異見交論8「語学力向上の意外な手法とは」

沢田美恵子 京都工芸繊維大学教授(言語学)。1961年、京都市生まれ。大阪外国語大学(現在の大阪大学)大学院修了。フランス・グルノーブル大学、神戸大学を経て、現職。

 グローバル化の波が押し寄せる中、多くの大学が学生の語学力向上策に力を入れています。語学の授業を増やしたり、外国語による専門科目の授業を設けたりする大学も少なくありません。その一方で、成果が出にくい、力がつかないとして学習に背を向ける学生も目につきます。

 外国人留学生の日本語教育に20年以上携わってきた京都工芸繊維大学の沢田美恵子教授(言語学)は、言語を習得し異文化に溶け込めるきっかけがつかめる意外な手法に取り組んでいます。題して「違う自分にスイッチ!」(聞き手・専門委員 松本美奈)


 

■「うそ」でもOK!

――110か国・地域以上の外国人留学生を相手に、日本語を教えてきたとか。留学生とのそもそもの出会いは。

 

沢田 1980年代の半ば、同志社大学で非常勤職員として留学生支援をしたことです。レンガ造りの建物の一角、三方から陽光が差し込む「留学生ラウンジ」が私の職場でした。

 時間を惜しんで学問に励む姿や、自国のことも含めて論理的に批判する姿に、私自身のありようをとても考えさせられました。と同時に、留学生を支える日本語教師を生涯の仕事にしたい、と思い立ったのです。

 

――多様な言語、多様な背景の留学生が集まり、共通言語もないわけですから、日本語教室で授業を進めるのは大変だろうな、と想像します。どんなことに気を配っていますか。

 

沢田 私の日本語教室では「自由会話」を重視しています。日本語を使って自由に自己表現する場です。リラックスした雰囲気が大切ですから、お互いを丸ごと認め合うことが出発点です。

 自己表現とは言いましたが、真実を言わなくてはいけない、というルールはありません。「うそでもOK」です。初級会話で必ず出てくるのが「週末は何をしたか」「家族は何人か」という私生活に踏み込む内容です。でも、いつも他人に話せる楽しい週末とは限らないし、家族に触れたくない人もいるでしょう。語学の勉強だからといって言いたくないことを無理に話すことで意味はあるかと考えたとき、「うそでもいい」と思い至ったのです。きっかけ? 他人に話したくない悲しい週末、私にもありますから(笑)。

 

 

■「違う自分」にスイッチ

――架空の週末を楽しく語る、いまここにいる自分ではない人になりきって話すわけですね。

 

沢田 そうです。もともと人間は多面的です。英語で話している私と日本語で話す私は違った方がいい。いえ、言語学から言うと、日本語で話す自分になった方が、日本語の習得や日本文化理解への軟着陸が容易になるといえます。

 

――違う自分になる方法として、ほかにどのような工夫をしていますか。

 

沢田 日本語教室では、クラスで何と呼んでほしいか本人に尋ねています。例えばタイ人の学生さんは「ミユ」と名乗っていました。日本のアニメーションの主人公の名前です。好きな漢字を当てて日本名を名乗る留学生はどんどんうまくなり、最終的に日本人と変わらないぐらいに上達することが多いです。

 

――日本名を名乗る留学生が、架空の体験を語る。それで語学力がアップするわけですね。

 

沢田 単なる語学力の習得にとどまりません。ひとつの言語、ひとつの文化、アイデンティティーで育つより、はるかに人間性が豊かになるように感じます。違う自分になることで、別の見方ができるようになり、さまざまな立場の人を理解できるように成長しているのではないでしょうか。さらに、違う自分にスイッチすることは、言語を科学的に考える「言語学」の見地からも意味があります。

 

 

■言語学からのアプローチ

――それは外国人留学生が日本語を習得する場合ですか。それとも日本人が外国語を習得する場合にも通じますか。

 

沢田 そのいずれのケースでも意味があります。

 言語には二つの役割があります。ひとつは他者とつながることが目的です。私たち日本人は天気をよく口にしますね。見ればわかることをわざわざ言う意味は、相手とつながりたい、コミュニケートしたいからです。

 もうひとつはツール(道具、手段)としての役割です。他者を動かすための道具、手段です。例えば「水」と言って「水」を持ってきてもらう場面を想像したらわかりやすいでしょう。この二つの役割については、どの言語でも大差ありません。

 語学学習ではツールとしての面が強調されがちですが、つながることを目的とした言語習得が非常に重要だと理解され始めています。

 

――つながることが目的だと、相手の文化との違いが前面に出てきそうですね。

 

沢田 その通りです。違いが端的に顔を出すのは、挨拶です。例えば日本語の挨拶、「こんにちは」「行ってきます」は、基本的に、自分の「いまここ」の環境や、これから行う動作について述べている表現で、相手のことは尋ねていません。中国語の挨拶、「你好(ニーハオ)」の「你」は「あなた」を意味します。フランス語のボンジュールも「あなたに良い一日を」と祈る思いが語源です。英語の「Thank you」にも「あなた」がありますね。日本語の「ありがとう」に「あなた」はありません。起こり難いことが起こっているという状況を述べているのです。つまり、終始一貫して自分の行動や環境について述べている日本語と、英語やフランス語、中国語などではコミュニケーションの土台の作り方が違うのです。

 

――つながることを目的とした言語の役割は同じでも、言葉の使い方や表現方法が根本から異なるということですね。

 

沢田 言語学の観点から見ると、英語や中国語、フランス語は、人と関わりあった時に自分を認識する「インターパーソナル・セルフ」をベースとしてコミュニケーションが成り立っています。

 それに対し、日本語は世界(環境)を認識することで自分を認識する「エコロジカル・セルフ」。自分の存在を認識するために、世界と私をつなぐのです。月がきれいだな、と感じることで、私がいま存在していることがわかる。インターパーソナル・セルフは違います。他者に言葉を投げかけ、返してもらうことで私という存在を確認できるのです。

 昨日のドラマがどうだったか、天気はどうだ、などと周辺の話を重ねることで、互いの共通認識を確かめ合い、相互理解を図るのが日本語です。

 英語や中国語、フランス語では「これについてどう思うか」とダイレクトに尋ねるわけですね。こうなると、日本文化の中で日本語を話す私をそのまま翻訳しても、国際社会を相手にはうまく行かないことは容易に想像できるでしょう。

 

――なるほど。だから「違う自分」にスイッチなのですね。

 

沢田 言語の土台が異なることがわかると、留学生は日本文化に溶け込めるようになるのです。言語が違えば、おのずと文化にも違いがでてくるということを納得できるのです。

 文化というのは、無意識に言語に入り込んでいるものです。特に挨拶など習慣的な言葉として。例えば、ある晩ごちそうされたら、翌朝は「昨日はごちそうさまでした」という挨拶で始めるのが、日本流ですね。ところが同じアジアでも、中国、韓国にこれに対応する挨拶はありません。ある外国人教員が日本の大学に来て歓待を受けたのです。ところが翌朝この挨拶をしなかったものだから、冷たい視線を浴びたそうです。「なんと失礼な人だ」と思われたのでしょうね。

 大したことではないように見えますが、挨拶はコミュニケーションの基盤ですから、つまずいてしまうと致命傷になる危険性もあるのです。文化的な違いで傷ついたり傷つけたりすることがある。そういうことは教材には書かれていません。少なくとも語学の教師は、その重要性をきちんと伝えてあげないといけないと思います。

 新しい言語を学ぶということは、新しい表現方法を身につけた私を創造することでもあります。楽しいでしょ。こっちの世界でつまずいていた自分が、新しい世界で息を吹き返せる。もっと生き易くなるかもしれない。そういうことを怖がらない。その背中を押し、助けるのが大人、語学教師の役割です。

 


おわりに

 「違う自分にスイッチ」という発言を耳にしながら、大学でしばしば出会う、学ぶ意欲を失ってしまった学生たちを思い浮かべていた。背景はさまざまだろうが、せっかく入った大学で輝けない所在無げな表情が共通していた。そうした学生にとって、「違う自分」と出会える機会としての語学学習は、新たな道へといざなう意味があるのではないだろうか。

 「違う自分」の効用は、単なる語学習得や異文化理解への軟着陸にとどまらない。人生のリセットすら可能かもしれない。大学だけでなく、小学校、中学校段階からその発想を活用する手もありそうだ。(奈)


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(2015年2月27日 12:15)
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