北海道札幌国際情報高等学校卒、天主教輔仁大学 管理学院 企業管理学系(2021年6月卒業)
武藤 悠海 さん
Muto Yumi
台北市の中心部から約10キロにある輔仁大学を6月に卒業し、帰国しました。9月にスキンケアのメーカーに就職、現在は台湾などに自社製品を輸出したりプロモーションをしたりする仕事に追われています。台湾で過ごした4年間を振り返るにあたり、まず、「人々の温かさ」に触れないわけにはいきません。
優しかった早餐店の "おばちゃん"
それは、2019年11月の朝のこと。
「その顔、どうしたの?」
気にしていたニキビについて声をかけてきたのは、早餐店の "おばちゃん" でした。
「ザオツァンディエン」と発音する早餐店は、早朝から営業している朝ごはん屋さんのこと。市民の多くがここで朝食を食べたり、テイクアウトをしたりする。どのお店も安くて、おいしい。たくさんの人が利用する早餐店の店員さんは記憶力が非常によく、常連になると「いつもの」と言うだけで欲しいものが手に入ります。
その日は、たまたま入った初めてのお店。初対面の "おばちゃん" のストレートな質問にびっくりしました。
今でも不思議なのですが、なぜか私も心の内を話してしまいました。
努力しても伸びない成績やクラスメートとの価値観の違い。いくらケアしても治らないニキビ。日々の悩みが次々と口をついて出ました。すると、見ず知らずの学生にもかかわらず、一緒になってニキビの原因について考えてくれ、皮膚科や漢方薬のお店まで調べて紹介してくれたのです。モチベーションを失いかけ、精神的に苦しかった時だったこともあり、あの温かさ、優しさは本当に身に染みました。
振り返れば、友人や大学の先生に恵まれ、将来について意見交換をすることも多くありました。「留学が楽しかった」「充実していた」と言えるのは、親切でフレンドリーな市民が多く、人に恵まれた4年間だったから。でも、最初から順風満帆だったわけではありません。
左:入学式の日、クラスメートたちと食べに行った豆花。豆乳をにがりなどで固めて甘いシロップをかけて食べる、台湾の国民的スイーツ。ちなみに、このお店での会話はほとんどわからず、私はニコニコして過ごす物静かな人間でした 右上:入学してから4か月は起床から就寝まで頭をフル回転。食事の時間すら惜しく、時短のため餃子に頼る生活でした 右下:朝ご飯屋さんでよく食べていた蛋餅(ダンビン)。小麦粉を使った生地で具材をくるくる巻いたもの。台湾の朝ごはん屋さんの定番朝食の一つ |
中国語と英語の "千本ノック" 波乱のスタート
1. 将来、中国語を使って仕事したい
2. 高校時代の憧れの先輩が輔仁大學に入学した
3. 学費が安い
4. 自分を追い込んでみたい
1~4は、輔仁大学を進学先として選んだ主な理由です。経営学修士号(MBA)を評価する国際機関AACSBの認証を取得していることも大きなポイントで、ここでビジネスを勉強したいと強く意識するようになり、モチベーション向上にもつながりました。
渡航前、高校2年生から約2年間予備校に通って1500時間も中国語を学習し、「日常会話は大丈夫!」と両親に宣言しました。意気揚々と入学したのですが、初日から自分の実力にがっかりする羽目になりました。
クラスメートの自己紹介が理解できず、対等に話すことができません。コンビニでも言葉が通じず、サラダを買ったのに箸をもらえない始末。耳に入ってくる大量の中国語に圧倒されてしまったのです。
それでも大学生活は待ってくれず、講義も始まってしまいました。
ここで、お伝えしたいのは2点。
私の学科が講義で使う教科書のほとんどは英語で書かれていること。そして、先生は中国語でも説明すること。つまり、英語と中国語の "千本ノック" を受けるのです。想像を絶する壁でした。
一つの言語でしか物事を考えられず、別の言語への切り替えや2か国語が混じる講義には手を焼きました。また、課題を中国語や英語で考え、いざ発表しようとしても、うまく表現できませんでした。言いたいことはある、単語も文節も全て頭の中にある、なのに自分がイメージしたとおりに言葉が出てこない。本当にもどかしかった。
日本語で学んだ知識が邪魔をするというハードルにもぶつかりました。例えば簿記です。高校では商業科目として簿記を学習しており、異なる言語でも理解できると期待していました。ところが、これがさっぱりなのです。どうしても日本語でしか考えられず、教科書の英語、解説の中国語が頭に入ってきません。「こんなに不器用だったんだ」と、がくぜんとしました。
加えて、「分からないことを聞くのは恥ずかしい」というプライドも、いけなかった。一人で何とか解決しようと多くの時間を費やしてしまい、微分積分の最初の小テストは0点! 本当に悔しかった。
でも、0点のおかげで、大切なことに気がつきました。
自分の力だけじゃどうにもならない、と。
自分の邪魔をしているのは自分だ、と。
この時から、私の本当の大学生活が始まりました。
簿記(会計学)の講義の黒板。英語と中国語、数式が混在し、どこに何が書かかれているかすら分からず、1年目は単位を落としました |
教科書は英語、解説は中国語。ノートは頑張って中国語で書いていました |
人は変わることができる
人間は変わることのできる存在です。
教授のオフィスに毎週1回は必ず通い、分からないところは休み時間に質問しました。特別に個人の宿題を出してもらい、クラスメートと一緒に勉強もしました。人に頼ることを学び、本気で苦手と向き合ったのです。
慣れてくると、耳が中国語を拒まなくなり、少しずつ話せるようになりました。
ビジネス系学部において微積分は必修、避けて通れない学問です。苦手から逃げるのも一つの策ですが、当たって砕けてみることも必要だと考えられるようになりました。
現に、当たって砕けました。砕けたものを、先生や友人たちに助けてもらいながら、かき集め、何とか微積分の単位をもらうことができました。「やるなら本気で、最後まで」を貫いたからこそ、何とか卒業できたのだと思います。
中国語が話せるようになると、周りを見る余裕も生まれます。
在学中、香港で大規模なデモがあり、「次は台湾なのか?」と心がざわついた記憶があります。デリケートな立場に置かれている台湾ですが、私の友人たちは中国の人々を拒んでいるわけではなく、その体制に反応をしているのだと感じました。
法律の変わるスピードが速い、という印象も受けました。例えば、2019年の同性婚合法化です。「同性婚を認めないのは違法」という司法の判断が出てから2年、法として機能をはじめたのです。
台湾の街中では、手をつないでいる同性のカップルをよくみかけました。性的少数者(LGBT)の権利擁護を呼びかけるパレードも定期的に開催されていて、私もLGBTについて学びました。
新型コロナウイルス感染症の対策も迅速でした。公共交通機関でのマスク着用が義務化されると、人々はあっという間に適応。追跡アプリ開発や発症率などの情報開示もスピーディーでした。すべてが完璧ではありませんが、変革に素早く適応する能力が台湾の人々は優れているのではないでしょうか。
冒頭で紹介しましたように、今は帰国して社会人です。
まだ1年目ですが、上司の通訳としてオンライン会議に参加し、ダイナミックなビジネスに触れる機会があります。日々心がけているのは、台湾へのアプローチ方法やビジネスのアイデアを積極的に提案すること。そして、現地の代理店と中国語でコミュニケーションをとり、関係を密にすることです。
このエッセーを書きながら、キラキラした留学ではなかったと苦笑します。でも、試練があったからこそ、今、仕事をするのが楽しい毎日があるのだと気がつかされました。根気強く粘ってプロジェクトに取り組むことを、それほど苦に感じません。仕事で少々辛いことがあっても、へこたれません。
私を一回りも二回りも成長させてくれた台湾に、台湾の友人と恩師に、そして早餐店の "おばちゃん" に感謝しています。
卒論発表会の様子。中国語での卒論発表をしました |
卒業前、担任の先生とオフィス屋上で記念撮影。コーヒーブレイクに使ったり、試験前に勉強したりと、この屋上が私の憩いの場でした(写真はいずれも本人提供) |
天主教輔仁大学
1925年、アメリカのベネディクト会員によって北京で創立され、1960年に台湾に移転したカトリック系の総合大学。12の学部があり、約2万5000人の学生のうち留学生は1000人から2000人ほど。世界に約400の姉妹校があり、交換留学を積極的に推進している。
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海外留学を目指す高校生に進学支援を行っているNPO法人「留学フェローシップ」のメンバーが、海外のキャンパスライフをリレー連載します。留学フェローシップの詳細は>>ウェブサイトへ。