第72回全国小・中学校作文コンクールは国内外から6466点の応募があり、中央最終審査審査で各賞が決定しました。部門の最高賞となる文部科学大臣賞受賞者は次の方々です。(以下、敬称略)
文部科学大臣賞3点の全文は、要約の下の「全文を読む」をクリックしてご覧いただけます。
文部科学大臣賞【小学校低学年】要約
「ぼくたち子どもが大人になった時」
森谷陶人[もりや・とうり](静岡県・静岡サレジオ小3年)
ぼくたち子どもが大人になった時、生き物のことを考えて、よい環境を作っていたい。人々がくらしやすい所があって、そこに生き物にとってもくらしやすい場所がある環境を守っていたいです。
友だちの中には「気持ち悪い」と虫嫌いな子もいます。中でも嫌われているよう虫ですが、きれいなチョウやガになります。よう虫にはいっぱいしゅるいがあります。
一番見つけやすいのはアゲハチョウ科のナミアゲハです。かんきつ系の木の葉の上にいて、鳥のフンのようです。チョウになる前のよう虫は、とてもきれいな緑色になります。びっくりすると、黄色い角を出していかくします。この角はみかんのかおりがします。そのかおりをかぐと、ぼくは夏だなあとワクワクします。
よう虫をそだてて気づいたことがあります。よう虫にもせいかくがあるということです。人間と同じような所があることが分かるのです。
とくに心配した子がいました。「足弱くん」です。よう虫は一番後ろの足が一番強くて大切なのですが、その足が弱かったので、ぼくはこの子がちゃんとチョウになれるか心配して顔が青ざめました。
さなぎになる時です。かべにはりつこうとして落ちてしまう。痛くないようにキッチンペーパーをしいたのです。すると、キッチンペーパーにもぐり、さなぎになりはじめたではありませんか。10日後の朝、ぶじチョウになることが出来ました。ぼくにとって幸せでとくべつなことでした。
虫嫌いな人にインタビューすると、嫌いな理由の多くは見た目の問題でした。そんな人たちにおすすめなのが、ヒメジャノメのよう虫です。きれいな黄緑の体に黒ネコのお面をつけたようなかわいいすがたです。さらにおすすめは、日本の国チョウとして知られるオオムラサキのよう虫です。黄緑のせなかにさくらの花びらのようなものがついています。国チョウのよう虫として、ぴったりだと思いませんか。頭に二本の角が生え、まるでよう虫界のトナカイです。
理想のまちを考えてみました。チョウがそだついろいろな木を植えた通りには、きれいなチョウがたくさんとび回るでしょう。カブトムシにも会えるかもしれません。チョウやよう虫がいることが当たり前になって、あの生き物にはこの木がひつようだなと考えることが当たり前になってほしいです。
生き物がすみやすいとり組みが実行できて、まずは30年、次に50年、それから100年と続けたいです。ぼくたち子どもが大人になった時、ぼくたちが生き物のことを考えて、よい街と環境を作っていたい。
(指導・浦野伊吹教諭)
ぼくたち子どもが大人になった時、大人になったぼくたちが生き物のことを考えて、よい環境を作っていたい。人々がくらしやすい所があって、そこに生き物にとってもくらしやすい場所がある環境を守っていたいです。
ところが、友だちの中には「気持ち悪い」と虫嫌いな子もいます。ぼくはおどろきました。みんなにすこしでも、かわいい守りたいと思いつづけて大人になってほしいです。
虫でも嫌われているよう虫ですが、実はきれいなチョウやガになります。そんなよう虫にもいっぱいしゅるいがあります。
一番見つけやすいのはアゲハチョウ科のナミアゲハです。かんきつ系の木の葉っぱの上にいて、見た目はなんと、鳥のフンのような姿です。しかしチョウになる前の終れいよう虫は、とてもきれいな緑色になります。そのよう虫はびっくりすると、黄色い角を出していかくします。おもしろいことに、この角はみかんのかおりがするのです。そのかおりをかぐと、ぼくは夏だなあとワクワクします。
ところでぼくはチョウやガのよう虫をそだてて気づいたことがあります。それは⋯⋯よう虫にもせいかくがあるということです。たとえば葉っぱを見せるとすぐ来るどころか、通りすぎてしまうよう虫、名づけて「GoGo(ゴーゴー)くん」。反たいに、葉をしらべてなかなか食べない「しんちょうくん」、ほかにも葉っぱをさがして見つけると、頭だけ葉っぱにのせて食べはじめる「くいしんぼうくん」などいろいろなせいかくの子がいます。かんさつしてみると、虫も人間と同じような所があるということが分かるのです。
ぼくがよう虫をそだててきた中でとくに心ぱいした子がいました。その名も、「足弱(あしよわ)くん」です。名前のとおり足が弱くてかべさえ登れない。よう虫は、一番後ろの足が一番強くて大切なのです。その足が弱かったので、ぼくはこの子がちゃんとチョウになれるか心ぱいして顔が青ざめました。
そして事けんがおきました。
さなぎになる時です。かべにはりつこうとしたよう虫が落ちてしまうのです。何ども何ども落ちて痛そうでした。ぜったいぜつめいの大ピンチです。いつもはつかれるとすぐねてしまうよう虫ですが、この時ばかりはねないで必死に登ろうとしていました。ぼくはこのままよう虫が死んでしまわないか心ぱいでたまらなくなりました。ぼくに出来ることはなんだろう、せめて痛くないようにフカフカのキッチンペーパーをひいたのです。するとどうでしょう、なんとよう虫「足弱くん」がキッチンペーパーにもぐり、さなぎになりはじめたではありませんか。それから十日後の朝その「足弱くん」はぶじチョウになることが出来ました。これはぼくにとって幸せでとくべつなことでした。
夏休みがはじまりこの作文を書きはじめた時、ぼくは大へんなことに気がつきました。それは虫が嫌いな人の気もちがさっぱり分からないということです。そこで、身の回りの虫嫌いな人にインタビューしてみました。
すると、嫌いな理由の多くは見た目の問題でした。たとえば、クネクネモジョモショする、えたいが知れない気もち悪い形など、よく分からないこわさだということが分かりました。
そんな人たちにオススメなのが、このよう虫、ヒメジャノメです。なんとそのすがたは、ペットとして人気なネコとにているところがあるのです。きれいな黄緑の体に黒ネコのお面をつけたようなかわいいすがたです。
さらにオススメなのは、あの国チョウとして知られるオオムラサキのよう虫です。黄緑の体でありながら、せなかにさくらの花びらのようなものがついています。日本の国チョウのよう虫として、ぴったりだと思いませんか。さらには頭に二本の角が生えていて、そこに小さい角がところどころについています。そのあいらしいすがたは、まるでよう虫界のトナカイです。
ぼくは、調べてかんさつしたことをみんなに伝えて、少しでも虫にきょうみをもってもらいたいです。そして虫をすきになった子どもたちは、虫をかわいい守りたいと思うかもしれません。そうしてすきになった子どもたちはよい環境を作ると思います。
そこで、理想のまちを考えてみました。そこには、こんな通りがあります。その名も、「チョウがそだつよ通り」です。
街を見ていると、歩道にはずらりと同じ木がならんでいます。これでは木があっても、たくさんの生き物がそだちません。かわりに、チョウがそだつための木や植物を植えたらどうでしょうか。
エノキの木はオオムラサキ・ゴマダラチョウ・アカボシゴマダラなどがそだちます。オオムラサキににているコムラサキはシダレヤナギ。そしてこのチョウたちは木のみつをすいます。その木はカブトムシも大好きなクヌギです。
そのほかはタイサンボク・たくさんのアゲハが大すきなカラスザンショウ、ヒョウモンがいっぱいそだつパンジー・ネコのような頭のヒメジャノメがそだつススキなど、チョウがすきな木や植物を植えたいと思います。
こうして、チョウがそだついろいろな木を植えた通りには、きれいなチョウがたくさんとび回るでしょう。そしてラッキーな人は、カブトムシにも会えるかもしれません。
外に出るとチョウやよう虫がいることが当たり前になって、街づくりの時に、あの生き物にはこの木がひつようだな、と考えることが当たり前になってほしいです。
生き物がこうしたらすみやすいなというとり組みが実行できて、まずは三十年つぎに五十年それから百年と続けていたいです。
ぼくたち子どもが大人になった時、大人になったぼくたちが生き物のことを考えてよい街と環境を作っていたい。
〔さん考文けん〕
ちょ者:安田守/かんしゅう:高橋真弓・中島秀雄
「イモムシハンドブック①・②」
出ぱん社:文一総合出ぱん
・イモムシハンドブック①
18ページ、19ページ、40ページ、41ページ
・イモムシハンドブック②
14ページ
繊細な目とユーモラスな表現
【講評】チョウの幼虫がそれぞれ、こんなに個性的だとは知りませんでした。作者の繊細な目とユーモラスな表現によって、虫嫌いの人も小さな命をいとおしく思うはず。街路樹のアイデアもすてきです。幼虫という小さな存在から出発し、独自の発想で環境の未来について考えた、説得力あるすばらしい作品です。(梯久美子)
文部科学大臣賞【小学校高学年】要約
「面倒なわたし大好きなわたし」
亀迫柚希[かめさこ・ゆずき](東京都・聖徳学園小4年)
わたしは「面倒くさい」人間だ。自分で自分を考えると、矛盾ばかりあるように思える。たくさんの矛盾を抱えている自分は本当に「面倒くさい」。頑張っていることや結果が出たことを力いっぱい褒めてほしい。「凄(すご)いね」って言われたい。承認欲求が強いのだ。
中学年になって、いろいろな場面で困ったことが同時多発的に起きるようになった。友人たちが喧嘩(けんか)をしているとき、仲裁に入ると、矛先がわたしに向くことが多くなった。誰かが言い合いしている時によく観察してみた。すると、周囲で静観している人が結構いることに気がついた。
わたしの学校では、隔週で「リーダー・イン・ミー」という授業がある。リーダーの資質ある人間になるため、自分自身を高めるためにはどうしたらよいかを考える時間だ。興味深い教えをいくつか学んだ。
ひとつが「違いを尊重する」ことだ。公平に判断し、結論に至るまでの過程を大事にする。落ち着いて話し合い、互いに納得する結論を求める。
次の教えは「話すより聴く」だ。友人の言い合いの仲裁に入るとき、わたしはいったいどんなふうだったか。「なになにどうしたの」と「興味」が前面に出ていなかったか。矛先がわたしに向く理由があったのではないか。静観しているように見えた友人たちは、第三者的な立場で双方を冷静に把握していたのではないか。自分が恥ずかしくなった。わたしに圧倒的に足りないのは「冷静さ」かもしれない。
たくさんある片付けるべきものをどうやったら全部やり終わるのか。母に尋ねたら、「必要か不必要かをわける。必要なものに優先順位をつけ、あとは順番にやるしかないよ」と言われた。そうか、わたしは優先順位が付けられないんだ。授業中も習い事も友人との関係も、あらゆることにその時本当に必要なことを選べていないから、いっぱいいっぱいになってしまうんだ。
冷静さも大事。でも、やっぱり「わたしのことをわかってほしい」とアピールすることも大事だと思う。それに、みんなのことをたくさん理解したい。
わたしは「時間がないのに何でも頼まれて大変だ」と思う反面、「損している」とは全く思っていないことに気がついた。誰かの喜ぶ顔が見たい。そのための努力は、苦ではないのだ。だから、そういう時間を持てるようにどんどん自分を磨いていきたい。
そうか、わたしは人間が大好きなんだ。わたしは、たくさんの人に関わりたい。わたしは、あれもこれも諦められない。やっぱり「面倒くさい」人間だ。でも、わたしは、そんなわたしが嫌いじゃない。
(指導・川口涼子教諭)
わたしは「面倒くさい」人間だ。自分で自分を考えると、矛盾ばかりあるように思えるのだ。たくさんの矛盾を抱えている自分は、本当に「面倒くさい。」
頑張っていることや結果が出たことを、力いっぱい褒めてほしい。「凄いね。」って言われたい。母は、「努力はきちんと認められるものだからあまり自分からひけらかすのはよくないよ。」と言う。自分では別にひけらかしたいと思っているわけではないけれど、それでもみんなに「凄いね。」って認めてもらいたい。「承認欲求」というらしい。わたしはそれがきっと強いのだ。
たとえば、学校の授業中に手を挙げても、なかなか指名してはもらえない。先生も困るくらいいつも挙手しているせいだと自分でもわかっている。先生の、「いろいろな人の考えを聴きたい」という気持ちもわからなくはない。でも指名してほしい。自分の考えをみんなにシェアしたい。わたしの考えについて、他の人がどう考えているのかを聴きたい。
それでも指名されたい気持ちは抑えられない。指名されないのに手を挙げているのが空しくなってきたので、家族にどうしたら先生に指名されるようになるかを相談したところ、「先生が指名したくなるような良い答えを言えるように一生懸命考えてはどうか。」「挙げる日と挙げない日をつくったらどうか。」というアドバイス。いつも一生懸命考えているし、手を挙げないなんてどうせ我慢できないからこの案は却下だ。自分だけの授業ではないのだから毎回指名されるわけではないのは当然のことだとわかっているが、もんもんとしている。
承認欲求の強いわたしには、「少々お調子者」という側面もあると自負している。家族からは「浮かれポンチ」と言われている。浮かれポンチというのは、有頂天とは少し違うけれど、長所は「いつも明るい」「楽しいことを見つけるのが得意」で、短所は「周囲が見えなくなってしまう」「危険」といったところか。楽しくなるとすぐに浮かれポンチになり、いろいろな失敗をしてきた。テストでは舞い上がってミスを連発するし、家ではしばしば物を壊して怒られてばかりだ。それでも、これまでは失敗してもあまり深く考えたりしないことが多かった。だから同じことでまた失敗することも多かった。
こういう状況を総合してみると、わたしは「落ちつきがない構ってちゃん」ということになるのだろうか。
これは何とも情けない。
そんな自分を抱えつつも、これまであまり悩まず生きてきたわたしだが、中学年になって、いろいろな場面で困ったことが同時多発的に起きるようになった。
わたしは小さいころから習い事をたくさんやってきた。一週間毎日何かしらの習い事に通う生活を、もう七年ほど過ごしている。ところが、四年生になって明らかにやるべきことが急増した。それでも、自分では習い事を辞められないのである。理由は単純、辞めたくないからだ。どれも楽しいし、もっと上達したいし、今までやってきたことが無くなってしまうのも寂しいし。しかし、ピアノなどは次のレッスンまでに練習していかなければならないわけで、だんだん難しい曲になってきたこともありなおさら時間が足りなくなってしまった。実は辞め方もわからない。
学校でも同じ、わたしではなくてもいいようなことを引き受けてしまい、図書室に行こうと思っていた時間が潰れたり、終わらなくて家に持ち帰ってきて続きをやったりしている。わたしの「面倒くささ」ゆえ、時間が圧倒的になくなったのだ。
とはいえわたしも小学生、やっぱり遊びたい、自由に好きなことをする時間が欲しいという気持ちが消せない。だから、特にテスト前などは、やらなければならないことと、やりたいこととが渋滞していて、どれから手を付けたらよいか呆然としてしまう。毎回毎回プチパニックに陥っている。そして、そういう時に限って、これも習ってみたいな、などと新たな習い事に目が向いてしまったりするから、我ながら厄介だ。
正直、明日までにこれを終わらせて、それからあれをやって、と、書いておかなければわからなくなってしまう時も結構ある。母にはよく「自転車操業」と言われている。わたしは、とにかく忙しい小学生なのだ。
友達関係にも大きな問題が起きている。
低学年の時は些細なことで言い合いにはなるが、困ったら先生に相談すれば仲介してくれ、すぐに解決した。会ったことがある人はみんな「友達」だと思っていたし、自分が考えているのと同じくらい、友達もわたしのことを考えてくれていると思っていた。
ところが、中学年になって、相手が思ったような反応をしないということが増えた。
校外授業で「一緒にお弁当を食べようね。」と約束していたけれど、当日になって急に別な子と食べるからと振られてしまった。わたしはほかの子に誘われても先約があるとお断りしていたのに。
先生が言っていたことと違うことをしている子に「違っているよ。」と教えてあげると、逆に相手がヒートアップしてやり返してくる形になってしまう。そうじゃないのと弁明しているうちに、結局周囲には「わたしたち」が揉めているととられてしまう。
わたしは一人っ子のせいか取っ組み合いの喧嘩などした経験がないし、相手に突っかかられた時うまくかわすことがどうも難しい。解ってもらえず、悔しくて泣けてくることもあった。わたしの伝え方が悪いのかと家族に相談してみたが、「会話をうまく降りることも必要よ。」「特に女子はいろいろと大変だからね。」と言われた。その意味も未だによく解らない。
どうしてこんなことになってしまうんだろうか⋯⋯。
友人たちが喧嘩をしているとき、わたしは「どういうこと?どうしたの?」「もうやめなよ。」と、仲裁に入っていた。それは実体験からの行動だった。実はわたしは、低学年の時は結構「からかわれがち」だった。やっていないことをやったと言われたり、わけもなく言いがかりを言われたり、いじめというようなものではなく、小さい子どもたちがお互いやるようないじり合いだ。深い意味はないと解っていても、どうしようと涙が出そうな時もあった。ただ、そうなったときはたいてい別なクラスメイトが何人も仲裁に入ってくれた。すごく嬉しかったし、大げさかもしれないが救われた気持ちになったこともあったのをよく覚えている。だから、自分もそういう人を見たら仲裁に入るのが当たり前のことだと思っていたのだ。
でも中学年になって、同じように仲裁に入ると矛先がわたしの方に向くことが多くなった。よかれと思ってやったことなのに、巻き込まれる形になってしまうのだ。わたしは、同じことをしているのにどうして今までのようにいかなくなってしまったのか、本当に解らなかった。そこで、誰かが遠くで言い合いしている時によく観察してみた。すると、周囲で静観している人が結構いることに気が付いた。よく言えば事態を冷静に判断しているともとれるし、悪く言えば深くかかわらないようにしているともとれる。言い合いの当事者の中でも、さっとうまくその場から離れることで、怒っている人だけがひとりだけ騒いでいるみたいにすることができた。そうすると、なんとなく事態が収拾した形になった。なるほど、困ったら「静観」すればいいんだ。もし自分が悪くなくて理不尽に言いがかりを受けたら、反論せずに「なんかごめんね」ってその場から離れてしまえばいい⋯⋯これはいい考えだ。
ここまで考えて、やはりわたしは「面倒くさい」人間だと思った。
習い事が辞められないのは全部やりたい・選べないというわがままの裏返し。
時間が無くなっているのは優先順位がつけられない甘えと遊びたいという欲求の結果。
友達と言い合いになってしまうのは自分の意見を解って欲しいと訴えているだけ。
そうしたら、なんでこんなことができないのだろうか、もっと要領よくできないのだろうかと自信が無くなった。挙句のうえに、反論せずにその場から離れることを「いい考えだ」と思ってしまった。頑張ったのに我慢するのは嫌だけど、それを解消する方法として「逃げる」を知ってしまった。自分で愚かな人間だと思えてきた。
そんなとき、クラスで「高学年になるということ」を考える授業があった。時間を守ることができる、下級生の面倒を見ることができる、などの意見が出て、もっともなことだと思った。
わたしは自分のなかでこの課題についてもう少し考えを巡らせた。「今までできなかったことができるようになる」系の話はもちろん大事なことである。でも「高学年として」と言われると、それだけではない気がした。「立場」が加わるのだと思った。小学校に入学した時に、制服を着ているのだから登下校でもきちんとしましょうと教えられた。制服を着ることで、自分の小学校を背負うことになるからだ。それと同じことで、「高学年として」あるべき振る舞いが求められる、ということなのだと思った。高学年としてあるべき振る舞いとは何か。これは難題だ。
わたしの学校では、隔週で「リーダーインミー」という授業がある。リーダーの資質のある人間になるために、自分自身を高めていくためにはどうしたらよいか、を考えて勉強する時間だ。そこで、興味深い教えをいくつか学んだ。
そのなかのひとつが「違いを尊重する」ということだ。片方だけの視点でものごとをみず、公平に判断する。結論に至るまでの過程を大事にする。言い合いではなく議論を大事にし、落ち着いて話し合い互いに納得する結論を求める。うーん、それが良いことだということはわかるけれど、一方だけがそう思っていても相手がそうでなければ成り立たないのではないか。考えるだけで難しい。
そこで次の教えの「話すより聴く」だ。自分を解ってもらうためには、まずは相手の話をよく聴いてみることが重要だそうだ。
そこで、はっとした。
友人の言い合いの仲裁に入るとき、わたしはいったいどんな風だったのか。「なになにどうしたの。」と、「興味」が全面に出ていなかったか。そのわたしは友人にどう映っていただろう。矛先がわたしに向く理由があったのではないか。矛先が向いたあとは、自分の弁明に必死ではなかったか。そして、周りで静観しているように見えていた友人たちは決して我関せずだったわけではなく、リーダーインミーで習ったように第三者的な立場で双方の理由を冷静に把握していたのではないか。友人のことを考えて仲裁に入ったと思っていたことは、少し何かズレていたのかもしれない。⋯⋯自分が恥ずかしくなった。
わたしの「面倒くささ」ゆえに、これからもたくさんの壁にぶつかるのであろう。
思うに、わたしに圧倒的に足りないのは、「冷静さ」なのかもしれない。友人の仲裁もしかり、あまり考えないで突っ込んでいき、後悔することも日常茶飯事だ。焦って頭の中がまとまらなくなって、結局は全部が中途半端になってしまう。
たくさんある片付けるべきものをどうやったら全部やり終わるのかについて母に尋ねたら、「まず、勇気をもって必要か不必要かをわける。次に、必要なものに優先順位をつける。あとは上位から順番にやるしかないよ。」と言われた。
そうか、わたしは優先順位が付けられないんだ。授業中も、習い事も、友人との関係も、あらゆることに対して「全部やりたい」願望が先に出て、その時本当に必要なことを選べていないから、いつもあんなにいっぱいいっぱいになってしまうんだ。
そこでわたしはこう考えてみた。
習い事に対しては、毎週この時間は絶対ここに行かなければと頑張りすぎずに、他に時間を割くべき時はそちらを優先できるようにもっと柔軟に考えればいい。友人の言い合いの仲裁に入る場合は、いまの言い合いが話し合いになるように手伝うのか、むしろこの言い合いはやめた方が良いと判断してやめるのを手伝うのか、を考えればいい。まあ⋯⋯言葉でいうのは簡単、これはものすごく難しいと思うけれど。
わたしに必要な「冷静さ」を獲得するためには、やはりトレーニングかなと思った。取りかかりとして、夏休みは計算問題を毎日五十問、時間を測ってやることにした。これまでは、テストになるとどうも緊張してしまうのか、次の問題が気になったりもして、計算ミスの常習犯だった。一念奮起してトレーニングをした結果、最近は連続正解するようになったばかりか、計算も速くなるというオマケがついた。継続は力なり、やってみて本当によかったなぁとすごく嬉しい。そうしたらなぜか理科も楽しくなって、地理もよく覚えられるようになった。心に余裕ができたっていうことなのだろうか。「全部ギリギリまで頑張りたい」も本心だが、もっと他の場面でもこの「余裕感」を味わってみたい気になってきた。
「冷静さ」も大事、でもやっぱりわたしのことを解って欲しいとアピールすることも大事だと思う。それに、わたしもみんなのことをたくさん理解したい。
そもそもわたしは、「時間がないのに何でも頼まれて大変だ、どうしよう終わらない。」と思う反面、実は「損している、嫌だ。」とは全く思っていないことに気が付いた。誰かのために何かができるのはすごく楽しい。わたしは幼稚園の時から祖父が会長を務める「昔あそびボランティアの会」に参加している。けん玉やあやとり、竹馬などをいろいろな人に体験してもらうという活動だ。会員さんはみな、祖父と同じ年代の方々だ。私が行けば孫が来たみたいだと喜んでくれるし、ボランティア活動を通して参加者さんが楽しんでくれる姿をみると幸せな気持ちになる。誰かの喜ぶ顔が見たい、そのための努力は、わたしにとってあまり苦ではないのだ。だから、そういう時間を持てるようにどんどん自分を磨いていきたい。そうすれば周囲からも認められることも増えていくのではないか。今までは、ただただ「認められたい」と思っていたが、「認められる」ために必要なことが少し解ってきた。
そうか、わたしは人間が大好きなんだ。
だからわたしは、誰かに褒められたい。
わたしは、誰かに自分の考えを伝えたい。
わたしは、周りの人の気もちを知りたい。
わたしは、たくさんの人に関わりたい。
わたしは、あれもこれも諦められない。
わたしはやっぱり「面倒くさい」人間だ。でもわたしは、そんなわたしが嫌いじゃない。
自分を客観視 論理的につづる
【講評】「承認欲求」。この言葉をふつうに使い、しかもその強さに手を焼いていると自戒する小学生がいる。それだけでも驚きなのに、そんな自分を冷静に客観視し、ときにユーモアを交えて論理的につづることができる力に舌を巻きました。肯定的な締めくくりもすばらしい。私もこうありたいと学ばされました。(石崎洋司)
文部科学大臣賞【中学校】要約
「姉からの挑戦状」
斉藤綾香[さいとう・あやか](栃木県・佐野日本大学中等教育学校3年)
「純ちゃん、前期の試験終わったって。帰ってくるよ」
姉は昨年春に歯学部の大学生になり一人暮らしを始めた。5歳の年の差は感じなくなり、一番身近で何でも話すことのできる存在だった。
姉は少しやせていた。「お腹(なか)痛い。横になれない」。昨年8月13日夜、姉は顔をゆがめた。翌朝、大学病院で受診。帰ってきた両親は小さく見えた。
「純ちゃんね、お腹に大きな腫瘍があるんだって。先生がすぐに手術したほうがいいと、明日、検査するって」。手術当日。20センチ以上の腫瘍をとったが、残った部分がある。
病院からもどって来た姉の表情は優しかった。「大丈夫だよ」とほほえみ、私たちは励まされた。9月7日、姉はまた入院した。担当医から「ユーイング肉腫という希少ながんだろう」と連絡が入る。翌10日、国立がん研究センターに転院。心の中で何度もつぶやいた。「良くなるように応援してるからね」。22日、まれながんのさらにまれなもので、有効な治療法が確立されていないそうだ。
10月20日、姉が帰って来た。「歯学部の学生だって言ったら(歯科の先生たちが)喜んで、ここで一緒に働くのを楽しみにしてるって言うんだよ」。姉は楽しそうに話した。こういう時間が大切に感じられた。母も「看護師さんが言ってくれたの。『純香ちゃんのお部屋に来るの、争奪戦ですよ』だって」。支え、励ましてくれる人、関わる全ての人を大切にするから、姉を気にかけてくれる。姉は病院も居心地良い場所にしていた。
10月29日、私の誕生日だ。「おめでとう。お母さんと選んだ」と、姉はプレゼントしてくれた。ペンケースとブラシ、バッグにつけてつかう時計。「お下がりのペンケースを使っているから、気になってたんだ」。すごくうれしかった。夜は川の字で寝た。「きっと良くなるよ」。姉の言葉に元気をもらって眠りにつく。
今年2月18日、担当医から「今までの薬が効かない細胞が大きくなってきました。抗がん剤を変えましょう」と連絡。「今、みつけてもらえて私やっぱり強運なんだよ」。「少しでも良い方へ向かおうというモチベーションにどれだけ救われているか。本当にすごいお嬢さんです」と、母は先生から言われたそうだ。
4月13日、姉の心臓は止まった。「綾がいてくれて、本当に良かった」。直前まで、姉は私を気にかけてくれた。姉の病気の原因はわかっていない。「もっと勉強して、綾がみつけてみなよ」。姉からの挑戦状だ。突発的に病気に見舞われた人の力になりたい。いつか姉からの挑戦状に答えを出せる日が来ることを願う。
(個人応募)
空を見上げる。
「今日もいい天気。」
なんでもない日常を迎えられることが、どれだけ大切なのか思い知らされている。
昨年の七月末。
「純ちゃん、やっと前期の試験終わったって。いよいよ帰ってくるよ。」
五才年上の姉は、この年の春に歯学部の大学生になった。姉はずっとしたかった一人暮らしを始めていた。
「お迎えは三十日でいいかな。帰ってきたら何食べたい?」
そんなやりとりを近くで聞いていた私も、うきうきしていたことを思い出す。
姉と私は五才違い。小学生の頃、五才の年齢差はとても大きいと感じていた。六年生の姉の存在は頼もしかった。私の学年が上がるにつれ、その差は感じなくなっていった。姉というより、一番身近でどんなことも話すことのできる友達以上の存在だった。部活のことも授業のことも、友達のことも姉には全て話すことができた。趣味も似ていて好きなアニメや音楽のことも夢中になって話したりした。当然、お互いむっとなる時もあったが、いつの間にかまた一緒に笑っていた気がする。
帰ってきた姉は少しやせていた。
「ここのところ便秘気味でいやになっちゃうよ。食べると苦しいから、あんまり食べてなかったからね。」
そういう姉がかかりつけの病院へ行ったのは次の日のこと。
「このお腹はいつから?」
と、先生に質問され、
「試験前から便秘で⋯⋯。お腹は太ってるからこういうものなのかと思っていたので。」
姉はそう言って笑っていたそうだ。次の日、紹介された大学病院を受診した姉。消化器内科でみてもらい、診断は、「腸内にたまったガスと便」とのことで、排便を促す薬が処方された。
「一人暮らしって、やっぱり大変なんだね。」
そんなことを言いながら、薬と自宅の生活で症状は良くなっていくものと家族みんなが信じていた。
「お腹痛い。横にもなれない。」
お盆に入る八月十三日の夜、腹痛のつらさに顔をゆがめる様子の姉を見ていられず、自分の部屋へにげこんだ私。部屋の壁を通して父、母そして姉の声が耳にとびこんでくる。どうしよう、どうしよう、かける言葉もうかばない。出来ることもきっとなにもない。ただ部屋でじっとしているだけだった。
朝になり、再び大学病院を受診するのに出かける姉を見送る。
「いってらっしゃい。気を付けてね。」
こくりとうなずいて姉は出かけていった。どうか、昨日の夜のような痛みがなくなって帰ってこられますように。心の中で、そう願うことしか出来なかった私。
お昼をまわった頃。母から電話があった。
「うん、それで、えっ腫瘍だった?手術になるの?わかった。夕方病院へ行くから。純香はどうしてる?」
父の声が震えている。近くにいた私の背中に冷たいものが流れた。足元から寒気がのぼってくる。夏の真っ盛りだというのに全身が凍りつく。姉の身体にみつかったものが、大きな病気であることは何となく理解できた。ただ、どうすることもできない自分に腹が立った。怖くて涙があふれた。
夕方、父が支度をととのえ、病院へ出かけて行った。
「綾ちゃん、今から病院行って、お母さんと先生の話を聞いてくるね。一人で留守番させて悪いけど大丈夫?」
父を真っ直ぐに見て、できるだけ背すじをのばして私は言った。
「もちろん、大丈夫。聞いたこと、後で私にも教えてね。」
父が出かけた後、時計ばかり気にしていたこともあり、両親が帰宅するまでの三時間半は、三日にも四日にも感じられた。
帰ってきた両親はいつもより小さく見えた。
「純ちゃんね、お腹に大きな腫瘍があるんだって。(大学病院の)先生が、すぐに手術したほうがいいと、明日、身体や手術前の検査をして、あさってやってくれるって。」
聞くのが怖かったことを聞かされた。『腫瘍』『手術』『入院』およそかけはなれたところにある言葉だと思っていた。突然、目の前に持ってこられても、どう反応したらよいかわからない。返答できない私に気がついた母が、
「この話ね、純ちゃんも一緒に聞いたんだよ。怖かったろうね。でも純ちゃん、自分で言ったんだよ。『この痛みがとれるなら手術でも何でもします』って。私がびっくりさせられちゃった。」
ふっと力が抜けて、
「手術したら痛いのなくなるよね。きっと。」
「何でもなかったって。」
両親の口からはこう聞かされるはずだと思っていた。頭が混乱した。他にも言葉はたくさんあったはずなのに、浮かんできたのは、痛みがとれて笑顔の姉だった。一番怖いのは姉なのだ。そう思った時、近くにいる私たちに出来ることは悲しむことではない。目の前にある問題を一緒に考えることだと思った。
コロナ禍のなか、病院への出入りも、待ち合い室にいる人数も全て制限される。手術前に必要な物を持ってはいくが、病室へは入れない。連絡手段は携帯した電話のみ。それでも本人が検査で不在や、薬の投与で眠っていては連絡もスムーズにとれないのが現状だ。
「まだ電話にもでられないくらいつらいのか。」
「今日は眠れているかな。」
本人の様子を知ることができないだけに、良くない想像がふくらんで、たまらなく心配になる。その反面、姉からのメールや電話があるだけで、家族皆で大喜びした。
八月十六日 手術当日。両親は予定された時間に合わせて病院へむかった。私は家でじっと待つ。気が気ではないが待つ以外出来ることはない。
「ただいま。遅くなってごめんね。」
玄関から声がしたのが八時半。疲れた様子であったが、病院でのこと、手術後、担当の先生から説明されたことを少しずつ話してくれた。
「卵巣の腫瘍ではなかったんだって。」
私のわかる範囲で書くが、腫瘍ができた場所が明確ではなかったということ。二十センチ以上の巨大腫瘍で、とれるだけはとったが残ってしまった部分があること。診断を確定させないと治療方針もみえないので病理検査の結果を待つということ。聞いたことがなかなか整理できず、ついため息をついてしまった。父も母も同じだったのだと思う。張り詰めた気持ちがぷっつり切れたように深いため息をついていた。それから夕食を食べ、お風呂に入った。布団に横になって目を閉じても眠気はいっこうにこない。心臓の音がやたらと大きく感じる。長い長い夜だった。
次の日から母は、大学病院まで洗濯物や必要な物を届けに毎日通った。行ったところで姉に会えるわけではない。看護師さんを通してやりとりするだけなのだ。それでも、同じ建物、同じ空間に居られるのがいいんだよと私に言った。私も姉にラインする。痛みやつらさはずいぶん減ったとの返信に、皆で声をあげて良かったと言い合う。小さなことにも大喜びしてわざとはしゃいでいたかった。そうでもしないと泣いてしまいそうになるから。
「退院、二十三日だそうだよ。」
事も無げに送られてきた姉からのライン。
「え――。」
皆で声をあげてしまった。嬉しくてそわそわする。
「明日、病院で吉野さん(担当の看護師さん)に確認してみる。」
ぬか喜びになることを避けたかったのだろう。母がいつになく強い口調で言った。
そして次の日、
「二十三日退院、決まりらしいよー。」
それまで容体が急変でもしない限り、日程はまちがいないそうだ。姉とのラインの内容も、退院に向けての注意や服用する薬について、食事等々現実的なものが増えていく。姉が帰ってくる、それだけのことで家の中の温度が変わるのがわかる。
八月二十三日。病院から姉がもどって来た。階段を登るスピードはゆっくりだったが、表情が優しかった。
「ただいま。」
「おかえり。」
口を開くまで、訳もなく緊張していたことがうそのように、いつも通りの私になる。とりためたテレビ録画を見たり、(コロナで)リモートになった授業の話をしたり、なんということのない時間が流れていく。
みんなで一緒にとる夕食。たわいもない会話、笑い声。そんなことの一つ一つが身にしみてうれしい。笑っているのに涙がでそうにさえなる。困難にぶつかったから感じられるようになったのなら、今この状況には感謝している。でも、できることなら、何も感じない当たり前を生きられていたら良かった。この先ずっと良いのか悪いのかをいったりきたりする感情のまま過ごしていくのだろう。
姉は本当に驚くほど平然と過ごした。痛みのある時は服用する薬を早めに母に指示していたり、体位を変えることや自分の中の変調をすぐ知らせていた。私が心から、『すごい』と思うのは、自分の現状を悲観して、あたったりなげやりになったり、自暴自棄な姿をみたことがないことだ。気分は最悪だろう。恐怖もはかりしれないと思う。先をどう考えたらよいかわからなかったろう。それでも姉は 「大丈夫だよ」
といつも笑ってくれた。
「なんとかなるんじゃないかな。」
と希望を私たちにくれる。姉には私が救われていた。きっと父も母もそうだったに違いない。またいつ体調が変わるのか、口に出したら現実になってしまいそうで怖かった。でもその何十倍も怖いはずの姉に、私たちは励まされていたのだ。
九月六日。夜、腹痛が強く吐き気が続いた。痛み止めを飲んでもおさまらず、明け方まで苦しんでいた。午前四時、救急外来に電話し、受け入れられるとの返事で姉は病院へ行く。そのまま、また入院になった。がっかりと同じくらいホッとしている自分が嫌だった。痛みでゆがむ表情や、吐き気で波うつ背中を直視できなかった。言い訳だが、家では背中をさするぐらいしかやれない。病院なら適切に対応する手だてがある。そこにすがるしかなかった。
入院して二日たち、やっと姉からラインの返信が来た。点滴で強めの痛み止めを入れ、吐き気も少しずつおさまってきたらしい。うとうとでも眠ることも出来たようだった。病室で一人でいる姉を想像する。今、何を思っているのだろう。
九月九日。担当の医師から連絡が入る。ユーイング肉腫という希少ながんだろうと伝えられた。そして、国立がん研究センターへの転院を打診されたそうだ。両親は快諾。夕方姉を迎えに行き次の日には国立がん研究センターを受診した。
九月十日。出発は午前六時で早いから、私は寝ているよう言われていた。でも準備する気配に寝られるわけもなく、階段を下りる姉を手伝った。
「綾、起こしちゃってごめんね。ありがとう。いってくるね。」
「いってらっしゃい。待ってるね。」
玄関のドアが閉まった時、涙がでて、止まらなかった。心の中で何度も何度もつぶやいた言葉。「良くなるように応援してるからね。」
祈ることが今の私に出来ることというのがもどかしかった。
国立がん研究センターでは、チームで患者の治療にあたっているそうだ。姉にも三人の先生がついてくれ、これからどう治療を進めていくか話しをきりだされた。両親が方針を聞かされている時、姉が車椅子に乗せてもらって部屋に入ってきたそうだ。父も母も姉も泣いてしまったと言っていた。痛みで食事がとれないので栄養は点滴らしい。
「バーミヤンのチャーハン食べたい。」
姉の言葉に母は、涙が止まらなかったと私に言う。帰りの車中では父と、
「純香に、なんとかしてバーミヤンのチャーハン食べさせてあげようね。」
かたく誓ったそうだ。
それから姉は毎日、検査と治療に取り組んだ。採血・CT・点滴・超音波・腹部穿刺⋯⋯「ユーイング肉腫かも」のかもをはっきりさせるための検査をたくさん受けた。同時に、転移の有無も調べてくれた。
九月十七日。担当の新垣先生から電話が来た。病理検査の結果はまだであること。転移はみつからなかったこと。本人が吐き気が続いているため栄養的なものは点滴して補うこと。痛みのコントロールのため医療用麻薬を使用していくこと。
先生からは何かあるたびに母に連絡があった。その話を母は書き留めていた。
九月二十二日。病理検査の説明を二人で聞きに行く。CIC再構成肉腫という診断名がつく。希ながんの中のさらに希なものだと言われたそうだ。そのため有効な治療法が確立されていないのだとも。「緩和ケア」という言葉が先生の口から出たそうだ。しかし父は、やれることを全てやらせたいと治療をのぞんだ。先生も姉の体調をみて、ユーイング肉腫の治療に準ずるやり方で進めていくと約束してくれた。
そこから、姉は、十九才の姉は治療と向き合って一日一日を生きてきた。
九月二十三日。一回目の抗がん剤投与の日。抗がん剤についての知識はほとんどなかった。がん細胞だけをやっつけるのでなく、健康な細部も壊してしまうのだそうだ。それによる副作用が辛いらしい。全身のけん怠感、脱毛、口内炎、食欲不振、吐き気⋯⋯。出かたは様々のようだが、副作用に辛抱できず、抗がん剤治療を続けられない人も多いと聞いた。
抗がん剤を投与して三日目。姉から電話があった。声はやや小さいが思ったほど辛くなさそうだった。吐き気がおきない薬を服用したと言っていた。
「いいお薬がどんどんでてきているから、私はついているね。」
と、明るく話す姉に、どう答えたらよいかわからず、テレビは見られているのかとか、あまり関係ない話ばかりしていた。
担当の先生からは、いつ容体が急変するかわからないと言われ、両親は連絡が来たらすぐに動けるよう準備しているのを知っていたので、姉とこんなふうに話ができたことがとても嬉しく感じられた。その頃、母の携帯に着信があるたびに、家族がその内容に神経を集中して聞く様な、ぴりぴりした空気があった。それだけに姉からの電話は室内を温ため優しい空気に変えてくれた。
「(純香さん)危険があればICUでの治療もと説明しましたが、今の様子であれば大丈夫です。」
先生からの連絡は私たちに活力を与えてくれた。人間は本当に単純な生物だと思う。嬉しい、良かった、楽しい、その感情だけで驚くほど元気がでる。
「純ちゃんも頑張ってる。私たちもやれることやって応援しよう。」
私たちは、同じ思いでつながっていた。
抗がん剤投与から九日目。先生から連絡があった。
「今朝、息苦しいと言われました。二週間を過ぎるまで、白血球の減少によるしんどさがあるのでその影響だと思います。白血球を増やす注射をしました。楽になっていくと思います。」
電話のたびに、落ちこんだりはしゃいだり。一番不安な時だったと思う。
十月七日。今日のCT検査で、結果によって食事を開始できそうとのこと。二回目の抗がん剤投与した後、体調をみて一度退院を考えていると先生から話があった。良くなる想像がなかなか出来ずにいた私たちに、また光が射しこんだ。
「流動食、美味しくないと言ったら、ヨーグルトがでたよ。それも味はびみょうなんだけどね。」
姉とは比較的まめに連絡がとれるようになった。文字を打つことや話す気力がもどってきたのだと思う。先が見えずに過ごす一日も、期待を持って過ごす一日も、長さに違いはないが充実感がまったく違うことを、私たちは姉に教えられていた。
十月十四日。二回目の抗がん剤治療が行われる。翌日、担当の医師より、今回の治療は体力がもどった分一回目より楽そうであると告げられた。そして二十日に退院を考えているという報告も受けたのだ。
それからの毎日は、姉を迎える準備に追われるのが嬉しくて仕方なかった。
十月二十日。姉が母と帰って来た。
「おかえりなさい。」
「ただいま。」
この玄関で姉を見送ったあの日から、一ヶ月ほどなのに、こうして迎えられた事に高揚してどきどきしていた。父も母もそうだったと思う。
夕食をとりながら、病院での生活の話をした。姉に関わってくれる先生が担当医以外にもいて、精神腫瘍内科の先生や、アピアランスの先生、歯科医も口腔内を定期的に検査するのだとか。
「歯学部の学生なんですって私が言ったら、(歯科の先生達)喜んでいて、ここで一緒に働くの楽しみにしてるなんて言うんだよ。」
「若くてきれいな看護師さんも足の裏にできたがんを国立で治療したんだって。私より脱毛は多かったって言ってた。」
「精神腫瘍科の先生もお笑い大好きだって言って、話が盛り上がった。」
姉があまり面白く、楽しそうに話すので、聞いている私まで大声で笑っていた。こういう時間を過ごせることが以前より何倍も大切に感じられた。
「そうそう。」
と、母が口を開く。
「今日、病院へお迎えに行ったでしょ。部屋で荷物をまとめてる時、看護師さんが言ってくれたの。『純香ちゃんのお部屋に来るの、争奪戦なんですよ。純香ちゃんとみんなお話したくって』だって。」
姉ってすごすぎる。正直な気持ちで尊敬する。病気という局面でも、姉の周りに人が集まる理由がわかってしまった。さっき面白く話してくれたことにも合点がいく。自分を支えてくれる人、励ましてくれる人、関わってくれる全ての人を大切にするから、姉を親身に気にかけてくれるのだろう。
「車椅子でナースセンターの前通ったらね、仕事をしてた看護師さんや事務の人まで出てきてね、『純香ちゃん、よかったね。お家でゆっくりしてね。』って、手を振って送ってくれたのよ。」
光景が目に浮かぶ。母も涙がこぼれそうになるくらい嬉しかったそうだ。
「いってきます。」
自宅も病院も、姉は居心地良い場所にしてしまっていた。私には到底できない神わざだ。
自宅から地元の大学病院への通院は、国立がん研究センターの担当医と連携してくれたので、しっかり管理してもらえた。もしもの時も随時、電話で相談が出来たことは、姉と一緒にいる私たちに大きな安心をくれた。
十月二十九日。私の十五回目の誕生日だ。
「綾、誕生日おめでとう。」
姉はそう言ってプレゼントを渡してくれた。
「昨日、お母さんと選んだんだよ。」
袋を開くと、ペンケースと髪をとかすブラシ、バッグにつけてつかう時計が入っていた。
「ずーっと、私のお下がりのペンケース使っているから、ちょっと気になってたんだ。」
私は、あまり物に執着がないので、使いやすかったから今まで気にもしていなかったのだと言ったら、私らしいと大笑いされた。姉が私に選んでくれたプレゼント。すごく嬉しかった。さっそく使おうと心に決めた。
その後も、三週間のサイクルで抗がん剤治療は続けられた。病院の姉からライン、『CT検査したら、肉腫が小さくなったって。先生もすごく喜んでいたよ。』この一文に、皆飛び上がるくらい歓喜した。本当に嬉しいお知らせだった。
「バーミヤンのチャーハンが食べたい。」
国立がん研究センターに入院したての頃、点滴をつけた姉が母たちに言った言葉。帰りの車の中で、父と絶対に食べさせようと誓ったけれど、二人とも心の奥には「もしかしたら⋯⋯。」という気持ちが鉛のように重くあったらしい。
願いをかなえられたのはこの頃だ。少しの量だが、姉は食欲がでてきていて、母も姉の要望にこたえるのを楽しんで頑張っていた。
夜は三人で川の字で寝た。
「私、きっと良くなるよ。その予感しか今ないよ。」
姉の言葉に、私たちはまた元気をもらって眠りにつく。不安を口にしたら止められないからなのか。それがわかっていて姉は口にしないのかと考えだしたら、胸がつぶれそうに痛かった。
「がん遺伝子パネル検査というものがあるのですが、やってみますか?。」
担当医から提案をされたものは、これまで保存してある組織をゲノム解析するものだ。詳しくはわからないが、治療に役立つ情報が得られる可能性があるのだそうだ。ただうまく治療法がみつかるケースは約一割ぐらいらしい。それでも父はやることを選んだ。
一ヶ月後、パネル検査の結果がでる。有効な情報はみつけられなかった。だが遺伝性のがんではないことがはっきりした。それだけに、これほど希ながんがなぜ娘の身体にできたのか、両親はくやしかったようだ。このパネル検査のデータは、厚生労働省が設置した「がんゲノム情報管理センター」に送られて、今後のがんゲノム医療に必要な情報基盤となるらしい。医学の進歩にはこうしたデータの蓄積が重要なことを改めて感じた。
令和四年、一月一日。抗がん剤治療五回目を終えて迎えた年。治療はうまくいっていたので、休学している大学に、四月から戻れたらいいなという話もできるほどだった。
皆で買物したり、車でちょっと出かけたりと、こんなふうにずっと過ごしていける気がしていたのに。
一月二十九日。吐き気がおさまらず大学病院へ入院した。抗がん治療の回数が進むと、腸の働きが悪くなることがあり、そのため腸閉塞をおこしてしまったというのだ。薬が効いて良くなると思っていた矢先のことだった。それだけに、姉がどれだけ落胆したかを想像するのも辛かった。
二月十八日。八回目の抗がん剤治療のため入院。前日に足のつけ根にこりこりしたものを見つけ、担当医に話すと、今まで使った薬が効かない細胞が大きくなってきたとのこと。今回、抗がん剤の種類を変えて対応しようと言われる。
「今、みつけてもらえて(入院のタイミングで)私やっぱり強運なんだよ。」
泣きそうになるのを見られないようにして病室を出た母を、精神腫瘍科の先生が追って来て言ってくれたそうだ。
「純香ちゃんの少しでも良い方へ向こうというモチベーションに、私たち医師も看護師、スタッフ全員がどれだけ救われているかというのをお伝えしたかった。本当にすごいお嬢さんです。」
姉がどんな時でも、
「もしかしたら⋯⋯。」
「次はこうなるよ。」
と未来を語ってきたのも、一人で治療をしてきたからではなかったからなのだ。担当の先生、看護師さん、いろいろな検査をしてくれる技師さん、歯科の先生、母に伝言してくれた精神腫瘍科の先生、みんなが姉の近くで一緒に頑張ってくれていたからだ。難しい病気とわかったとしても、私たち家族だけだったら何も出来なかったと思う。専門の知識を持っていてもまだ解明できない病気だが、私たちと一緒に考え、治療にあたってくれたからここにこうしていられる。
そして、向きあうべき患者自身が状況をどう受け入れるかが大切なのではないか。病気を治したい医師治りたい患者、そのとりまくすべての協力者。その全部が同じ方向を見て、進むことが治療を成功させる一歩なのだ。
四月十三日。いいチームでいい環境で治療を続けていた姉の心臓は止まった。母の腕の中で、私も父も見守る中で。息をひきとる直前まで、私を気にかけていてくれた姉。
「みんなには感謝しかないよ。」
と言い続けていた姉。
「綾がいてくれて、本当に良かった。」
そのまま私も姉に言い返したい。姉の妹で生きてこられて良かったと。
姉の病気は結局、はっきりした答えはわかってはいない。解明するための準備と研究は日々進められてはいるのだろう。
「綾、くやしかったらもっともっと勉強して、綾が原因をみつけてみなよ。」
姉からの挑戦状だ。困難な課題ではあるが、解明できたその先には、たくさんの人を笑顔にすることができるだろう。この想像は、私に将来の目的を与えてくれた。努力し続けることを姉に誓う。
私の目の前に、姉の姿はない。だが、どこを見ても姉が居るのだ。そしていつでも姉の声が聞こえてくる。
「大丈夫だよ。きっとうまくいく。」
「今日だめでも仕方ないよ。明日はいいようになるかもしれないよ。」
十五年、姉の妹で、家族で、一番近くに居られたことが、私の中にたくさん大切なことを詰め込んでくれた。姉のような強さは、まだ私に備わっていないかもしれないが、これからも、助けてもらいながら一日を大切に生きていこう。そこにもここにも姉は居て、姉に出会って知り会った人のぶんだけ姉は生きている。十九年ではあるが、最後の一秒まで大事に生きられた人生だったと思う。
悲しさ、寂しさがなくなることはこれからもない。起きるたび、食事をとるたび、外出するたび、様々に姉を思い出す。そして話しかける。答えはなくても姉は何かを伝えてくれる。心に明るい光をともすように。
空の青さを、太陽のまぶしさを、季節の移り変わりを、人と人の交わりを、鋭く観察する力をくれたのは姉のおかげだ。なんとなくではない時を、これからも生きていきたい。姉のような突発的に病気に見舞われた人の力になれる人間になりたい。
そしていつか、姉からの挑戦状に答えを出せる日が来ることを願う。
「やったね。」
そう言って、一緒に喜びたい。
姉のおかげで、救いが必要な時、多くの人が尽力してくれることを知った。人の持つ知識を信じることも大切だと思った。弱った時に、助けてと口にしてもいいのだと知った。
姉があなたで本当に良かった。生まれ変わってもまた姉妹になろうね。絶対だよ。
闘病の姉から多くを学ぶ
【講評】歯科医を目指していた綾香さんのお姉さんは、難病を患い、闘病生活の末に亡くなりました。綾香さんは、痛みに耐えながら明るさを失わない姉の姿から多くのことを学び、考えます。そして、「姉は私に病気の原因を突き止めてほしい」と願い、「挑戦状」を託したと受け止め、力強く歩いていこうと決意しました。(新藤久典)
入賞者
■読売新聞社賞
◇小学校低学年
平沢心美(千葉県・昭和学院小2年)
高橋璃帆(神奈川県・精華小3年)
能仁絃葉[いとは](大阪教育大学付属天王寺小3年)
◇同高学年
高橋蘭(秋田大学教育文化学部付属小4年)
小塩春菜(京都女子大学付属小4年)
脇野英士[えいと](福岡県春日市立春日小6年)
◇中学校
横田玲(大阪府箕面市立第一中3年)
ファム・リンガー(島根大学教育学部付属義務教育学校8年)
杉田ヤコブレフ安南[あんな](ジュネーブ日本語補習学校中1年)
■JR賞
◇小学校低学年
出井菫[すみれ](奈良市立登美ヶ丘小2年)
◇同高学年
大谷総一郎(横浜市立本町小4年)
◇中学校
黒田美唯[みゆ](水戸市立石川中3年)
■日本テレビ放送網賞
◇小学校低学年
新井広太朗(埼玉県鶴ヶ島市立栄小2年)
◇同高学年
岡本紗羅(群馬県高崎市立塚沢小4年)
◇中学校
佐藤朱音[あかね](静岡大学教育学部付属静岡中2年)
田代依子[いこ](福岡教育大学付属福岡中3年)
■日本書芸院賞
◇小学校低学年
川畑まい(京都女子大学付属小2年)
◇同高学年
篠崎綾花(千葉県白子町立関小6年)
◇中学校
角田繭璃[まゆり](山梨県・駿台甲府中3年)
■入選
◇小学校低学年
山田遥大[はると](盛岡市立桜城小2年)
久保雄盛(和歌山県橋本市立橋本小1年)
岩男美咲(山口県下関市立文関小2年)
◇同高学年
西形花璃[はなり](福島市立福島第三小6年)
松川明愛[めいあ](岐阜県大垣市立静里小6年)
清永皐樹[さつき](熊本市立秋津小6年)
◇中学校
小沢萌々夏[ももか](埼玉県・開智中2年)
藤原海虎[かいと](東京都・安田学園中2年)
松山柚乃花[ゆのは](宮崎県立都城泉ヶ丘高付属中2年)
■中央審査委員
梯久美子(ノンフィクション作家)
石崎洋司(児童文学作家)
新藤久典(元国立音楽大学教授)
土橋靖子(日本書芸院理事長)
木村通子(日本書芸院常務理事)
野田杏苑(日本書芸院常務理事)
【主催】読売新聞社
【後援】文部科学省、全国連合小学校長会、全日本中学校長会
【協賛】JR東日本、JR東海、JR西日本、日本テレビ放送網、日本書芸院、光村印刷
【協力】三菱鉛筆
入賞作品は2023年3月に発行予定の「優秀作品集」に掲載します。問い合わせは読売新聞東京本社次世代事業部(03・3216・8598)へ
(2022年12月12日 16:27)