2020年度に始まる「大学入学共通テスト」に導入予定の民間英語試験(認定試験)を東京大学が活用するかどうかに注目が集まっている。この問題では、東大ワーキンググループ(WG)が7月、「活用しない」を最優先とする答申を五神真学長に出し、文部科学省が8月、実施に向けた進捗状況を公表した。こうした現状に対し、高大接続改革の設計に当たってきた安西祐一郎・中央教育審議会前会長は「答申が採用されて英語入試が矮小化されるなら、東大は時代の牽引者として国民が負託すべき大学に値しない。そんな大学に多額の税金を注入する必要はない」という。東大の責任とは、何か。(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈)
■英語入試についての民間委託試験の活用
――2020年度、つまり受験の「2年前ルール」からいえば、タイムリミットの現段階になって、外国語、特に英語の民間委託試験反対の答申が東大学長に提出された。内部議論とはいえ、多大な影響がある。高大接続改革が大きな曲がり角を迎えたことになる。
安西 初めに申し上げておくが、東大は国民の負託を受けて多額の税金が注入されている明治以来の国策大学だ。運営費交付金だけで824億円。京都大学は544億円(いずれも2017年度予算)、その比率は「東大の3分の2」。帝国議会の決定のままだ。それだけでも、立場は分かるはずだ。その他にも他大学を圧する多額の研究資金などが税金で賄われている。東大は国家のための大学として、世界の転変の中でわが国と世界の未来を創っていく、またそのためにリーダーシップを取れる卒業生を多数輩出して世界の一流大学として人材ネットワークを創り上げていく、その牽引者たるべき責任がある。現状の東大入試は、この大きな責任を全く果たせていない。
とりわけ英語入試だ。受験の期日も場所も狭く限定されたペーパーテスト中心の内容では、世界から優秀な学生を集めることなどできはしない。わが国の高等学校教育、特に英語教育を変える牽引者にもなり得ない。世界に通用しないローカル大学としての東大を表現する最高(あるいは最低)のものが、現在の東大入試、特に英語科目なのだ。 その意味で、五神学長に提出された答申は、わが国の未来を創り出す責任を背負った東大の今後あるべき姿とかけ離れた、見識を疑う内容の答申と言わざるを得ない。一読して、答申を書いた人たちは英語ができないに違いないと思った。
その一方で、答申の後に出た文部科学省の見解を読むと、民間委託試験における受験費用や場所、ミスやトラブルが起こったときの対処方法などについて、触れてはいるもののまだ詰められていない点がある。
■経済格差を是正したい
――確かに文科省文書は、いま指摘されたような懸念にこたえているようには見えない。
安西 受験費用や場所の確保は、最も重要な課題だ。家庭の経済格差や地域差によって受験機会に差が生じることは許されない。低所得層の受験生に対する受験費用の支援、交通が不便な土地に居住している受験生の受験場所の確保などについては、国が責任をもって対応する必要がある。このことは国の側も理解していると考えている。ところが、現在の大学入試、とりわけ東京大学をはじめとする国立大学の入試は、経済格差や受験場所の確保の問題にほとんどこたえていない。
――公正性についても懸念されている。文科省の文書によると、ミスやトラブルが起きたら、「それぞれが実施している範囲について責任を負うことが原則。民間事業者等の採点ミスについて、センターや大学が責任を負うことは基本的には想定されない」と記されている。これでは、丸投げと批判されても仕方ないではないか。
安西 民間委託先でミスやトラブルが起こったら、委託先が責任をもって対応すべきだ。このこと自体は文科省の言うとおり。ただし、実際に起こったときの具体的な対応策はしっかり決めておく必要がある。この点が文科省の文章には書かれていない。まじめに取り組んでいる受験生に不利にならないように、ミスあるいはトラブルの内容(想定外のことが起きた場合も含めて)によって対応を決めておくこと、場合によっては再試験を迅速に行うことを、文書による契約事項の一部として民間委託先に義務づけるべきだ。
対応の方法自体は、内部で入試業務を丸抱えしている大学が現在、行っているのと基本的には同じことだ。違いは、大学側が自分のこととして責任を取るかどうか、ということになる。今、学内丸抱えで入試を行っている大学で深刻な採点ミスが続発する事態が起きているが、大学内部であれば責任は各自が取るのだからよい、とでもいうのだろうか。答申の意味がわからない。
民間委託による不祥事の発生を恐れて大学内部だけで入学者選抜を行うことにすれば、当然、教員の負担が増える。実際、いろいろな仕事が増えて研究ができない、という大学教員、特に国立大学教員の大合唱が聞こえている。それでいいのだろうか。民間委託を否定する東大答申も、そうした点で矛盾がある。
――民間委託では試験問題の質が担保できないのではないか、という意見も聞くが
安西 民間の試験問題では質が担保できない。その一方で、英語の「書く」「話す」の試験を大学内部ですべて請け負うことは、教員の負担からいって不可能だ。ということだとすると、英語の「書く」「話す」力(単に書ければよい、言えればよい、ではなく、しっかりした構文構造と語彙で論旨明快に表現できる力)を評価する入試、一次試験はできないということになってしまう。これらの力こそ世界水準の学生に求められる力であり、それを一次試験で全く評価しない、ということでは、東大は世界水準の大学に決してなれないだろう。また、一次試験では「書く」「話す」力を見ないということでは、東大は高等学校の英語教育の牽引者たることも不可能になる。高校英語教育に「書く」「読む」を入れていく(これらの授業の割合が小さいのが現状であり問題点)ことは時代の趨勢だ。
こう考えると、まずは高校教育の実を上げて一次試験受験者のレベルアップを図る。そして、外国語科目の一部を民間委託して学内の負担を軽減する。その上で、独自の二次試験を通して、改めて東大卒業生として世界に通用すると思える受験生を、点数にのみにこだわらず自分たちが責任をもって合格させるべきだろう。
民間委託の試験問題は質が低かったり不安定だったりするから心配、という見方は、入学者選抜から卒業時点のディプロマポリシーに至る総合的な観点の中で考えると、あまりに偏った見方だと思う。民間委託の試験だけで合否を決めるわけではあるまいに。
■時代遅れの東大入試を改める好機に
――不祥事について、東大WGの答申は以下のように指摘している。〈大学入試における出題ミスや問題漏洩などの不正を絶対に避けなくてはならないことは自明であるにもかかわらず、多くの認定試験が個々の問題を公開していない現状では、これを検証することは不可能である〉
安西 いや、そもそも東大が、二次試験まで含めて入試に関する情報を十分公開していない。それを棚にあげてこのように言うのは、おかしなことではないか。
高大接続改革は「入試改革」ではない。大学と高校の教育を変える、そのために間に横たわる入試も変えざるをえないということだ。その大前提を東大WGの人たちは理解しているのだろうか。話を英語入試の民間試験利用に矮小化していて、やらないための理由付けをしているようにしか読めない。
入試について言えば、東大の入学者選抜の方法、特に英語については、時代にまったく合わなくなっていることを自覚しているだろうか。もしこのWG答申の提案が認められてしまうと、東大が世界の一流大学の仲間入りをしてこれからの大学と社会を牽引すること自体、将来にわたってできなくなるに違いない。そうなると、東大だけというよりはむしろ国立大学全体が、世界を舞台に動いているトップレベルの大学からさらに置き去りにされるだろう。東大は、明治以来、わが国を牽引してきた大学として、入学者選抜の方法(特に英語)を時代遅れの国内ローカルではない、世界に通用する方法に改めなければならない。その絶好の機会が巡ってきているのに、答申はこの点をまったく理解していない。
国民にとって本当に必要な東京大学は、時代の変化を乗り越えてこれからの日本を創り出すリーダーとしての東京大学であって、現在の東大入試、特に英語の入試は、それにまったく逆行した、昔の日本のための入試だ。
■東大入試は公平か
――受験機会の公平性が問題視されている。
安西 受験機会の公平性について書いてあるが、経済格差、居住地域の違い、注入されている国家予算の額などを勘案すると、受験機会が最も不公平なのは明らかに東京大学だ。ところが、現実の東大受験過熱状態を東大は見て見ぬふりをし、経済格差、地域の違い、多様な障がいの有無など、受験機会の公平性などほとんど考えていないように見える。
――時間をかけて議論することはできないか。答申は「拙速だ」と批判している。
※答申より
〈2020 年という実施時期の設定にいかなる合理的な根拠があるのかは必ずしも明らかでなく、拙速という批判もしばしばなされてきた。大きな改革を進めるに際してはある程度のスピード感が必要であることは事実だが、中途半端な状態で見切り発車をすれば、結局、迷惑を被るのは受験生であることを忘れてはならない。したがって、認定試験に関する諸課題への明確かつ具体的な対応が確認されない限り、本学としての判断は留保せざるをえないと考える〉
安西 入試改革のことは15年以上も前から提唱されている。時代の変化は予期されていた。その間何もしてこなかった人たちが、いまさら「拙速だ」と言っても全く説得力がない。こういう切迫した事態を招いた責任のかなりの部分はそういう人たちにある。また、「2020年に合理的根拠があるか明らかでない」というが、それでは彼らは、「いつ始めるか」について合理的根拠をもって主張してきたのだろうか? 何も言ってこなかったではないか。英語の書く、話す力が重要と考えるなら、それらのテストを「いつ始めるか」合理的根拠をもってすでに提唱していてしかるべきだったのではないか? 2020年に始める理由は、それ以上遅れるわけにはいかない、今までさぼってきた人たちの尻ぬぐいをしている、ということだ。何年かけても、ただ議論のための議論をしている人たちがいくら議論を繰り返しても、その間に子どもたちが年取っていくだけだ。
――「世界への通用性」というフレーズが何度も出てきた。
安西 国立大学法人とは何か。東大とは何か。圧倒的に多額の税金を注入されている東大の責任とは何か、文科省にとってではなく東大にとって、卒業のためのポリシー、教育のポリシー、入学者選抜のポリシーは、これからの時代にどうあるべきなのか、どう関係しているのか、これらの関係のなかで外国語科目の入試をどうすれば未来の日本を牽引する責任を果たせるのか、東大からはほとんど何も聞こえてこない。
例えば、学部の推薦入試では、(教育学部を除き)外国語の民間資格試験受検結果などの資料、あるいはきわめて高い語学力を示す資料の提出を義務づけているのに、一般入試の受験者については、答申にあるようにCEFR A2レベルでも難しい、ということだ。推薦入試では民間を利用しているのに、(答申が言うには)一般入試では民間委託してはいけない、ということだ。
この矛盾はさておいても、推薦入学者と一般入試入学者の外国語能力の評価方法についての違いを、入学後の授業でどうやって埋めているのだろうか。一般入試については二次試験の外国語科目でしっかり見ているから大丈夫、ということなのだろうか。一次試験では低レベルの足切りで十分、ということなのだろうか。多数の受験生が挑む一次試験でこそ英語の「書く」力、「話す」力を評価することによって高校英語教育の水準が上がることは確実だというのに、自分の大学さえよければそれでいい、ということなのだろうか。
東大は、国民の負託のもとに、国内外の転変の中でわが国の未来を創っていく、その牽引者としての責任がある。この責任において、東大は特に、一定程度以上の高等学校教育の水準を引き上げること、また卒業生の最低条件が世界の舞台で通用する水準であることに対して、義務を負っていると考えるべきだ。だから「世界への通用性」と言っているのだ。
もう一度言うが、母語でない言語としての外国語、特に英語の力とは、単に単語をたくさん覚えているとか、長文を読んで正解にマルをつけることができる、という力ではない。これらは当然のことであって、英語力というのは、しっかりした構文規則と豊富な語彙を使いこなし、相手の立場や文脈を考慮して、論旨明快に英語で表現する力のことだ。東大生がすべてこの力を持っているとはとてもいえない。その深い原因は、現在の一次試験において外国語、特に英語力の評価を甘くみていることにある。
もし答申が通って英語入試が矮小化されるのなら、東大は時代の牽引者として国民が負託すべき大学に値しない。そうであれば東大に多額の税金を注入する必要はない。
おわりに
ある教育長が、教員たちを前にこんな話をしていた。「知」は大きなかたまりで、人はそのまま取りこめない。だからスライスする。そのスライスを「教科」と呼び、スライスを統合させ、新しいものを作り始めるプロセスこそが「学び」なのだと。
長らくそれを妨げているのが、東大を頂点とする大学、東大への進学率を競う高校の序列であり、進学率を決する入試だ。そこに大きな風穴があこうとしている。高大接続改革の柱の一つ、「大学入学共通テスト」を前に、高校の授業が変わり始めたのだ。「異見交論」51で紹介した英語授業はその典型例だろう。やっと「学び」の緒に就こうとしている教育現場に水をさしていいのか。
東大の責任は、極めて重い。(奈)
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