「高大接続」という言葉が独り歩きしている。目まぐるしく変わる世界で、私たちの子どもはどんな力を求められるのか、それにふさわしい教育を創っていこう。そんな思いで始めた改革だったが、その方向に進んでいるのだろうか。議論を進めてきた責任者の一人として、改革に込めた思いを語りたい――中央教育審議会会長として改革を世に送り出した安西祐一郎氏が語り始めた。
第1、3金曜日掲載(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈)
[vol.18] いまこそ、体育を必修に
1991年、大学設置基準の大綱化によって、体育を専門とする大学・学部以外の多くの大学が、体育を必修科目から選択に切り替えた。大綱化に先立つ大学審議会答申では、開設授業科目と卒業要件について、次のように記している。その記述から、大学審議会が体育を目の敵にしていたわけではないことを読み取れる。
○開設授業科目については、大学設置基準上、一般教育科目、専門教育科目等の科目区分は設けないこととし、大学は、当該大学、学部および学科の教育課程を編成すること、教育課程の編成に当たっては、学部等の専攻に係る専門の学芸を教授するとともに、幅広く深い教養、総合的な判断力を身に付けさせ、豊かな人間性を涵養するよう適切に配慮することという趣旨を規定することとする。
○学生の卒業要件については、学生が修得すべき最低の総単位数を規定するにとどめることとする。
○この場合、大学の学則では、教育上の必要に応じた適宜の名称で授業科目を区分し、これに応じた最低修得単位数を定めることができるようになるが、従来のように大学で開設する授業科目を専門教育科目、一般教育科目、外国語科目、保健体育科目等に区分し、従来と同様の最低修得単位数を規定することも可能である。
となると、大学生が体育を履修することは「意味がない」と考えたのは、大学教員たちなのだろう。私自身も、会議の席で「体育を選択にする」と聞いたときには、「もったいないな」と思った程度だった。
大学での体育の授業は面白かった。剣道の授業があって、中学で剣道部だったから、まったくやったことのない同級生に比べればはるかに強かった。バスケットボールも授業でやったが、これも得意な種目の一つだった。ただ、たまたま授業に得意な競技があったということで、当時の体育の授業にどういう意味があったかのか、いまだに定かではない。
体育の授業ではないが、課外活動はラグビーをやっていた。練習はきつかった。アップしてすぐグラウンドの端から端まで往復ランパス(パスをしながら走る)10本、それから諸々。真っ暗になったグラウンドを車のヘッドライトで照らしてスクラムとタックルの練習を繰り返す。体力の限界に直面した。下級生当時は、練習が終わると、当時は皮製だったボールに唾をつけて磨き、それから部室の風呂を掃除する。午後10時過ぎに帰宅して布団に倒れ込む。理系の学部で週2通は実験レポートの提出があり、締め切りに遅れると単位が取れない。朝4時に起きてレポートを書き始め、大学に行く電車の中でも書き続け、9時の提出時刻に間に合わせた。きついけれど充実した学生生活だった。それに比べると、体育の授業については、得意だった剣道とバスケ以外ほとんど覚えていない。
それから何年か経ち、設置基準の大綱化とともに必修だった体育の授業が選択科目になった。1991年の大綱化からすでに四半世紀、改めて体育の必修化を考える時期に来ている。
1991年といえばちょうど経済バブルが崩壊した時期だ。2000年代半ばに一度持ち直したものの、その後の低成長を含め、体育の選択科目化の時代は日本の急降下の時代に重なる。18歳人口の急減が始まったのも同じ頃だ。そんな時代を超えて日本が再び活力を持つためには体育を必修にすべき、というと、論理が飛躍していると言われるかもしれない。でも、若い世代のエネルギーはどうすれば生まれるのか、座学だけでなく、体を動かし、姿勢を正し、はっきりと話し、相手を尊重しながらコミュニケーションを取るエネルギーが必要だ。そうしたエネルギーが生まれる源はたくさんあるだろう。体育の授業はその源の小さな一端だが、制度として普及させることのできる大事な一端だということだ。
具体的に言えば、体育の授業を必修にすべき理由は少なくとも三つある。
第一に、いまの学生たちの体力が落ちているとみられることだ。子どもの頃の外遊び体験が乏しいこともその要因の一つだろう。外で遊ぶと知らない人に誘われるから危ないと、公園で遊ぶこともままならないご時勢だ。学校から帰ってから近所の子どもたちで原っぱを駆け回ったり木登りしたり川で泳いだりする機会を期待するのは難しい。
1964年、東京オリンピックの年に始まった文部科学省の「体力・運動能力調査」によると、子どもの体力・運動能力は、1985年ごろから現在まで低下傾向が続き、体を思うとおりに動かす能力の低下も指摘されている。一方で、体力・運動能力が高い子どもと低い子どもの格差は広がり、肥満傾向の子どもの割合は増えている。
体育必修化を主張する第二の理由は、体育はコミュニケーションの力を養う教育の一環ということだ。高校生、大学生が人と対話する機会、顔をつきあわせてお互いの気持ちをやりとりする機会は、スマホやSNSの普及とともに明らかに減っている。直接のコミュニケーションとITを介した間接的なコミュニケーションでは、科学的な検証を経たわけではないが、主要な違いだけでも次のような相違がある。直接のコミュニケーションのほうが、(1)相手の意図や感情に気づくための情報(表情、声の調子、ジェスチャー、周りの状況など)が豊富に得られる、(2)身体の活動によって感情、思考、言語活動などを支える意識下の活動が活発になる、(3)相手の表情やジェスチャーに共鳴するなど相手に共感する活動が盛んになる(安西『心と脳』岩波新書)。
さらには、体を動かすことによって、自己管理や社会への感覚も育つだろう。自分が思っている通りには自分の体はなかなか動かない。どこの筋肉を動かすと、どう動くのか、自分の体をどう管理したらいいのかを学ぶことはとても大事なことだ。そういう人間の体の仕組みを知り、それを通して自分と対話する時間にもなる。栄養について学び、食生活を見直す。薬物、喫煙の影響を知る。
体を動かすことと「社会性」の関係はもっともっと強調されてよいのだが、1991年の設置基準大綱化に伴って多くの大学が体育を選択科目にしてしまったのは、そのことに教育の理念としても仕組みとしても逆行するものだった。社会では、とっさに何かをしなくてはいけないときにどう判断するか、そこで人間の価値が問われる。教養とは意思決定の基盤であり判断の基準を支えるものだが、時々刻々変わる状況のもとで臨機応変に、しかも的確に判断できるか、とっさの判断には日頃から体を動かすのに慣れていること、それを通して「社会性」を学ぶきっかけを持っていること、それが大学における体育の授業の意義だろう。
三つ目の理由は、大学スポーツが地域コミュニティの活性化の中心になり得るからだ。大学スポーツやスポーツ施設を通じて市民がコミュニケーションを取れる、地域住民の健康づくりの拠点にしてはどうだろう。単なるスポーツクラブ代わりではなく、大学と地域が一緒になって生活や経済の活性化に貢献していくのだ。高齢者と若い人たちが一緒に活動する貴重な機会にもなるだろう。
たとえば今、東京の八王子周辺で、大学とゴルフ場が一緒になって大学の体育の授業にゴルフ場を開放するとともに、地域コミュニティの活性化に役立てる動きが出ている。ゴルフ用品の団体がクラブを無償貸与し、プロゴルフの団体が指導の支援をしている。遠くから車で乗りつけ車で帰っていく「接待ゴルフ」の場とみなされることの多かったゴルフ場を地域コミュニティの中に位置づけ、学生にとっても地域住民にとっても身近なスポーツとすることができれば、地方創生の新しい方向を産み出していくことが期待できる。利用者の減少に悩むゴルフ場に若い人たちが来て地域の人たちと交流することで地域経済の活性化にも役立つだろう。
ゴルフは一つの例に過ぎない。体育の授業をはじめとする大学スポーツを地域コミュニティの活性化と結びつける努力は、いろいろなところで始まりつつある。
だが、肝心の体育がふるわない。選択科目で受講する学生が少なければ、教員数は当然減っていくことになる.体育担当教員が定年退職しても常勤教員を補充せずに非常勤の教員を雇う、という現象が多くの大学で起きている。こういう状況では、大学スポーツと地域コミュニティの協働といっても、大学側の力が弱すぎる。必修科目を選択にし、体育教員を減らしてきたのは大学だから、大学が体育の重要性を改めて理解していけば事態は改善するはずだ。実際、全国大学体育連合という大学の体育教員の団体が進めている大学スポーツの振興について、すでに180を超える大学の学長の署名が集まっている。大綱化から25年を経て、再び大学の体育に日が当たりつつある。
体育の必修授業があるとすれば、理想的には一クラスは30人程度あるいはそれ以下が望ましい。教員と学生が互いにコミュニケーションを取れる規模ということだ。基礎運動の繰り返しや自己管理のための授業だけでなく、夏、冬のスポーツ種目も組み込んだり、多数出てきている新しい種目に挑戦したり、メリハリをつけたらいいだろう。こうした新種目についての体育教員の研修も実際に行われている。集中講義の形を取れば、夏冬に合宿授業も行える。学生は初めて出会った多様な学生たちと生活を共有し、リーダーシップも学べる。1年から4年まで何度でも履修できるようにすればどうか。
それには体育教員の手当てなど、大学側にとってはいろいろな努力が必要になる。しかし、これからの時代を考えると、競争が激しさを増す大学にとって、学生のためにも、地域コミュニティの中心となっていくためにも、体育の授業は大きな柱の一つとなり得るのではないだろうか。
そんな魅力的な体育の授業があったら、私も受講したい。