「国立大学法人化は失敗だ」と断じた、前回掲載の山極寿一・京都大学長の発言に対し、賛否両論の声が寄せられている。「よくぞ言ってくれた」「いや、法人化は不可避だった」「大学改革は失意の連続だ」......。そうした中、「法人化は必然だった」と当時を振り返るのは、東京大学の五神真学長だ。「法人化していなかったら、もっと悲惨だった」とまで。ただ、「国立大学は公共財」という点では、両者は一致しているようにみえる。法人化14年。「公共財」としての国立大学は,今後、どう歩を進めるべきか。五神学長に語ってもらった。(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈、写真・秋山哲也)
次回は上山隆大 総合科学技術・イノベーション会議議員
――山極学長は「法人化は失敗だ」と指摘した。五神先生の考えは。
五神 失敗成功というより、法人化は必然であった。そもそも選択肢がなかった。1980年代には国立大学の劣化は既に深刻だった、それがそのまま続いたら、もっと悲惨な状況になっていた。国は貧乏になった。貧乏国が国立大学という大事な「公共財」をどう支えるのか、その考えから出てきたのが「法人化」だったとも言える。
――国立大学は公共財か。
五神 そう、大事な公共財だ。日本だけでなく、人類全体の。それを持続可能な形にして次世代に渡すには相当な発想力が必要だ。東大は2017年4月、創立140年を迎えた。戦前戦後と大まかに70年ずつに分けてみると、東大の役割が時代によって変わっていることがよく分かる。草創期は,西洋の学問を取り入れて近代国家の礎を作ることだった。法律、経済、医学など様々な専門家を養成しなくてはならなかった。戦後は、焦土と化した国土をどう復興させ、世界に追いつくかに力を尽くしてきた。なぜこんな話をするかというと、国立大学が何の上に乗っているかを理解する必要があるからだ。
――なるほど。もし法人化しなかったらもっと悲惨なことになっていたと話したのは、そうした役割を意識してのことか。
五神 私が大学院に入ったのは、1980年。東大でも施設の老朽化はひどいものだった。どの研究室にも「オーバードクター」が大勢いた。いま、若手の雇用が不安定と言われているが、当時はもっと悪かった。
ドクター2年で中退して助手になったが、非常に珍しかった。しかし、そのときの給料は、予備校や家庭教師で稼ぐアルバイト代の半額ぐらい。優秀な人は民間の研究所に出て行った。大学に残るより,企業の研究所の方が資金も潤沢で自由だよと勧めてくれる教授もいた。国立大学の貧乏は、今に始まったことではない。1988年12月に31歳で工学部講師として独立した研究室をもった。初期費用として大学から支給された資金は150万円。前任者が置いていった装置は古くてぼろぼろ、壁も床も汚い。隣の研究室の卒論生や院生にも手伝ってもらいながら掃除した。ゴミを出して、床をリノリウムに張り替え、壁をペンキで塗り、エアコンを入れた。それで150万円は消えた。でも海外の国際会議には積極的に参加した。毎回のボーナスは旅費で消えた。実験装置を買うにも、少しでも安くしたいから、業者さんに粘り強く交渉すると、嫌がられて「五神先生のお友だちの○○研究所の××さんはもっとお金を持っていますよ」などと返され、悔しい思いもした。
――法人化で国立大学が悪くなったわけではなさそうだ。
五神 もちろん。国が丸抱えで維持するには財政的にもたなくなった。だが、法人化でどういうふうに運営の仕方が変わるのかは、実は誰もわからなかった。国も、大学も、初めての経験。余りにも激変しては困るから、国立大学時代の国立大学校費と教職員の人件費(承継教職員人件費相当分)は担保する、教職員の退職金も保障する、という話だった。ベースの部分は国立時代と変わらないな、という感じで始まったのが法人化だった。
実際は、責任権限が法人に移るということは、管理経費も上がることだった。国にあった最終責任が国立大学法人に移ったのだ。それなのに、建物の維持、安全といった管理コストの追加予算措置はない。そうして管理コストが高騰していったことが、大きな経営上の負担になった。
一例を挙げると、東日本大震災を機に光熱費がすごく上がった。特に電気代。東大では年間30億円ほども膨らんだ。一方で、運営費交付金は毎年1%削減される。その下で、経営力を強化しつつ、公共財としての使命を果たすといった難題への答えが求められている。
――運営から経営への転換が、求められたということか。
五神 とはいえ、大学には収益事業があまりない。授業料はある程度の裁量は認められているがほぼ一律。経営が厳しいなら授業料を上げればという助言を受ける。しかし、東大について言えば授業料を上げてカバーできる財源はそれほど大きくない。そもそも、私は国立大学の授業料を個々の大学のマネジメントとして勝手に決めるという考えには違和感がある。社会全体を意識した議論を前提とすべきだ。
選択肢がそれほどない中で収益事業をどう作るのか。その知恵が必要だ。第2次安倍内閣以降、国立大学改革は常に政府の議論の中心だった。どの会議でも最終的には大学改革、とりわけ国立、最近では東大など研究大学の改革が急務と指摘されて続けてきた。いわく、ガバナンスを改革しなければならない、学長のリーダーシップを強化しなければいけない、不動産を有効活用しよう、個人や民間からお金を集め、財源を多様化しよう......。「運営から経営へ」と求められているのが現状だ。学長になったのは2015年4月。直後に文科省が「国立大学経営力戦略」を出し、「運営費交付金依存体質からの脱却」を打ち出した。大学を自律的な経営体にしたい思いは同じだが容易ではない。しかし、私は大学への期待、応援のメッセージだと考えることにした。
――自律......。1991年、大学設置基準の大綱化でほとんどの大学から教養部が消えた。
五神 教養部がなくなるという判断は、誰がしたのか。それぞれの大学がしたことだと言わざるを得ない。東大は教養部を残した。どの専門に行くかを決める前にリベラルアーツ教育を、という東大の伝統は維持していこうと判断したのだ。そうした仕組みは良いものだ。これは私自身の実感だ。
――国立大学法人化は、しばしば国鉄の民営化と比較される。
五神 国立大学法人化は、国営の大学を「民業」にしたのではなく、国の仕組みとして「法人」という形をつくったのだ。国の責任も権限もある部分は継続し、ある部分は法人の責任権限にした。
国鉄民営化の責任は、基本的には国が負った。国鉄がなぜドラスティックに転換できたのか。国鉄の経営が破綻していたからだと理解している。民業に移すため、国は様々な援助をした。過剰な人員を引き取り,スリム化して移管した。
国立大学法人化は、それとは違う。法人化後も主たる原資は税金。自律性への期待はますます高まっているのに、現在においてもきちんとした経営構造になっていない。財源構築と合わせて自律性も問題にする必要がある。財源構築をするには、新しいアイデアで経営モデルを築かなければならないが、国立大学にはそういうノウハウがない。もちろん、国にも社会にも。前例がなかったからだ。国立大学とは何かという再定義や合意づくりのプロセスがないまま進んでいるのだから、仕方がない。
――スリム化と民業への構造転換をして全く新しいスタートを切った「国鉄」と、スリム化せず「自律」とも言い切れない形でスタートした国立大学法人。今日の姿は、織り込み済みだったということか。
五神 国立大学時代の終わり頃、全く財源が足りていなかった。その状態で「現状維持」することになったので、相当苦しい状態になるのはみえていた。スリム化して財源に見合った形にまでダウンサイズしておけば、経営できたかもしれないが、そういうことにはならなかった。当時、社会も大学自身もそんなことを望まなかった。
日本の道路や橋、医療を含めた社会保障......パブリックなものの維持、という面では全て破綻に近い状況だ。国立大学法人化もその中の一つにすぎない。だから困難であったことは、当初から明らかなのだ。「国立大学法人化が失敗」とかいう話ではなく、国づくりが大きな転換点に差しかかっているのだ。けれども長期的な展望が欠落している。国立大学改革は、国としてパブリックなものを支える新たなモデルを構築するための第一歩だ。大学改革への期待の本質は、そこにあると私は感じている。
■「三方良し」の最強のシナリオ
――アイデアはあるか。
五神 ある。日本の経済力を高める方向に資する方に動かないと、社会の共感は得られない。だが税金、運営費交付金だけで維持することができないから法人化したわけであって、新しい方法を考えなくてはいけない。その際に、同時に資本主義そのものをよい方向に変えていかなければならないということを忘れてはいけない。エゴが前面に出る、単純な市場原理の資本主義ではだめだ。「三方良し」――売り手良し、買い手良し、社会良しで、個々の人々が自由に活動し、経済を活性化し、その中で、しっかりパブリックを支える仕組みを作る。それは産業の進むべき方向でもある。
――一企業をもうけさせるのではなく、「三方良し」の資本主義に資するためのモデルを作るとは、ずいぶん話が大きい。
五神 かつて労働集約型の社会だった。「まじめにこつこつ」が基本だった。やがて、「大きいことは良いことだ」がキャッチフレーズになる資本集約型の社会となった。大量生産・大量消費の時代だ。しかし今、大きな転換点を迎えている。みんなで知恵を出し合う「知識集約型」、知恵が価値を生み、個を生かす時代への転換だ。そのような良い社会に向かうために、大学が主体的に行動する。そのために、まず改革が必要だ。
――だが、その基礎的な体力を担う運営費交付金は減っている。
五神 確かに東大は、年10億円弱ずつ運営費交付金が減っている。だが、あまり大きな問題だと思わないことにしている。取り戻せたとしても、本質的な問題解決にはならないからだ。焦眉の急は、迅速に日本が直面している問題を解決しなければいけない。優先順位からいったらそこが第一だ。
――国大協はずっと運営費交付金の削減を問題にしてきたが。
五神 自主財源構築の道筋が見えない中で、きわめて重要なベース財源なのだから、問題視するのは当然だ。しかし、パイが限られている中で、配り方を少々工夫しても始まらない。もともとまるで足りていないのだから。その議論に時間をかけるのは、改革のブレーキでしかなく、時間がもったいない。
――東大の話であって、86の全国立大学の話としては考えにくい。東大とそのほかの大学では、規模も歴史も違いすぎる。
五神 47都道府県に国立大学がある、その価値自体を見落としてはいけない。価値は時代によって変遷する。戦後の教育改革で教育の機会均等を高いレベルで達成したことは大きな成果だ。47都道府県にあったことで、徹底的な民主化が行われた。これからは、みんなが幸せに暮らせる「インクルーシブ社会」を作るインフラだ。社会がどう変わるか先取りする形でその価値を活用する発想が要る。それを先行的に示すのが東大の役割だと認識している。
地方と都市、高齢者と若者,男女の格差などを縮め、インクルーシブな社会にする。国連のSDGs(持続可能な開発目標)もそれをうたっている。日本には優位性がある。国立大学が重要な資源であることが明らかだからだ。
生産性の上がらない産業の一つとして農業がある。小さい農地では生産性が上がらない。大規模化をしようとしても、先祖伝来の土地に対する独特の文化があって、集約は難しい。だから行き詰まる。ところがスマート農業でその課題を克服できる可能性がある。その実例が、政府の「未来投資会議」で紹介された。小規模な畑に温度・湿度・雨量・風速センサーを設け、データ集積をし、きめ細かに管理すると生産性は劇的に向上するのだ。今注目されているAIも活用すれば、さらに伸ばせるだろう。
インターネットが普及して20年近くたつ。サイバー空間に蓄積しているデータも臨界点を超え、ビッグデータの活用時期に来た。活用するツールとしてのAIも発達した。スマート化が進むときに,データ活用の技術が重要になるが、理工系大学で、修士ぐらいの学生なら、十分戦力になる。漁協や農協と協力したり、畜産大学と協力したり。そのときに、地域に工科大学や工学部があるかないかは大きな差だ。ある会議の議事録をみたら、北海道に工科大学、工学部がこんなに必要かという周回遅れの議論がされていた。産業構造の大転換期だからこそ、本来の価値を見落としてはいけない。
――それはアンブレラ方式(国立大学法人の統合)への批判か。
五神 経営の形はどうだってかまわない。大事なことは、47都道府県に学術用の良質なデータネットワークがすでに整備されているということだ。中国や韓国は、地方と中央のネットワークが弱い。日本は全て「100G」という大容量のネットワークで通じている。
これまでビッグデータ活用というと、たまったデータをサーバーに入れ、AIで学習させて、その学習結果を製品に埋め込んで売りましょう、ということだった。今、リアルタイムのビッグデータ活用の時代にシフトしている。
――それが先ほどの国立大学をつなぐ「100Gのネットワーク」で実現できるのか。
五神 そうだ。解析をできる場所が北海道から沖縄まで張り巡らされていて、鳥取でも、福島でもどこでも使える状況が今ある。学術研究には企業などとはけた違いのデータを扱う必要があり、整備されてきたが、いままさに社会が必要とするデータ処理に使えるようになった。正しい「先行投資」だったのだ。
最強のシナリオが見えてきたと思っている。国立大だけでなく、ここに公立、私立も加えれば、もっと密なネットワークができる。産業の拠点になるはずだ。変革を急ぐべきであって、運営費交付金がどうのこうのという議論は後回しでいい。
――とはいえ地方の小規模大学は息も絶え絶えの状態であることは確かだ。
五神 それはわかっている。だが、今は国自体が息も絶え絶えだと、誰よりも私たち大学人が理解しなければならない。いろんなデータをとれるよう、毛細管を作らなければならない。牛にセンサーをつけたり,漁船にセンサーをつけたりもしなければならない。モバイルでデータを集めるところが鍵だ。だが、最もお金のかかる初期投資はすでにできている。日本は世界に先んじて産業構造の転換を図れるはずだ。コアな部分は国立情報学研究所(NII)がやっている。さらに東大が全面バックアップして、心臓を強化したい。2~3年で私たちはゲームチェンジをしなければならない。一刻を争っている。私の任期はあと3年だから、未来投資会議も含めさまざまな会議で賛同者を増やしている。経済界の理解は大きく進んだと実感しているが、肝心の国立大学がまだイメージを共有するところまでいっていない。
――いまの話は、理系中心の国立大学の価値だ。人文、社会科学はどうなるか。
五神 知識集約型社会での価値の源泉は、知恵や情報だ。人文社会科学の知見はその中心だ。文理を越えた連携が不可欠だ。急速にポピュリズムが力を持ち始めているからこそ、国立大学の重要性は増す。2014年から急激に情報量が増えている。スマートフォンでインスタグラムや動画を見ている人が増えたからだ。文字ではない情報流通が加速している。人と人とのつながり、共感の持ち方も変わったのかもしれない。ポピュリズムが急激に広がっていることと連動している。社会のありようという観点からも、ゲームチェンジは起こりつつある。いい社会になるか,だめな社会になるかは、多くの人がどんな意思を持つかにかかってくる。いい社会にするという共感を高めることが必要で、その中心を担うのが大学、公共財たる国立大学の最重要の役割だ。
■高大接続改革を後押しする
――社会の仕組み全体を駆動する。その思いはわかった。社会の根幹の教育についてはどうか。先日、国大協の総会で、高大接続改革に異議を唱えていたが。「書く」「話す」「読む」「聞く」といった英語の4技能に関する民間試験の結果を、東大は入試に使わないと発言していた。
五神 後ろ向きの発言のように伝わったことは、残念だ。「使わない」ではなく、高大接続改革の精神に戻るべきだと言ったのだ。一点刻みの入試に高等学校の教育が支配されてしまう状況からどう脱却するか。本質はそこにあったはずだ。
入試で使うとたやすく言うが、入試としての公平公正性について社会の要求レベルは非常に高い。それを担保するのは容易ではない。阪大、京大の入試ミス報道によって、それを再確認した。入試での選別に使うのであれば、その期待に応えることができるかを、丁寧に検証しなければならない。世界が急展開する中で、学生の英語力の4技能を鍛えることは最重要だ。そのためには高校時代から努力をしなければならない。そのメッセージがぶれてはいけない。4技能についての民間試験を応募の必須にすることは有効だと考えている。
――試験の点数ではなく、出願の際のハードルにする。重視していることは変わらない、と。
五神 東大でも英語の「話す、聞く」の部分については学生の能力は相当幅がある。だが、卒業時にはどんな学生にもハイレベルの力をつけさせたい。そのために、話す力以外の部分については入試の成績をもとにクラス分けもしている。学内で議論もしていないが、来年4月から、4技能試験を受けたことがない学生に、受験料を学長裁量経費でサポートすることも検討したい。もちろん、既に受けていたらそのデータを出してもらう。
高大接続改革の本来のゴールは、卒業する時点で、しっかり学生の力を伸ばしていること。生涯学び続ける力を培うこと。その本来の趣旨に立ち戻り、高校・大学教育、その間をつなぐ入試改革を通じて、大学卒業時の学生の能力をきちんと担保することの重要性についての共通認識を広めたい。入試改革はその重要な機会だ。それは東大、いや国立大学全体のミッションだ。
おわりに
「失敗だった」「いや、必然だった」――国立大学法人化をめぐる山極、五神両学長の論は、一見真っ向からぶつかっている。けれども冷静に文脈をたどると、結果と出発点への評価の違いであり、現状に強い問題意識を持っている点では隔たりはないことがわかる。両氏が「公共財」の長として、大学の将来を、社会全体の行く末を案じ,懸命に対応策を模索する姿には、率直に胸を打たれ、自然と頭が下がる。
とここまで考えたとき、ふと思い至ったのが、学生の不在だ。その行動の是非はともかく、1960~70年代には、学費値上げなど大学改革に寄り添うように、活発にものを言う、あるいは無軌道に主張を貫こうとする若いエネルギーがキャンパスにあふれていたと聞く。今、学びの主役であるはずの学生を、改革論議の舞台にのせる手だてはないのか、そんな考えはそもそも無価値か、などと浅い夢を見たりする。春宵一刻。(奈)
vol.40<< | 記事一覧 | >>vol.42 |