第70回全国小・中学校作文コンクールの中央審査で各賞が決定しました。文部科学大臣賞3点を要約して紹介します。作品の全文は、要約の下の「全文を読む」をクリックしてご覧いただけます。(敬称略)
日本語だけの世界に生まれていたら、もっと楽に生きられたかもしれないと思っていた。私が生まれたスイスは4か国語が公用語。私が住むチューリヒはドイツ語だ。私は何年たってもドイツ語が話せなかった。「モニョモニョ。ゴニョゴニョ」。何を言っているのか全くわからない。
その日から、私はドイツ語の絵本を声に出して読んだ。1行読むのに何回も辞書をひき、何分もかかった。単語を忘れる度に、母に意味を聞いた。毎日読み続けて、私の頭の中にドイツ語の言葉が残っていくのを感じ始めた。
その時、私の頭にある絵本のページが浮かんできた。先生が話した言葉と同じ文章が書いてあったのだ。耳にした文章が初めて頭の中に残った。初めて先生が話したことが理解できた瞬間だった。
私は、胸につかえていた物が流れていくのを感じた。言葉が理解できないまま大人になったらどうしよう。いつも心の片すみに不安の塊のかけらが座っていた。でも、先生の言葉を理解できた日にそのかけらは流れていき、心に希望の光が灯(とも)った。絶対に話せるようになれると確信した。
その日からドイツ語の本を毎日、必死に読み続けた。読書量が増えると友達の話がどんどん聞き取れるようになった。意味がわからないときは、その場できくと、すぐに教えてくれた。音がきれいに聞き取れるようになり、先生や友達に質問ができるようになると、私のドイツ語の世界は、どんどん広がっていった。
そして2年間で600冊以上のドイツ語の本を母と読み終えたとき、学校のドイツ語のテストで初めて百点を取ったのだ。嬉(うれ)しくて、嬉しくて万歳しながら家に帰った。
早く日本に住みたいと思っていたけど、今はこちらの生活も悪くないと思う。努力した分だけ楽しいことが待っているとわかったから。英語もフランス語も話せるようになると、もっともっと新しい世界を見られるかもしれない。(指導・吉冨ゆかり教諭)
日本語だけの世界に生まれていたら、どれだけ楽だっただろう。聞くこと見ること読むこと話すことが全て日本語だけの世界だったら、私はもっと楽に生きられたかもしれないと思っていた。
私はスイスで生まれた。ドイツ語、フランス語、イタリア語、そしてロマンシュ語という四か国語が公用語の国。私が住むチューリッヒはドイツ語だ。スーパーに並ぶ商品には、全てドイツ語とフランス語とイタリア語で商品名が書かれてある。
日本に住む親せきは、「いいなあ。何か国語も話せるようになるんでしょ。」とうらやましがったが、私は、何年たってもドイツ語が全く話せるようにならなかった。全て私の耳に入ってくるのは、
「モニョモニョ。ゴニョゴニョゴニョ。」
という音だけ。何を言っているのか全くわからない世界。そこで、ただ学校が終わるのをずっと待っている。ただ、それだけ。
幼稚園のときは、まだよかった。私が一日中絵を描いていても怒られることはなかった。幼稚園では一日中絵を描き続けた。救いは、同じクラスに二人日本人のハーフがいたこと。先生やクラスメイトが話していることを私にそっと日本語で教えてくれた。でも、彼らが引越してしまってからは、私はもう何も分からなくなっていた。
両親は、私がドイツ語が全くできないことにあまり気がついていなかったのかもしれない。
五歳上の兄は日本で生まれて、二歳の時にスイスに引越してきたが、三歳ではもうドイツ語で会話をしていたそうだ。
兄と同じように二歳になると保育園に通い始めたが、私は全く話せなかったし、先生の言うこともわからなかった。周りがしていることを見て、同じようにしていただけ。周りがおやつを食べ始めると、私も自分のリュックサックからおやつを出し、そして、食べる。周りが靴を履いて外に出ると、私も外に出た。私は言葉が理解できない世界にずっといた。
ドイツ語だけではない。私は日本語もよく話せなかったそうだ。二歳健診のとき、日本語も一つの単語しか話せなかった。普通の二歳は、「ごはん 食べる」とか、「本 読む」とか二つの単語を話すそうだが、私は一つだけ。お腹がすいたら「ご飯」絵本を読んで欲しかったら「本」それだけ。きっとそれだけで通じたんだと思う。
だけど、会話というのはそれだけではダメだそうで、医者からは、
「母語である日本語を話せるように教えてください。」
と言われたそうだ。その日から、私は日本語を教えられはじめた。いつもかかっていたクラシック音楽は止んで、日本の子供の歌が流れるようになった。
三歳になると日記を書き始めた。三歳の子供が書けるわけがない。どんなふうに日記を書いたかというと、私が一日あったことを母に話し、母は、それを国語ノートに書いていく。
「今日は、三時のおやつに、なお君とクッキーを焼きました。カタツムリクッキー、うさぎのクッキー、ぞうさんのクッキーとたくさんのクッキーができました。とてもかわいくておいしかったです。」
これは日記の一部だが、私は片言ずつ言った日本語を、母は、きれいな日本語に直しノートに書いてくれる。それを、上からなぞっていく。これは四年間、毎日続いた。私の言葉がきれいな日本語の文章に変わっていく。なんかわくわくする。そして、その字の上からなぞり書きをした後は、その文章の横に絵を書いた。
この日記は、私が寝てしまってから帰ってくる父への手紙にもなった。父は毎晩、私の日記を読み、コメントを書いてくれるのだ。それを翌日に読むのが楽しみでもあった。
私はあっという間に日本語を話すようになった。今はラジオのパーソナリティーみたいにうるさいと父から言われる。何冊にもなったこの日記帳は私の宝物だ。初めて歯が抜けた日。幼稚園をずる休みした日。変装してお買い物に行った日。幼稚園の先生がシンデレラのお母さんのような鬼ママのようになって、私に注意したこと。幼稚園では全く話せなかったけれど、この日記では幼稚園での一日を自由に話すことができた。
地元の小学校に入学した私は、学校でドイツ語を一言も話さないことが問題になった。だってわからないんだもん。話せるわけがない。私は、学校の別室に呼ばれた。そこには、なぜか知らない日本人のおばさんがいた。学校の先生が質問してくることを、日本人のおばさんは全て私に通訳をした。画用紙を見せられて、
「この色は何色ですか。」
私は困ってしまった。その色は青にも見えるし、水色にも見える。私は答えなかった。
「これは何ですか。」
またまた困った。それは、コップと言うべきか、グラスと言うべきか。私はまた答えなかった。
それが私の知能検査だと知ったのは、一週間後だった。両親は緊急に学校に呼び出された。
「トモミは現在六歳ですが、二歳半の知能しかありません。詳しい検査を大学病院で行ってください。そして、耳もよく聞こえていないかもしれません。耳の検査もするように。」
母はすかさず、
「彼女はバイオリンもひきますし、日本語で話しますし、日記もつづれます。知能が二歳半だとは考えられません。どういった質問をされたんですか。」
「例えば、白くまのぬいぐるみを見せて、彼女に『これは何』ときいたら、彼女は『わからない』と答えました。」
両親は、その後も先生たちといろいろ話をしたそうだが、私は大学病院で詳しい検査をすることになったと両親は怒った顔で帰ってきた。
「友ちゃん、なんで答えなかったの。」
「クマと答えればいいか、白いクマと答えればいいのか、それともぬいぐるみのクマと答えればいいかわからなかったんだもん。」
私は、三歳の頃、日本語上達のために日本語の塾に通っていた。そこで私は歌の歌詞を間違えて、先生にほおをたたかれたことがある。
その日のことは今でもはっきり覚えている。もうすぐ発表会で歌やおどりが仕上がらないことに先生もイライラしていたのかもしれない。だけど、間違えただけでほおをたたかれた。生まれて初めてたたかれた。こわかった。間違えた私が悪いのだと思った。それから歌うのが怖くなったし、間違えることはいけないことなんだと思った。
その塾は、すぐに辞めた。でも、その日からわからないことは絶対に答えないようにしていた。だから、少しでも自分の答えに不安があるときには私は何も言わなかった。
母は、私が答えなかった理由を知ると、
「これから、思ったことは全部答えなさい。学校の先生が手をあげることは絶対にないから。何も心配しなくていいから。あなたがシロクマについて答えられなかった理由を学校に伝えておくね。」
このことで私は詳しい知能検査は受けなくて良くなったけれど、耳の検査だけには行かされた。もちろん問題はなかったけれど。
ドイツ語が話せないということが大問題ということで、私は、皆が授業が始まる前に週二日朝早くドイツ語の授業を受けることになった。
朝七時私のためにバスが学校へ迎えにきてくれて、公民館のそばにある隣村の学校まで連れていってくれる。
黄色い大型バスに私は一人乗る。十分ほどの旅。山を越えて、黄色い菜の花畑をすぎると湖が見えてくる。この景色を見たら、心が少しだけ軽くなるのだけれど、私にずっと話しかけてくるバスの運転手のおじさんは何を言ってるのかさっぱりわからなかったし、ドイツ語を教えてくれる先生はヒステリックで、私はドイツ語がわからないから通っているのに、ドイツ語ができないと、よく怒っていた。学校という場所は私が惨めになる場所以外何物でもなかった。
毎週二時間ドイツ語を個人レッスンしてもらっても、私は全くドイツ語を話せるようにはならなかった。
とうとう二年生も終わる。スイスで生まれて八年たっても私はドイツ語が話せるようにならなかった。
また、緊急会議だ。学校は緊急会議が好きだ。今度の会議は、私の留年についてだった。
「このまま三年生に進級しても、トモミは、ついていけません。もう一度二年生をくり返すことをオススメします。」
スイスでは飛び級や留年は当たり前だ。でも、留年はみんな嫌がる。私も少し嫌だった。なんか負けた気がする。もう一回二年生をするなんて、なんかくやしい。だけど、両親は、
「ぜひお願いします。」
と学校に即答したらしい。家に帰って、
「友ちゃん、ラッキーやん。次のクラスでは一番上のお姉さんになれるよ。一度習ったことだから、きっと簡単よ。本当にスイスでよかった。友ちゃん、スーパーラッキーよ。」
母の嬉しそうな声を聞いていると不思議なもので、ラッキーなことのような気がしてきた。
そして次の日、母は図書館から三十冊の絵本を借りてきた。それも赤ちゃんが読むような絵本。
「友ちゃんの日本語は完璧よ。作文もスラスラ書ける。友ちゃんはバカじゃないよ。きっとドイツ語の絵本を家で読んでこなかったから、ドイツ語の単語の意味がわからないだけだと思うの。今日から一日一冊ドイツ語の絵本を読んでいこうね。だから一か月分絵本を借りてきたよ。」
その日から、私はドイツ語の絵本を声に出して読んだ。わからない単語が出てくると母にきく。母は辞書でそれを調べて教えてくれた。母も全くドイツ語が話せない。母は
「友ちゃんはママに似たのよ。ごめんね。」
と口ぐせのように言っていた。
最初の頃は絵本も簡単だったから、すぐに読み終えた。しかし、どんどん難しくなり、読み終えるのに二時間かかることもあった。きっと日本語で同じような絵本だと五分もかからないと思う。一行読むのに何回も辞書をひき、何分もかかった。
泣く・しくしく泣く・わんわん泣く・怒ったように泣く。
日本語だと全て泣くという言葉がつくが、ドイツ語は全て違った。だけど
美しい・きれい・すてき
は、ドイツ語では一つの単語だけだった。
毎回、同じ単語を忘れていく。その度に単語の意味を母にきいた。そのくり返しだった。毎日、読み続ける中で、私の頭の中にドイツ語の言葉が残っていくのを感じ始めた。
本を読み始めてしばらくたったある日、学校でお片づけの時間に先生が
「Kannst du das machen?(カンスト ドゥ ダス マッヘン)(これをしてくれない)。」
と私にお願いしてきた。
その時、私の頭にある絵本のページがそのまま浮かんできた。私が読んだ絵本のページには、
「Kannst du das machen?(カンスト ドゥ ダス マッヘン)(これをしてくれない)。」
と書いてあったのだ。先生が今、話した言葉と同じ文章が。
耳で聞こえた文章が初めて頭の中に残った瞬間だった。初めて先生が話したことが理解できた瞬間だった。ありえない。先生の言っていることがわかる。
私は、胸につかえていた物が流れていくのを感じた。ほっとした。心からドイツ語の本を読んできてよかったと思った。
「Ja.(ヤー)(はい)。」
私は笑顔で先生に答えた。
ずっと不安だった。このまま言葉が理解できないまま大人になったらどうしようかと思っていた。いつになったら私はドイツ語を話せるようになるんだろうと、いつも心の片すみに不安の塊のかけらが座っていた。
でも、先生の言ったことを理解できた日に不安の塊のかけらは流れていき、私の心に希望の光が灯った。絶対に話せるようになれると確信した。
その日からドイツ語の本を必死に読んだ。そこには、もう不安な気持ちは全くなかった。
「本を読み続けたら、もっと先生の言っていることも友達の話していることもわかるようになる。」そう信じて毎日読み続けた。
読書量が増えると友達が話している音がどんどん聞き取れるようになっていった。友達の話す言葉の意味がわからないときは、その場で友達に「それはどういう意味?」ときくと、友達はすぐに簡単なドイツ語で教えてくれるようになった。家でドイツ語の本を読むときは、わからない単語の意味を母が日本語で教えてくれていた。しかし、学校では、わからない単語の意味はドイツ語で説明をしてくれる。音がきれいに聞き取れるようになったことで、先生や友達に質問ができるようになると、私のドイツ語の世界は、どんどん広がっていった。
そして二年間で六百冊以上のドイツ語の本を母と読み終えたとき、学校のドイツ語のテストで初めて百点を取ったのだ。もう嬉しくて、嬉しくて万歳をしながら家に帰った。もう三年生の勉強でわからないドイツ語の単語はなくなっていた。
それからは、自分でドイツ語の本を読めるようになった。
今年の七月。学校のドイツ語の作文コンクールで、私は優勝を勝ち取った。
これも全て三歳から書き続けた日本語での日記のおかげと、山のように読んだ読書の成果だと思う。
きっと私の日本語力は、日本に住んでいる同年代の小学生と比べたら、圧倒的に低いと思う。知らない言葉がたくさんある。実際、兄から「こんな言葉も知らないの。」と笑われる。だけど、ここだけの話、小学校の時の兄のドイツ語の成績より、私の成績のほうがいい。内緒だけど。
ドイツ語ができるようになると、英語も簡単にわかるようになってきた。
二年生から始まった英語の授業。毎週十個の単語テストがある。そして、今は毎日英語の本も読み続けている。五年生からはフランス語の授業も始まった。こちらは毎週十二個の単語テストがある。本当にスパルタだ。ちなみに日本人学校の漢字テストも毎週十個ぐらいある。
簡単には話せるようにならない語学。でも全く話せなかった私でも話せるようになったんだから、きっと努力すれば、みんな話せるようになるんだと思う。
これからも私は日本語で日記を書き続ける。下手くそな日本語だけど、私の中では日本語が私の言語だから。
ずっと早く日本に住みたいと思っていた。だけど、今は、こちらの生活も悪くないと思う。努力した分だけ楽しいことが待っていることがわかったから。英語もフランス語も話せるようになると、もっともっと新しい世界を見ることができるかもしれない。
【講評】耳で聞いた音と、頭の中の文章がむすびつき、意味が理解できたときの感覚を、みごとな表現力で描いています。言語を学ぶことの難しさとおもしろさを体験し、言葉が世界を広げることを実感した八木さん。長い苦しみのあとに光がさす瞬間を、読み手も共有することができる、感動的な作文です。(梯久美子)