「高大接続」という言葉が独り歩きしている。目まぐるしく変わる世界で、私たちの子どもはどんな力を求められるのか、それにふさわしい教育を創っていこう。そんな思いで始めた改革だったが、その方向に進んでいるのだろうか。議論を進めてきた責任者の一人として、改革に込めた思いを語りたい――中央教育審議会会長として改革を世に送り出した安西祐一郎氏が語り始めた。
第1、3金曜日掲載(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈)
[vol.11] 「好き」は向こうからやってくる
高校、大学、そしてその間をつなぐ入試を一体的に改革することで、文化や背景の異なる多様な人々と競争し、あるいは協働できる力を育むことを狙う「高大接続改革」。そのカギは「書く力」だ。そこには、誰に何を伝えたいのかを自分と向き合って決める判断力や、伝えたい相手はどのような背景を持つ人で、より正確に伝えるためにはどのような表現を使うことが妥当なのかといった深い洞察力や思考力などが含まれているからだ。子どもたち一人ひとりにとって、絵日記はそうした「書く力」を磨く格好の機会となるはずだ。
私自身が「書く」と出会ったのは、中学校1年の夏休みだった。自由課題で「桃太郎」の英訳に取り組んだ。日本は戦争の焼け跡から立ち上がり、国際社会の一角に加わる目標を追いかけ始めた頃のことだ。高度経済成長はまだ先の話で、東京の都心にも路地裏があった時代、子ども心に世界を夢見た。そのためのパスポート、それが英語だった。
英文を和訳することは授業で繰り返している。だが、日本語を英訳することはほとんどなかった。そんな自分に出来るだろうかという不安もあって、とにかくやさしい日本語を、と選んだのが「桃太郎」だった。だが、いざ始めてみると、これが大変難しい。
言葉の組み立て方が、日本語と英語では全く異なる。日本語は主語がなくても通じる。動詞はたいてい最後にくる。一方の英語は主語がないと成り立たず、その後ろに動詞が来るのが一般的だ。全く文法の異なる英語に訳すには、まず日本語を組み立て直すことが大切だと気づかされた。
さらに一つ一つの単語がひっかかる。たとえば「むかしむかし」を和英辞典でひくと「once upon a time」と「long time ago」が出てくる。どちらがふさわしいのか、外国人にあったこともなく、「once upon a time」とは妙な英語だな、と思う。だが、発音してみると、「once upon a time」の方がリズムがいい。お父さんやお母さんが子どもに読み聞かせるのなら、こちらの方がしっくりくるかもしれない。「おじいさん」は「an old man」でいいのだろうか。これでは単に「年をとった男」で、「おじいさん」という感じが出ない。親しみがこもらない......などなど。
日本語で流し読みをしていると気づかない言葉のリズムや、読み手がどう感じるか、単語一つでもどう理解すればいいのか、ひっかかる。これがずいぶんと日本語の勉強になった。どのような場面で、誰がどんなふうに読むのか、読む際の音のイメージまで考えなければ、翻訳、いや書くことは出来ないと痛感したのだ。「書く力」の中に「読む力」「読解力」が含まれることを中学1年の夏休みに知ったのだ。
エアコンなどない夏の盛、ランニングにねじりはち巻きの中学生が畳の上にあぐらをかき、大汗をかきながら「桃太郎」に取り組んだ。書いては消し、消しては書きを繰り返し、リポート用紙が足りなくなると近所の文房具屋に買いに走り、また机に向かう生活が続いた。
だが、少しもつらくなかった。好きだったからだ。
もともと読書が好きだった。娯楽の少ない時代であり、少年講談全集を読み漁った。真田幸村や猿飛佐助、後藤又兵衛ら知将や忍者、豪傑の物語に心躍らせた。漢字をたくさん覚えたのもその過程だった。大人に言われたからではなく、好きだからこそ覚えられた。
それより何年か前にイギリスの登山隊がエベレストに初登頂して、そのドキュメンタリーが岩波少年文庫から「エベレスト登頂」という題で出版された。それもなけなしのお小遣いで買い、繰り返し読んだ。幸いにも、家のすぐ目の前に小さな書店があり、小学校からの帰り道には毎日のように寄って立ち読みした。書店の店員から嫌がられたことはなかった。
本好きが高じて、小学4年から6年まで図書委員になった。仕事は毎週2~3回、放課後の図書室の片隅で背表紙にラベルを貼りつけるというもの。はけで背表紙に糊を塗り、本の分類ごとに異なる色のラベルを黙々と貼り付け、積み上げていく。本に囲まれているだけで楽しかった。手が空けば、手近にある好きな本を開ける。放課後の静けさの中、夕日が斜めに差し込み、接着剤のにおいが漂う図書室の情景を、今でも思い出すことがある。
夏休みが終わり、「桃太郎」が先生のお褒めの言葉をいただいたことに気をよくして俄然奮起し、すぐに中2の自由課題に向けての準備を始めた。次なる課題は、書店で見つけたイワン・エフレーモフのSF小説「アンドロメダ時代」。ソ連が米国に先駆けて世界初の人工衛星を飛ばしてから数年後のことだった。私のなかでは海の向こうの外国だけでなく、宇宙へのあこがれも膨らんでいた。
中1の秋から取り組んで1年近く、最終的には厚さ5センチほどの大作が完成し、「中2とは思えない」と先生には絶賛された。中3でも宇宙小説の英訳をしたが、燃え尽きてしまったのか、2年のときのような達成感はなかった。だが、その成果をいまも実感している。即応が求められる国際会議に毎月のように出席し、ときに議長役を務めることもあるが、英語での発言に困ることはないのだ。頭の中で文章を作る訓練、コミュニケーションに欠かせない頭の中で文章を組み立てる力は、中学時代の「和文英訳」――日本語を十分に「読み込んで」理解し、それを英語で構造化して「書く」ことで養ったと思っている。
前回も紹介した経済協力開発機構(OECD)のPISAの「読解力」定義を思い出してほしい。
自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考し、これに取り組むこと
自らの目標を立てて達成すること、つまり自分が主体性を持つことが読解力の前提である。「好きなこと」があって、その先に「力」が育まれるのだ。
能天気とお叱りを受けるかもしれないが、好きなことには、いつか巡り合えるはずだ。好きなことが見つけられないのは、周囲が邪魔をしているからだ。もしかしたら、自分の心が邪魔をしているかもしれない。
いずれにしても、いますぐに子ども自身が見つけられなくてもいい。だから、子どもを束縛しないでもらいたい。「こういう大学に行った方がいいよ」と指示するのも、慎んでほしい。子ども自身が自らの目標を自らの手でつかむまで。
ただ、もし少しでも子どもの「好き」の萌芽を知りたい、傾向をつかみたいと思うのなら、書店に連れて行くといい。書店の入り口で離れて、何も指示しなかったら、子どもの足はどこに向くだろうか。子どもの一挙手一投足に注目し、何に手を出すのか、じっと見ていてほしい。
「好き」は、大人が与えるものではない。「好き」な本の並ぶ書棚が自然に子どもを迎えてくれる。「好き」は向こうからやってくる。
【MEMO】
2019年度に始まる「高等学校基礎学力テスト(仮称)」および2020年度に始まる「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」のいずれでも、外国語(とくに英語)では「聞く、話す、読む、書く」の4技能を問う。現行のセンター入試の出題は「読む」と「聞く」だけであり、大学のいわゆる二次試験も4技能をバランスよく評価している例はきわめて少ない。このため、高校の外国語(とくに英語)教育が「読む」「聞く」に偏り、「書く」「話す」が疎かにされており、大学生の英語の力も総論としては世界の大学生に遠く及ばないと言ってよい。その一方で、年間50万人以上が受けると予想される評価で4技能を問うにはさまざまな具体的検討が必要であり、今年6月ごろまでに、英語を含めたテスト全体の実施方針を文科省が公表する予定になっている。