高校生が見た被災地のいま(3)消滅した思い出の深沼海岸 仙台市

 2015年夏に実施された海外プロジェクト探検隊(読売新聞社主催、三菱商事特別協賛)初の国内ツアー。東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城、岩手両県の被災地を探検隊メンバーとなった6人の高校生が巡った3日間をリポートする。

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津波被害を撮影した写真に見入る探検隊メンバー

消滅した思い出の深沼海岸 仙台市

2015年7月31日

 

 「これがあの海辺なのか」。バスを降りた太田直希(宮城県仙台第二高校2年)は立ちすくんだ。

 この日最後に訪れた仙台随一の海水浴場だった深沼海岸。仙台に生まれ育った太田にとって、ここは、毎夏、家族で遊びにやって来るお気に入りの場所だった。いまでも記憶を手繰れば、穏やかな波音が響き渡る白い砂浜や、それに沿ってどこまでも続く緑の美しい松林が浮かぶ。

 

 しかし、目の前に広がる光景は、それとは全く異なるものだ。海岸への出入りを阻む金属板と柵がめぐらされ、林野庁の「みどりの防災林再生プロジェクト」の看板や「ここで泳ぐのはキケン」と手書きされた看板がかかる。いまや松林は消滅し、まばらに立つ木がその面影を伝えるだけだ。枯れ残る倒木が痛々しい。付近の住宅地も基礎部分を残してなくなっている。

 犠牲者の慰霊のために建立された観音像が近くにあった。「荒浜慈聖観音」という。そばには「東日本大震災慰霊之塔」も。探検隊メンバーは並んで手を合わせた。

 

 近くにある4階建ての荒浜小学校は2階部分まで津波被害を受けながら、屋上に逃れた生徒や住民300人以上が救助された。しかし、荒浜地区だけで388人が亡くなっている。

 探検隊は、津波来襲当時、200〜300人の遺体が上がったと地元ラジオが伝えた荒浜交差点を探検隊バスは通過した。海からは約1kmの距離。破壊されたまま残る建物、曲がりくねったガードレールが津波の凄まじさを物語る。

 

 あの時ここにいたら、誰かが津波が来るから避難しろ、と言ってくれたら、適切に行動はできただろうか。生と死の明暗を分けたのは、何だったのだろうか。

(敬称略)


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第12回海外プロジェクト探検隊参加者

渡辺啓介君(都立日比谷高校2年)

田辺雄斗君(桐蔭学園中等教育学校5年)

太田直希君(宮城県仙台第二高校2年)

酒井恵理香さん(渋谷教育学園渋谷高校2年)

佐藤千夏さん(宮城県気仙沼高校2年)

川内彩可さん(都立戸山高校2年)

(2016年2月 3日 10:01)
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