津田塾や日本女子など複数の女子大学が「女性」の定義見直しに踏み込もうとしていることに対し、性同一性障害の当事者の杉山文野さんは「歓迎」と喜ぶ。と同時に、それだけでは不十分だとも指摘する。各大学が目指す多様な人々が「安心して学べるキャンパス」とは、どのようなものか。そもそも「多様な人々」とは誰なのか。(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈)
※LGBT
性的少数者の総称の一つ。L=レズビアン(女性を好きになる女性)、G=ゲイ(男性を好きになる男性)、B=バイセクシュアル(好きになる相手の性別を問わない人)、T=トランスジェンダー(身体的な性と心の性が一致しない人、性同一性障害は診断名)を組み合わせた。
■定義の見直し「大歓迎」
――津田塾などの女子大学が「女性」の定義を見直そうとしている。どのように受けとめているか。
杉山 LGBTの一当事者として、大歓迎だ。教育現場が変わっていく。それは大変重要なことだ。こういう動きが出て良い点は、こういう悩みを抱えている人たちが「いる」という前提で検討が始まることだ。
――確かに、「そういう人がいるかもしれない」といった仮定の話ではなく、「今ここにいる」という現実を前提に検討が始まる。それはキャンパス内に限らず、社会全体を含めた意識改革にもつながるだろう。ところで、杉山さんは幼稚園から高校まで日本女子大付属に通っていたとか。
杉山 そう。幼稚園は共学だったが、制服のスカートを履かされるたびに、いやだいやだと泣いていた記憶がある。はっきりと意識はしていたわけではないが、自分は女性ではない、スカートは女性の象徴だという認識はあったようだ。小学校入学時には、自分は「おかしい人」かもしれないと不安を抱いていた。一方で、そういうことを言葉にしてはいけないと幼心にも感じていた。
体に対する強い嫌悪感はずっと続いた。中学生から高校生にかけての時期が一番つらくかった。体は「女の子」として成長しながら、心は、「男」としての自我が強くなっていく。「自分だけ頭がおかしいのではないか」と思った。女性として年を重ねていく未来が全く想像できず、かといって男性としての未来も想像できない。自分は大人になれないのではないか、いっそ早く死んでしまいたいと......。
――著書には当時の自分を「女体の着ぐるみを着せられて」と振り返っていた。気持ちと体の違和感をこう表現するのかと驚いた。
杉山 とはいえ、いつもネクラな生活をしていたわけではない。女子校ではボーイッシュな先輩はもてるので(笑)。外ではスポーツ、当時はフェンシングに打ち込んでいたが、ボーイッシュで明るく元気な先輩を気取りながら、家に帰ると一人泣く、という二重生活だった。高校の途中で仲の良い友だちにカミングアウトしたのをきっかけに、少しずつ周囲に受け入れてもらい、自己肯定感を取り戻していた。
それでもやはり、この先どう生きていくのかは分からなかった。ただ、最終学歴が「女子大」では生きづらいだろうと考え、小学生時代から続けていたフェンシングで早稲田大に推薦入学した。
今では「元女子高生」とネタにできるぐらい、オープンにしている。結局、隠し通すことはできないのだ。もし僕が就職をしようとしたら、今でこそひげの生えたタダのおじさんではあるが、戸籍上の性別変更※ができていないため、外見と戸籍が合わなくなる。たとえ戸籍の変更ができていたとしても、女子校出身ですといえば、ばれてしまう。不当な扱いを受ける危険性もある。そんなことを言っても言わなくても生活に影響に出ない世の中になればいいが......。そんな現実があるから、教育現場が変わっていくことはとても大きい。
※戸籍上の性別変更
性同一性障害特例法(2004年施行)によると、家庭裁判所で審判を受け、認められる必要がある。認定要件は(1)20歳以上、(2)婚姻をしていない、(3)未成年の子がいない、(4)生殖腺がないか、機能を永続的に欠く、(5)(形成手術で)他の性別の性器に似た外観を備えている――の5点。(4)(5)について世界保健機関(WHO)は2014年、「強制された、または不本意な断種手術は人権侵害にあたる」とする声明を出し、欧州を中心に約30か国で、手術なしで性別変更できるよう法律を改正するなどの動きが広がっている。
――今でも母校の日本女子大と行き来があるとか。
杉山 公開シンポジウムに呼ばれたこともある。性同一性障害についての話も聞きたいと。その中で、かつての先生から謝られた。「あのとき気づいてあげられなくてごめんね」と。初めてできた彼女と一緒にいる時間が長かったから、ある先生から「いつも一緒にいて気持ち悪い」と言われて、すごくいやな思いをしたことがあったのだ。保健体育の授業で何かの感想文を提出するとき、その片隅に小さい字で「性同一性障害について教えてほしい」と書いたが、対応してもらえなかった。「あの時はそれを扱うことは考えられなかった。ごめんね」と先生に頭を下げられた。
今、学生時代にホルモン投与を受ける人が現実にいる。女子学生が投与を受けてひげが生え始めたら、大学側はどう対応するのか。退学しなくてはいけないのか......。
――確かに、現実的な対応が不可欠だ。「安心して学べるキャンパス」構想に提言はないか。
杉山 うーん。つきつめたら、そもそも「女子校って何のためにあるのか」ということにならないだろうか。男女で分けて学ぶ必要はあるのか。
ともあれ、行きたいと思った人が行ける、選択肢が増えるのはいい。トランスジェンダーとうそをついて女子大に入り込もうとするような、良からぬ男の存在を心配する向きもあるかも知れないが、そんな犯罪者と同じ土俵で語ってほしくない。
――津田塾大の髙橋学長は、トイレや更衣室といったハード面、名前の呼び方、人称代名詞といったソフトの面での配慮にも言及していた。
杉山 名前に関しては、名簿通りではなく、本人がこう呼んでほしいと望んでいる名前、たとえば通称でも使えるような、柔軟な対応がほしい。大勢いるわけではないから、教職員にとってそんなに負担にはならないだろう。ハード面では、キャンパスにいくつか男女兼用のトイレを設けてもらえればいいと思う。
■不安を取り除く努力
――大がかりな設備や制度の変更は必要ないということか。「大学がこう決めているのだか、それに合わせなさい」ではなく、大切なのは選択肢を設けることと。
杉山 安心して学べる環境がある、それが一番大事だ。そのためにできることはやろうよというぐらいであって、何か特別なことをする、と力みかえることではないのだろう。
渋谷区の条例※を制定する際、事前にアンケートをとった。制度がないことによって何に一番困っているかと聞いたら、「心理的な安心感」「社会的な理解」が2トップだった。当事者は具体的に何かに困っているではなく、漠然とした不安を抱えている。まずは不安を取り除いてほしい。セクシャリティがどうであれ、学びたい人が心安らかに学べる環境があることから始まる。
渋谷区の条例
区内に住む20歳以上の同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、パートナーであることを確認する証明書を発行する条例を、全国に先駆けて2015年4月に施行した。
――不安を取り除くための努力、なるほど。
杉山 まずは周りの理解、ハードよりもハート、ソフト面だ。周囲の気持ちが変われば、ハードはそこまで大きな問題にならないと思っている。
例えば経産省の職員が、男性から女性になってトイレが使えないと訴訟になったことがあった。コナミスポーツで男性から女性になったので登録を変えてほしいといったら、できないから訴訟になったという話もあった。よくよく聞いてみると、問題はトイレや更衣室ではなく、そこにいる人たちの意識だった。判断材料がないから、戸籍上の性別と異なるからダメ、の一点張りだった。
でも現実をみてほしい。たとえば戸籍上は「女子」、でも外見は男の僕がどのトイレに入ったらいいのか。戸籍上の問題を言うなら、その姿で女子トイレに入ればいいのだろうか。
――なるほど、目の前の人に向き合う現実的な姿勢が不可欠だということか。
杉山 そう、当事者の困りごとはその人によって違う。何に困っているのか聞く姿勢があるかどうかが大切だ。その際、理解や知識がないと、戸籍上の性別、つまり制度に寄りかかるしかないが、制度は肝心の社会の変化についていけていない。だからトラブルになる。制度はどうであれ、目の前の人が困っているからどうするのかという点に重きを置けば、自ずと大問題にはならないと思う。
――そうなると、「性別」とはそもそも何か、という問題も出てくる。
杉山 性を分けることがいけないとは思わないが、あくまでも便宜上というだけだ。きっぱり「2パターン」だけと分けるのは窮屈ではないか(=図)。とはいえ、おふろも更衣室もトイレも、みんな一緒というわけにはいかない。大きな分け方として「女性用」「男性用」とあることが悪いとは考えない。ただ、それにあてはまらない人が出てきたときに、「いない者」として扱うのではなく、そういう人たちにとっても過ごしやすいとはどういうことかをみんなで考えていきましょう、となれば良い。
右肩上がりの成長時代ではない。少子高齢化、人口減少社会だ。その属性によって扱われ方が変わるのではなく、みんなが暮らしやすい社会を模索する時が来ている。
――その先駆けとしての、多様な人々を包摂したキャンパス。言うは易く......。
杉山 多様な人々というと、高齢者や障害者、外国人、LGBTなどの「特別な人々」を思い浮かべるようだけれど、よく考えてほしい。誰もが年を重ねれば高齢者になる。きょう事故に遭えば、明日から障害者の可能性もある。海外に行けば、僕たちは外国人だ。そう考えていくと「多様な人々」とはみんなのことではないか。どこかの特別な何かではなく、自分のことだよね、という認識が共有されればいいなあと思っている。
おわりに
「多様性のあるキャンパス」は、「特別な誰か」のためのものではなく、あなたの、自分のためのもの――大学のグローバル化とセットで取り上げられるせいか、多様性というと、「外国人留学生」「社会人学生」に焦点が合いがちだった。それを自分事として考え直したとき、実現への道筋も変わっていくだろう。
「女子校、男子校と分ける必要はあるのか」という杉山さんの問いかけは重い。大学進学率をみれば女子も男子も変わらず、「女子に教育は要らない」と言われていた時代は遠くなった。その意味では、女子大のこれまでの取り組みは一定の成果を得たと言えるだろう。だが、だからこそ、今改めて女子大の存在意義が問われる。女子大はどう答えていくのか。(奈)
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