高校生が見た被災地のいま(4)人間の記憶の限界 宮城県南三陸町

 2015年夏に実施された海外プロジェクト探検隊(読売新聞社主催、三菱商事特別協賛)初の国内ツアー。東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城、岩手両県の被災地を探検隊メンバーとなった6人の高校生が巡った3日間をリポートする。

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南三陸町の海景色。普段は美しく穏やかな表情を見せている

人間の記憶の限界 宮城県南三陸町

2015年8月1日

 

 この日朝、南三陸町内の被災地域をバスで巡った。当地で語り部ガイドを務める鴻巣修治の案内で戸倉地区などを取材した。

 

 道中、鴻巣が強調したのは「人間の記憶の限界」だった。

 過去100年を振り返ると、この地域は明治以降、4回の大津波に見舞われている。1896年の明治三陸大津波、1933年の昭和三陸津波、1960年のチリ地震津波、そして2011年の東日本大震災の津波だ。

 「東日本大震災前、人々が現実感をもって語ることができるのはチリ地震津波だけだったのです」と鴻巣。

 チリ地震津波の際、南三陸志津川地区では41人の犠牲者が出ている。当時、10歳以上、つまり現在65歳以上の人であれば、記憶もあるはずだ。しかし、東日本大震災の規模に匹敵するのは、三陸沿岸を中心に約2万2000人が亡くなった明治三陸大津波。東日本大震災当時、これが住民の念頭に教訓として残されていたならば、救われた命はもっと多かったのではないか。

 

 津波被害で廃校となった戸倉中学校を訪れた。海面からは約20メートルの高台にある。遠くに見下ろすばかりの海が津波となってここまで押し寄せるなんて、誰が想像できるだろうか。

 東日本大震災発生時、地元防災無線が当初伝えたのは「6メートルの津波が予想される」という情報。チリ地震津波は高さ5.5メートル程度だった。そこに油断が生じはしなかっただろうか。

 鴻巣によると、東日本大震災発生当時、多くのお年寄りを含む住民が中学校に避難していた。駐車場に停めた車の中で眠っている人も確認されている。一旦避難した後で津波が来る様子を見るために下りて行った人もいた。

 

 地震発生から40分ほど経った頃、沖合がどす黒く膨れ上がったかと思うと、地響きのような轟音とともに襲いかかって来た。あっという間に校舎1階部分が丸ごと海水に浸り、周囲で車やら瓦礫やらを飲み込んだ波がうねり、渦巻いた。逃げ遅れた生徒や先生、住民があっという間に消えた。津波が止まった時、校舎2階部分だけが海面に顔を出し、島のようになった。2軒の民家が浮いていた。そして津波は人も家も車も何もかも一緒くたに呑み込み、凄まじいスピードで引いていったのだという。

(敬称略)


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第12回海外プロジェクト探検隊参加者

渡辺啓介君(都立日比谷高校2年)

田辺雄斗君(桐蔭学園中等教育学校5年)

太田直希君(宮城県仙台第二高校2年)

酒井恵理香さん(渋谷教育学園渋谷高校2年)

佐藤千夏さん(宮城県気仙沼高校2年)

川内彩可さん(都立戸山高校2年)

(2016年2月 3日 11:22)
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