「失敗だ」「いや、必然だった」――国立大学法人化をめぐり、見解の隔たりを明らかにした山極寿一・京都大学学長と五神真・東京大学学長。ただ両学長とも、国立大学法人が「公共財」である点では、まったく揺るぎなく一致する。これに対し、「法人化は必然」としつつ、「国立大学法人は公共財なのか」と疑義を呈し、税金から出される「運営費交付金」依存の体質を批判するのは、大学改革を支援する内閣府の総合科学技術・イノベーション会議、上山隆大議員だ。その真意を聞いた。(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈、写真・秋山哲也)
■法人化は「必然」だ
――大きな論点は二つある。法人化をどうとらえるか、そして公的資金で支えるべき「公共財」なのか。まず2004年の国立大学法人化について聞きたい。
上山 法人化は必然だったと、私も思う。法人化時点での国内外の大きな環境変化から考えれば、そうなる。研究と教育の両面で大きな変化が起きていた。
かつては、新しい知が経済的効果を持つまでに、長い時間が必要だった。基礎研究から応用、製品開発......。ところが80年代から、基礎研究がいきなりお金につながるようになった。その典型は医薬だ。誰かに成果を持って行かれないように、すぐに特許を取る風潮が出てくる。さらに、ベンチャー(起業家)も出てくる。特定の誰かの手に、お金が入っていくのだ。「公共財」とは、だれもが無制限に使えることが担保されていなければならない。そうなると、なぜそこに税金を使うのか、という議論が起こるのは当然だ。
――なるほど。「国立大学は公共財」という意見と真っ向からぶつかる現象が、すでに研究の現場で起きていたということか。大学教育についてはどうか。
上山 ICT化の波が来ていた。1996年、スタンフォードやハーバード、ケンブリッジ、オクスフォードの図書館をGoogleがデジタル化した。大学の拠点である図書館に行かなくていい。もっと言えば、知識を得るために大学に行く必要が薄れたのだ。大学に対する強烈なアンチテーゼになった。大学の授業程度の知識なら、インターネットで手に入る。そうした中で、どのような大学教育がいいのかを考えたら、100人も200人も集めた講義などはあり得ない。学生が持っている潜在的な力を引き出し、新しいアイデアを創り出せる、そういう方向に舵を切らざるを得ない。できるだけ少人数で、教員と学生が議論をし、深く考える時間だ。一方ではビッグサイエンスが起きていた。一つの論文に数十人規模で取り組み、実験用の機材も必要。教育も研究もコストがかかるようになっていた。
高騰するコストを誰が担うのか。高齢化社会で社会保障費がどんどん膨らむ中で、高等教育のコストをどう効率化して、最適化を図るか。諸外国では、いくつもの政策が重ねられ、その中で大学が強くなっていった。
日本でも国立大学が法人化されるという大転換が起きたが、失敗とまでは言わないまでも、たくさんの齟齬(そご)が起きてしまった。
■ボタンのかけ違い
――失敗ではないが、齟齬が起きているとは。どうしてか。
上山 法人化の際、文科省が法人化の真の意味を現場に伝えていなかったことが大きい。「法人化をしても、皆さんは変わる必要はない」、統治の形が「少し」変わるだけだ、これからも高等教育行政は「これまで通り」のことをしていく――こんな説明をしていた。現場には非常に強い反発があることは承知していた。民営化を受け入れ、競争的環境を作らないと、財務省に財源をカットされるという危機感もあったかもしれない。そのボタンのかけ違いが、その後の行政当局と大学現場の意識の乖離(かいり)につながった。
■法人化に生じた齟齬の原因
・文科省が法人化の意味を伝えていなかった
・大学間、大学内の資金の偏在を考慮しなかった
・間接経費の問題を放置した
・多様な民間財源、特に寄付を集められない
・一体感を阻む学長選挙
――法人化で、大学同士の、あるいは大学内部での競争が始まり、格差が生じた。
上山 競争資金の偏在、つまり金を取れる所と取れない所が出てくるとどうなるか。その対策を講じていなかった。これが二つ目。運営費交付金を1%ずつ削減し、そのお金を競争的資金に回すことが誤りだったとは思わない。だが、その際に必要な政策がなかった。
競争的資金は、ある時点で「能力的に高い」と評価されたところに重点的に投下する性質のものだ。そうなれば、優秀な研究者が集まっている研究大学に集中するのは当然だ。そうした状況にない地方の国立大学は1%減らされ、体力を失っていく。
競争的資金の分配に使われる評価は、「今」しか反映していない。だから「いつか成長する」ところには回されない。運営費交付金を一律削減ではなく、明らかに競争的資金が集中する研究大学だけ大きく減らすという方が正しかった。
加えて学内でも、競争力のある医学や工学などに偏在した。さらに悪いことに、この間ずっと間接経費※の問題を放置していた。
※間接経費
国や企業などから与えられる研究費に上乗せされる資金。光熱費や施設維持費、研究に必要な人の雇用などが想定されている。直接研究費の3割程度が一般的。
――研究費に上乗せされる日本の間接経費の乏しさは、前から問題になっていた。
上山 間接経費は、研究費を取った研究者ではなく、大学全体が使えるお金だ。だから大学内部の資金の偏在を和らげることに役立つ。諸外国の大学を見ていると、大学を維持するコストをしっかり計算して上乗せして競争的資金をとり、学内に循環させている。研究費をとりにくい分野に充てている。日本の大学は、その程度のこともやってこなかった。
――資金の偏在が、学内の格差と不満を深刻化している。
上山 工学部や医学部は間接経費を上乗せした競争的資金を取って、大学全体を養うのが当然だと認識しなければならない。工学部や医学部の研究者は「俺たちはお金を取っているからエライ」と威張っているが、もともと運営費交付金では赤字が出る部門で、お金を取らなければいけない。人文・社会科学系の研究者がそうした現実に反発するのは、当たり前だ。競争的資金を取れなくても、運営費交付金で十分やってこられたからだ。
■間接経費と税金で大学強化
――先ほど、世界の大学は伸びているという話があった。
上山 民間企業からの資金、特に共同研究の大型化が要因のひとつだ。たとえば、カリフォルニア大学の公的資金はかつて30%だったが、いまは10%。公的予算は減っているにもかかわらず、大学全体の資金は年率5~7%も伸びている。
――日本では前から、大型の共同研究ができないと指摘されている。
上山 日本で共同研究を大型化しても、大学のうまみが少ない。間接経費がきちんとついていないから、本来ならばそれで賄われる光熱費や人件費も、大学におんぶに抱っこ状態。運営費交付金でつくられた施設や建物を使う、つまり税金で支えてもらっているのだから、企業にとってはトクだろう。大学にとっては持ち出しが増えて疲弊するだけ。だから国立大学の共同研究は300万円程度で、1億、2億円が当たり前の諸外国と見劣りがする状態なのだ。
大型の共同研究には、組織的な産学連携が不可欠になる。契約書の協議、作成から、しっかりしたサポートが必要だ。だが、そのコストを誰が担うのか。企業は払わない。産業界と大学の関係が大昔のままの細いパイプで共同研究をしてきた。それを太くすれば大学の財務は安定するのに。
――なぜ企業は出さないのだろうか。
上山 総合科学技術・イノベーション会議で、共同研究のあり方については指針を出している。
>>文部科学省ウェブサイトへ(PDF/22ページ)(平成27年12月28日「本格的な産学連携による共同研究の拡大に向けた費用負担等の在り方について」イノベーション実現のための財源多様化検討会)
その過程で、間接経費を30%は出しほしいと企業側に言ったら、面白い発言があった。「もちろん間接経費も出す。何に使われるのか、内訳さえきちんとしてくれればいくらでも」と。米国では、光熱費や施設使用料、事務スタッフの人件費など、研究開発費をきちんとした財務リポートで出してくる。だから「間接経費は●●%」と明確な数字が出せる。そういうものを出せ、と企業は言うのだ。しかも、「利益率」も上乗せしていいとまで。そんな話を諸外国で聞いたことはない。すごく日本的な提案だ。「戦略的産学連携推進経費」として5%上乗せしていいと提案してきた。大学本部が何でも使えるようにしたらいいじゃないですか、と。
――脱線するが、総合科学技術・イノベーション会議は企業側との協議もしていたのか。
上山 そうだ。大学との共同研究に対する資金を、従来の3倍増にすると約束させた。総合科学技術・イノベーション会議がこの数年間やってきたことは、大学への寄付や間接経費など、大学改革を推進させるための方策、国大協が求めてきたことを実現しているのだ。批判ばかりしているわけではない。
だが、ここでせっかく作った道具を、大学は全く使おうとしない。自分で解決していないからだろう。文科省は財務省から金を取れない、そんな繰り言ばかりだ。こちらで作った道具をどう使えばいいかを議論すべきなのに、現状を守ろうとする。
――多様な財源のひとつ、寄付も問題だ。
上山 寄付は少ない。1970年代、ハーバードの大学基金は約800億円だったが、今や4兆円を超している。スタンフォードも3兆円。その基金の運用で毎年、数百億円の収入を得ている。それを研究教育に充てる。日本の大学には基金がなく、しかも寄付する方が損をする税制だった。大学も寄付を集めようと思っていなかった。
――なぜ巨額の寄付金を集められるのか。
上山 寄付を集める専門家集団を学内に持っているからだ、シカゴは400人ぐらいいるんじゃないかな、寄付部門のスタッフが。その人が仮に年収1000万円でも、年間1億の寄付を集めてくれば、十分ペイする。昨年、総合科学技術・イノベーション会議がやってきたことは、寄付の税制改革だ。寄付した人が損する仕組みを変えようとしている。米国では、株を大学に寄付すると、寄付した人の所得税からその分が控除される。100円で買った株が1000円になっていたら、900円はもうけたことになる。そのもうけ分、キャピタルゲインの分も控除されるので、寄付した人に金額が大きいほどメリットになる。それに似たような制度を作ったのだ。すでに財務当局と合意ができている。
■一体感を阻む学長選挙
――寄付も含めた財務の多様性、言われ続けているが、実現は難しそうだ。
上山 日本の国立大学法人にその意識はない。運営費交付金で全部守られて当然、と思っていたら、そんな意識が生まれるわけがない。文科省と国立大学法人の関係性について言えば、「子離れ」「親離れ」してほしい。今のままで経営感覚が育つわけがない。
学長選挙についても、苦言を呈したい。国立大学法人法で、大学の学長の役割は、大学を総理するとなっている。「何でもできる」存在なのに、できない。その理由が選挙だ。
選挙をやめろとは言わない。選挙は物事を決定するやり方としてはいいが、「組織を一体化」するにはデメリットが大きすぎる。選挙で勝った人は、当然、支持母体を中心にして学内行政をするから、競争的資金で取ってきたお金をどのように学内で循環させるかといった重要な議論は生まれない。資金の偏在を緩和して、組織としての一体感を生み出す経営は絶対にできない。
外国のどの大学で聞いても、「学長を選挙で選ぶなんて最悪だ」と言われる。そんなことをすれば学内が政治化する。政治を持ち込んだ瞬間、大学としての一体感が常に阻害される。選挙をするのならば、大学外の目も入れて時間をかけて候補者を探せばいい。
――国立大学法人法を読むと,学長には強大な権限があることがわかる。大学の経営方針を決める経営協議会のメンバーも、学長を選ぶ「学長選考会議」のメンバーも、学長自身が選べる。選挙をやらないと言うこともできる。にもかかわらず、やらない。
上山 選挙をやることが「民主的」というのなら、誤謬(ごびゅう)がある。限定したサークルの中での民主制にすぎない。国立大学法人が「公共財」で、しかも運営費交付金を受けているのならば、なぜ学外の意見が反映されないのか。運営費交付金で守るべき「公共財」ならば、外部の意見が反映されて当然ではないか。
■国立大学は公共財か
――なるほど、「公共財」になっていないということか。
上山 そうだ。欺まんを感じる。誰もが無制限に使える「公共財」というのなら、まず入試をやめるべきだ。入学者を選んだらおかしいだろう。86の国立大学法人全体で動いていくのがいいのだ、というなら、国立大学全体を一つの大学にすればいい。公的資金で守られている形で「公共財」を維持したいのだろう。
運営費交付金で賄われた上で、自治や自由を語るのは間違っている。俺たちは選ばれた人間だ、選ばれた人間には役割があって、そこに公的資金を入れるのは当然だと言っているのに等しい。選民意識だ。
山極先生に聞きたい。国立大学と私立大学では公的資金のパーセンテージが違うことに矛盾を感じないのか。国立大学協会の会長の言い分としては理解するが、学術会議の会長として言うのなら、私立大学も含めた議論をしなければいけないはずだ。なぜ86国立大学法人には総額1兆1千億円で、500を超える私立には計3000億円なのか。公的資金で守られるべきは国立大学だけなのか。私立大学は公共財ではないのか。大学が等しく公共財であるのなら、あまねく等しくサポートされるべきだ。そこに議論の欺まんと、選民意識がある。それを研究大学のエリートたちは受けとめなればダメだ。
――最後に、国立大学とは何か。「国立」である意味はあるか。
上山 いや、すでに「国立」ではない。法人化したので、「国立」であるという意味もない。国家の草創期、国づくりに寄与する人材と研究を育てることが使命だった。今のように5割が大学に行く時代になり、その選択肢の一つとして国立があるのなら、そこに私立と国立の違いはない。
「指定国立大学は新たな差別化」と山極先生は言うが、「国立大学」自体がすでに「差別化」ではないか。
――「公共財」に議論をもう一度戻そう。
上山 山極先生と五神先生の「公共財」は、異なるようだ。五神先生は「蓄積された資本の集計」と考えているようだ。明治時代以来、国が投下してきた資本を返せていない、だから大学はもっと強くならなければいけない、そのために民間資本を取り入れると言っている。一方、山極さんは運営費交付金を増やせと言っている。それでは、今まで国に支えられてきた責務を果たしていない。今やるべきことは、限定された公的資金の中に民間資金を大胆に組み込んで,大学の財務を強くし、可能性を伸ばし、恩恵を広く社会に返していくことだ。それが研究大学のすべきことだ。「公共財」という性格が強かったときに投入されてきたものを大学は社会に返していない、という五神さんの意見には同調する。
――「大学改革の歴史は、失意の連続」。ある著名な高等教育研究者の言葉だ。改革時に人々がかけた期待は、見事に裏切られていく、と。
上山 それでも、大学人が一丸となってやるしかない。我々大学人が解かないといけない。
私たち大学人は、いま解けない問題を、どういうアプローチなら解けるのかを考える人種のはずだ。
おわりに
国立大学とは何か、「国立」である意味はどこにあるか――東日本大震災や安全保障など国を揺るがす大きな問題に直面するたび、その問いが胸に重くのしかかった。法人化されたとはいえ、86の国立大学に約1兆1000億円の運営費交付金が支出されている、私立大学とは別格の扱いを受けているからだ。
ガバナンス改革、学長のリーダーシップ、多様な財源......。国立大学には矢継ぎ早に変革が求められ、厳しい言葉も突きつけられた。社会の変化は待ったなし。人口が減り、社会全体が沈滞ムードに覆われる中、国立大学はどのように日本を支えていくことになるのだろう。「解けない問題を、どうやって解けるのかを考えるのが大学人」。上山氏の締めの言葉に希望がある。(奈)
vol.41<< | 記事一覧 | >>vol.43 |