接触することはなかった。たまに病棟内にあるデイルームに出ることはあったが、ただでさえ治療で体調が安定しない患者同士、顔を合わせても挨拶程度で終わるのが常だった。さらに無菌棟は見舞客も限られている。感染を防ぐため、限られた身内しか無菌棟に入ることができないのだ。特に小学生以下の子供は入室を禁止されていた。私も彼女も、幼い娘をおいて治療をする母親だったので、すぐに意気投合。それから体調が良い時は、体力維持のために一緒に無菌棟の廊下を歩いたり、食事の後、廊下にあるワゴンに食器を返す、ちょっとした時間に立ち話をしたり。長い時間話していると、看護師さんに窘められるので、あとは携帯電話でやりとりをした。病気のことはもちろん、子供のこと、家族のこと、退院してからのこと、これからやりたいこと、たくさん話をした。
「娘が四月から一年生だから、その頃には移植を終えて、入学式に出たい。それが無理でも、初めての運動会にはお弁当を作って見に行きたい。」彼女は何度も何度も話してくれた。私は「間に合うといいね。間に合わなくても、小学校は六年間あるから、きっと卒業式には行けるよ。」と励ました。私も「小学校の卒業式には出たいな。」と話した。抗がん剤治療で体がだるい時も、検査の結果が良くなかった時も、ちょっとだけ先のことを話しながら、二人とも何とか治療を乗り越えようと必死だった。
骨髄提供ドナーさんがみつかった彼女は、一足先に移植治療に入った。ほどなくして私も移植治療が始まり、お互いにメールだけのやりとりになった。私の方は順調に治療が進んだが、先に移植を受けた彼女の方は、なかなか新しい骨髄が造血しなかった。その間、免疫が0になるので、体にいろんな症状が出る。高熱、下痢、粘膜障害、皮膚障害。同じ治療経過をたどる私たちは、お互いの辛さを思い、お互いの存在に励まされながら治療に耐えた。ようやく彼女の方も、移植した骨髄が造血を開始したものの、残念ながら、すぐに再発してしまった。
「私、白血病に負けちゃうのかな。」
再発がわかった日、彼女から届いた短いメール。私は返す言葉がみつからなかった。治療の難しさ、直面している現実。同じ病を得た私には、充分すぎるくらい、その気持ちがわかった。やっとのことで私は、こう返した。
「病はね、闘うものじゃない。勝ち負けじゃない。向き合うものだよ。」そして「前向きになんてならなくてもいい。後ろ向きでもいいから。ただ、今できることを淡々とやっていこう。あとは心臓を動かして、息をすることを忘れないようにしようね。」と。
「それ、めっちゃ笑う。心臓は自分で動かそうと思って動かしてないよ。」彼女から返事が返ってきた。「わかった。忘れない。」
彼女からのメールは、それが最後だった。
最愛の娘さんを残して、彼女は先にあの世に引っ越してしまった。私より三歳若い、三十四歳だった。
退院してから、夫と二人で彼女の実家を訪ねた。彼女によく似た可愛らしい女の子と、ご両親、妹さんが温かく出迎えてくれた。
私は「すみません、生きている私が来てしまって。」と思わず頭を下げた。すると、お父様が「とんでもない。入院中、娘を支えていただいてありがとうございました。娘からよく山内さんのこと、聞いていました。」と言われて、彼女の写真が飾ってある部屋に案内された。ピンク色の花で包まれた彼女の笑顔の遺影と、小さな白い骨壺には「まま」と拙い字で書かれた折り紙が添えられていた。
妹さんが教えてくれた。「姉とはいつも電話やメールをしていました。山内さんのことは本当に姉がよく話してくれました。再発で辛いのに、いつも励ましてくれて、子供のこととか、先生に話せないことを一杯聞いてもらっているって。」そして「姉が厳しい状況だとわかった時、姉に『病気に負けちゃダメよ』って言ったんです。その時、姉が『病はね、勝ち負けじゃないんだって。向き合うものなんだって。山内さんが言っていたよ。だから闘わなくていいの。そう思うと、気持ちが楽になるんだ』と話してくれたんです。姉にはわかっていたんだと思います。自分がもうそんなに長くは生きられないこと。だから山内さんから『闘わなくていいよ』と言ってもらえたのが、とても嬉しかったんだと思います。それからはずっと姉と『病は向きあうもの』って合い言葉のように言っていたんですよ。」と泣きながら話してくれた。
もちろん、そのやりとりは覚えていた。でも何気なく返したその言葉を、彼女が死の瞬間まで心の拠りどころにしてくれていたとは思いもしなかった。そして「姉は負けたわけじゃない。勝ったわけでもない。しっかり病と向き合って逝った。そう思うと、私たち家族も救われます。」と、帰りは家族五人で見送ってくれた。
「病は向き合うもの」
この言葉は図らずもそれから十年後、両胸に乳がんが見つかった時、私自身を支える言葉となった。彼女が大切にしてくれたこの言葉。自分で言った言葉だが、そこから飛び立ち、想いが込められたメッセージとなって、私に還ってきた。彼女が旅立って十六年。この言葉は、これからも私の「推しの言葉」として胸の奥に、ずっとしまって生きていく。