高校生が見た被災地のいま(10)探検隊メンバーの被災体験2

 宮城県出身の探検隊メンバー、太田直希君と佐藤千夏さんは小学校6年生の時、東日本大震災を経験した。ツアーに際し、2人が寄せてくれた体験談を紹介する。。

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私の被災体験

宮城県気仙沼高等学校2年 佐藤千夏

 

 地震発生時、私は教室で算数の授業を受けていました。みんなで問題を解いている時、地震はやってきました。急いで机の下にもぐったのはいいものの、激しい縦揺れのせいで何度も机に頭をぶつけました。机の中の教科書は全て飛び出し、足の踏み場がないほど物が散乱しました。

 

 大きな揺れが収まり、一度小学校の校庭に全校生徒で移動しました。点呼をとるとすぐに毛布が配られました。何度も来る余震に、友達と体を寄せ合いながら励ましあったのを覚えています。「津波が来る!」と一人の先生が叫びました。実際には小学校には津波は来なかったものの、当時、可能性があったため、私たちは小学校よりも高い所にある中学校へ避難しました。恐怖の中、無我夢中で走りました。

 中学校に着くと私たちは体育館に誘導されました。そこには柔道の授業に使う畳が敷かれており、中学生が自分達のジャージをお年寄りの方や女性の方に配っていました。

 体育館に響く防災無線の音、子供の泣き声、怪我をして運ばれてきた人のうめき声、先生が指示を出す声、地震の音――。今でも鮮明に覚えています。

 親戚の叔父が迎えに来てくれ、農道を通って帰りました。いつもは5分で着くところ20分程かかりました。家に着きやっと家族の安否を確認する事が出来ました。

 

 地震後の生活は私が想像していたよりも過酷なものでした。

 家の車が全て流されてしまったため、ラジオを聞くことが出来ず、情報がまったく入って来ませんでした。ガスはなく、庭で火を起こして調理をし、入浴は、大工である叔父が薪で沸かすお風呂を作ってくれたので、井戸水をためて入りました。田んぼの用水路の水を汲んできて、トイレを流すのに使いました。

 スーパーのほとんどが流されてしまったので、食べ物を買う事も出来ませんでした。地区の集会所に集められた物資をお年寄りの家に届けに行きました。

 

 また、家の近くまで津波が来たため、沢山の遺体が家の近くで発見されました。自衛隊の人達が青いブルーシートで包んだ遺体を運んでいるところを見た事があります。その時の衝撃は今も忘れられません。今思うと、本当に大変な生活だったと感じます。ですが、それと同時にいつも支えてくれる両親の存在のありがたみや友達、地域の人の大切さに気づく事が出来ました。

 現在、生活はほぼ元通りになりました。ですが、まだ私たちが乗り越えるべき壁は沢山あります。この震災を忘れず、地域の人達全員で協力し頑張っていきたいです。


(おわり)

第12回海外プロジェクト探検隊参加者

渡辺啓介君(都立日比谷高校2年)

田辺雄斗君(桐蔭学園中等教育学校5年)

太田直希君(宮城県仙台第二高校2年)

酒井恵理香さん(渋谷教育学園渋谷高校2年)

佐藤千夏さん(宮城県気仙沼高校2年)

川内彩可さん(都立戸山高校2年)

(2016年2月 3日 11:59)
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