JR山陰線の安来駅からイエローバスに乗る。安来市体育館を過ぎ、バスは南西に向かう。飯梨川に掛かる矢田橋を渡る。左手に見えてくる山が、私の生まれた町のシンボル、月山だ。十数年前に整備され、山頂の木々のシルエットがはっきり見えるようになった。「春風吹けば月山も、広瀬の町も花ふぶき」。小学校の校歌が頭の中を巡る。
私は、月山が目の前に見える家で生まれた。小学二年生の時、父母、弟妹の五人で東京に出た。そして、四年生の夏、私ひとりその町に戻ることになった。ひとりで暮らしている祖父が私を預かりたいと懇願したのだ。
ある日、父母が改まって座り、私に聞いた。「広瀬のおじいさんのところで暮らすか」。
私は即座に「うん」と答えた。
私は東京の暮らしに嫌気がさしていたのかもしれない。父はいつも母に暴力をふるい、母はよく青あざを作っていた。私と妹は父が帰ってくると怖くて、父が母を殴りだすと二人で抱き合って泣いた。
そんな生活から抜け出したい。若くして親になった両親は私の存在がストレスなのではないか。九歳の私、父は二十七歳、母は二十六歳。六畳一間のアパートに五人での生活は逃げ場がない。大人も子どもも。そんなことを幼い私が思ったかどうか、ともかく祖父と暮らすことに同意したのだ。
四年生、五年生。時々思った。なぜ両親は祖父と暮らすことを私の判断に委ねたのだろうと。自分で決めたのだから、誰も恨めないではないか。
そうして、六年生になった。
夏、私は初潮を迎えた。赤茶色の汚れのついたパンツを前に途方に暮れた。祖父には言えない。思いだした。その数週間前に、学校で女子だけ集められて初潮指導があったことを。体の変化についての映画を見て、その後教室でナプキンの作り方の説明があった。
脱脂綿を大中小の三つの大きさに切ります。それを重ねます。それをパンツに当てます。
家に脱脂綿などない。私は押入れの布団を出し、布団皮を破って茶色い綿を引っ張り出した。それを大中小の大きさにちぎりパンツに当てた。子ども心にこんな汚れている綿でいいのかな、と思った。でも、他に方法がない。
初潮がきてしばらくは毎月はこないし、きたとしても経血量は多くない。布団綿はもう取り出すことはせず、ちり紙でなんとかした。そのうち祖父に知れることとなった。そりゃそうだ汲取り便所なのだから。ある日、祖父が私に市販のナプキンの包みを投げてよこした。何も言わず。私はその時の祖父の苦虫をつぶしたような顔と放り投げた仕草、「なんだ、ナプキンって、売ってるんだ」と思ったことを今でもはっきり覚えている。
祖父の生活は貧しい。父母は毎月養育費を送ってきていたようだが、たまに滞ったことがあった。そんな時に祖父はいつも言った。
「お母ちゃんは、お金を送ってこんが、もう惠子のことは忘れたんだないか」
私はそのたび、祖父にも厭われ、父母にも忘れられたと悲しくなった。やっぱり、私は一人で生きなくてはいけないのだ。汚れたパンツは自分で洗濯した。漂白剤を薄めずにつけパンツがぼろぼろになった。破れたセーターは、本を見ながら編んで直した。学校に提出する書類は自分で書いた。しかし、子どもがやること、めちゃくちゃだった。でも、誰も何も言わなかった。
大人は誰も助けてくれない。自分で何でもやらねば。私が二年半の広瀬暮らしで身に付けた生き方だ。
その後、私は中学進学と共に東京の両親の元に戻った。それ以降ずっと東京暮らしだ。しばらく離れていた両親にとって私は、難しい子どもだったことだろう。父とはずっと距離があった。
イエローバスは進む。鷺の湯温泉を過ぎ、町中に入る。町のメインストリートは店が閉まり、人も歩いていない。やがて、古びたバスターミナルに着いた。年老いた母が佇んでいた。
「おかえり」
「こんにちは」
両親は四十年前にUターンした。私は第二子をこの町で出産し、三人の子供が小さい時は夏休みによく連れてきた。山に登ったり、虫を採ったり、川で泳いだり、川原でそうめんを食べたり、子どもたちは田舎が大好きになった。私も少しずつ広瀬の新しい思い出ができていった。それに、夫と出会ったことで人を頼りにしてもいいのだと思うようになっていた。
その後、祖父と父が亡くなり、今は母が一人でこの町に住んでいる。その母に会いに私は二ヶ月に一回くらい数日来ている。
バスターミナルから田んぼ道を通って家に向かう。月山が後ろにある。右手に見える小学校の校舎はピンク色の鉄筋コンクリートだ。「夏風吹けば三笠山、三日月様の細いこと」。校歌の二番が頭の中を巡る。正面には三笠山があるはず。どの山かはわからない。
「今日あたり、蛍が飛びそうだで」
母が家の前の祖父谷川(おじだにがわ)を指しながら言った。
思い出した。祖父は蛍が出ると、竹ぼうきでよく蛍をとってくれた。そして、部屋の中に放してくれた。私はそれを見ながら眠りについた。祖父は成長する私に戸惑いながらも精いっぱいかわいがってくれたのだ。
父と母も、若く未熟だったが、その時に出せる全力で私を愛し育ててくれたと思う。
「ただいま」は言わないが、ここは私のふるさとだ。母がお帰りと迎えてくれる限り、月山と祖父谷川がある限り、ここは私のふるさと。