異見交論9「『道徳』充実で『主体性』育成」安西前会長に意見や質問(3)

安西祐一郎 中央教育審議会前会長

 高校と大学の教育、その間をつなぐ大学入試を含めた一体的改革を盛り込んだ中央教育審議会の答申。とりまとめた安西祐一郎前会長への意見や質問が続いています(聞き手・専門委員 松本美奈)


 

■高校教育で「生きる」をどう考えさせるか 貝塚茂樹さん(大学教授)

――大学教授、貝塚茂樹さんからのメールです。小中学校の道徳教育の専門家としての立場から、「異なる背景を持つ他者と協働する力」「主体的に学ぶ力」を育てるには、義務教育段階での道徳の充実を高校でも継続させていくことが必要だと主張します。

 

 中央教育審議会が2014年12月に提出した答申は、その2か月前に同じく中教審が出した「特別の教科 道徳」の設置を求める答申(以下、道徳答申)と密接な関係がある。道徳答申の内容は、多様な社会の中で、自ら主体的・能動的に考え、様々な人々と協働して新たな社会を作っていく資質・能力の育成が、道徳教育の課題として強調。さらに「道徳教育を通じて育成される道徳性、とりわけ、内省しつつ物事の本質を考える力や何事にも主体性をもって誠実に向き合う意志や態度、豊かな情操など」が、「豊かな心」や「確かな学力」や「健やかな体」の基盤ともなり、「生きる力」を育むものであると明確に述べている。

 

 「特別の教科 道徳」が設けられることになった背景には、いまの「道徳の時間」が、国語や算数・数学などに代替されたり、学校や教員によって指導の格差が大きかったりなどの指摘があった。戦前からの歴史的な経緯から、道徳教育自体を忌避する風潮が根強く、道徳教育の要である授業の形骸化が長らく課題とされてきた。それだけでなく、2014年10月の答申は、これからの社会が、「様々な文化や価値観を背景とする人々と相互に尊重し合いながら生きることや、科学技術の発展や社会・経済の変化の中で、人間の幸福と社会の発展の調和的な実現を図ること」こそを課題とし、「社会を構成する主体である一人一人が、高い倫理観をもち、人としての生き方や社会の在り方について、多様な価値観の存在を認識しつつ、自ら感じ、考え、他者と対話し協働しながら、よりよい方向を目指す資質・能力を備えることがこれまで以上に重要であり、こうした資質・能力の育成に向け、道徳教育は、大きな役割を果たす必要がある」と述べている。端的にいえば、答申が強調しているのは、多様で変化の激しい社会の中で、自ら主体的・能動的に考え、様々な人々と協働して新たな社会を作っていく資質・能力の育成が、道徳教育の今日的な課題として強く意識されなければならないということである。

 また答申は、「道徳教育は、人が一生を通じて追求すべき人格形成の根幹に関わるものであり、同時に、民主的な国家・社会の持続的発展を根底で支えるものでもある」としながら、「道徳教育を通じて育成される道徳性、とりわけ、内省しつつ物事の本質を考える力や何事にも主体性をもって誠実に向き合う意志や態度、豊かな情操など」が、「豊かな心」や「確かな学力」や「健やかな体」の基盤ともなり、「生きる力」を育むものであると明確に述べている。

 

 こうした理解が、「高大接続」の答申と連続しているのは明らかである。2つの答申に共通しているのは、子どもたちが生きていくこれからの社会では、様々な問題を多様な人々と協働して、主体的・能動的に解決していく「生きる力」が求められるという認識である。そして、この課題に応えるためには、学校における学びのあり方の転換がどうしても必要となる。

 

 

 つまり、「新しい時代にふさわしい高大接続の実現」は、義務教育段階での「特別の教科 道徳」の役割が重要であり、逆に「特別の教科 道徳」の充実した授業展開が、高大接続を実現する基盤となるということである。

 ともすれば日本では、「学力」と「道徳性」とを分けて考えられがちである。しかし、考えてみれば、「学力」が「道徳性」が基盤となって達成されるというのが自然だ。なぜなら、「多様な価値観の存在を認識しつつ、自ら感じ、考え、他者と対話し協働しながら、よりよい方向を目指す資質・能力」が育成され、それを尊重する環境が備われば、子供たちは安心の中で、主体的・能動的な学びが可能となるからである。

 この点の意識改革とともに、具体的には、高等学校において義務教育段階での「特別の教科 道徳」に接続するカリキュラムをどう構造化させるかが今後の課題となろう。

安西 ご指摘に賛同します。新しい高大接続には、学習指導要領改定と連携しなくてはなりません。その際に要となるのが、「特別の教科 道徳」です。その授業の充実なくして、実のある高大接続は難しいでしょう。

 人が自ら生きていくための自らの判断基準、それを育てるのが「道徳」です。人は1人では生きられない、他者と力を合わせて生きていく、それも含めた判断基準ですから他者から押し付けられるものではありません。

 私はいつも中学生や高校生たちに「生きる」は五つある、と話しています。

 ・主体的に生きる

 ・多様な人々と生きる

 ・協力して生きる

 ・感謝して生きる

 ・誇りにして生きる

 人は誰かに生かされている。そのことに感謝しながら、自分もまた他者を支える誰かになれる。それを誇りにして、多様な人たちと、協力し、自分をしっかり持って生きる。そう伝えています。

 でも、そのためには自分がいまどこにいるのか、知る必要があります。知識です。その中には当然、日本の文化や歴史も含まれます。そうしたものを消化し、血肉として、その子の底から出てくる哲学とするのです。生きていくということを考えること、それが道徳です。

 ならば、高校でどうカリキュラム化するか。高校は中学校までとは異なり、多様な他者と出会えるチャンスが増えます。それを考慮に入れて構造化しなくてはいけません。一緒に考えてくださいませんか。

 

 

■議論する場をつくって 飯塚秀彦さん(高校教員)

――――高校教員、飯塚秀彦さんは、高大接続改革案に賛成する立場からのメールです。趣旨には賛同できるが、実現にはまだまだ課題が多い。それをどう解決していくか、そのための提案も出しています。

 

1. 習得させるべき知識・技能の範囲と教科書の在り方について

 高校現場では,思考力・判断力・表現力を育成するためには知識及び技能の習得が欠かせないとの認識があります。この認識自体は間違っているとは思いませんが、問題は習得させるべき知識や技能の範囲です。わたしは,習得させるべき知識及び技能の範囲をその教科・科目の本質は何かという点からより精選させるべきと考えていますが,現場ではその逆になっています。来年度から完全実施となる現行学習指導要領に基づく教科書を見ると,たとえば地歴や公民の教科書では,旧学習指導要領に基づく教科書と比べ太字の人名や事項がどの教科書会社の教科書でも格段に増えています。現行の大学入試センター試験は,その難易レベルが教科書の範囲とされています。したがって,高校現場では,まずは教科書の事項を押さえることが優先されます。また,教科書会社の編集も大学入試センター試験に対応しているということが最大のセールスポイントとなっています。

 こうした現状を安西先生はどのようにお考えでしょうか。

安西 背景の異なる他者と協働しながら、主体的に生きるには、十分な知識や技能が必要です。精選すべきかどうか、となると答えは難しいです。ただ、知識や技能の習得は、義務教育段階まで。高校は本来、そうして培った血肉を基礎に多様な人と協働できる力を養う場であるべきです。高校で太字の人名や事項を覚えるのでは、遅い。それが現状ではありますが。

 いま18歳に選挙権を、という議論が国会で本格化しています。18歳が一人前の「おとな」になるのです。その直前の教育機関としてすべきことは何か、どうしたら齟齬なく新しい高校教育と大学教育に橋渡しができるか、多くの方々の意見をいただきながら考えていきたいと思っております。

 

2. 保護者,社会の意識改革

 今回の答申は私たち高等学校教育にたずさわる者にとって大きな意識改革を迫るものです。それと同時に,社会全体でもこれまでの学力観,学校観,授業観の転換をしていかなければならないと考えています。

 現場ではよく,「保護者や地域のニーズ」ということが言われます。「難関国公立大学に多数合格させることが保護者や地域のニーズである」とか、地方議会において現役合格率や難関国公立大学の合格者数が話題になることがあります。学校を取り巻くこれらの環境も変えていく必要があると考えます。

 そこで質問、要望ですが、改革を先導する中央教育審議会が、タウンミーティングなど積極的に地域で今回の改革の趣旨やねらいを説明したり、議論したりする企画をお考えでしょうか。中教審の性格から考えると,おそらくその任を負うことはふさわしくないとも思いますが,社会的な議論を是非盛り上げていただきたいと考えています。かつて「ゆとり教育」が説明不足などから混乱を招いた轍を踏まないようにするためにも、ぜひ議論の場をつくっていただきたいと思います。

安西 すてきな提案をありがとうございます。タウンミーティング、ぜひ開きたいです。全国の高校や大学を会場に、一般の方々と一緒に議論をしたい。これは入試改革ではなく、社会改革です。社会が大きく変わろうとしていることを、皆さんと一緒に考える場は不可欠です。

 


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(2015年3月17日 17:00)
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