異見交論44(下)国立大学は納税者への責務を果たせ 神田眞人氏(財務省主計局次長)

神田眞人 1965年生まれ。オックスフォード大学経済学大学院修了。世界銀行理事代理、主計局主計官(文部科学、司法警察、経済産業、環境、財務予算担当等を歴任)等を経て現職。OECDコーポレートガバナンス委員会議長。

 「過度の評価と競争」――国立大学法人化の影響を尋ねると、大半の大学関係者がこう答える。大勢の教職員が手分けして大量の書類を書き、外部の人たちも交えた複数回の会議を開かざるをえない、評価に金と時間、手間をとられ、とてもじゃないが「活力ある、個性豊かな国立大学」などができるものか......と。ところが、財務省主計局の神田眞人次長は、「適正な評価がされていない」と切り返す。甘い評価に基づく「競争的資金配分」で納税者への責務が果たせるわけがない、とまで。法人化は大学を「よく」しているのか。(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈、写真も)


 

■国立大学は公共財

――国立大学に私学よりも多額の税金を投入することの正当性を説明してもらいたい。どのように証明するか。

 

神田 日本が生き延び、世界に貢献するためにも教育や研究を強化しなくてはならないという思いは、この「異見公論」に登場された五神先生、山極先生、上山先生、3人ともよくお会いしているが、変わらないと思う。私も、国立大学は五神、山極先生同様、理念型としては公共財であるべきであり、社会に開放的に奉仕する存在であってほしいと考えているが、学術的には上山先生の指摘が全く正しいと思う。つまり、今のように外部経済が少なく、極めて閉鎖的な状況だと、公共財の定義には到達していない。むしろ五神先生の言う通り、公共財としての機能を持続的に果たすための努力が求められるということだろう。そして、真に納税者に還元されることが保証される範囲内であれば、国家が国立大学に血税を投入することは正当化されるだろう。

 

――条件付きで「正当」ということか。では、国立大学に何を期待しているのか。

 

神田 たとえば世界的な研究大学を名乗るのであれば、世界ランキングでトップクラスに入っていてほしい。それぐらいしないと、私立大学も納得しない。

 国立大学には私学に比して相対的に、教育に加え、高いレベルの研究が求められている。私学にも研究者は国立の約14.5万人を超える約15.3万人いるが、トップ10%論文(科学研究のベンチマーク)【下図】をみると、私立大学が546本に対して、国立は2,277本。科研費の採択件数も私立の1.95万件に対し、国立は4万件と多い。これは国立がエライという意味では全くなく、日本の科学技術の国際競争力低迷の責任はかなり国立大学にあり、その低いパフォーマンスと生産性を向上させる必要があるという含意だ。そうでないと公費投入を続けるのが難しくなろう。

 

 

 たとえばガバナンスにしても情報公開にしても国立と私立は比べ物にならない。予算の決め方は、国立大学は文科大臣の認可が必要だが、私大は各大学の判断にゆだねられ、私学助成を受ける学校法人でさえ届け出だけですむ【下図】。国の予算統制のない結果、学生数が平成になってから1.4倍になっているにもかかわらず、支出規模では2.1倍にまで膨らんでいる。

 

 

――なるほど、税金を投入する経営体として疑問があるということか。情報公開や人事などではどうか。

 

神田 国立は、役員の報酬や職員の給与水準は公開しなければならないが、私立はそうなっていない。国立の学長・監事は文科大臣任命だが、私立の人事には国の関与はない。

 税金が入れば、その分、納税者へのアカウンタビリティー(説明責任)が強くなるのは当たり前だ。これもどっちもどっちかもしれない。国立も既得権の上に安穏として、改革に抵抗していて説明責任を果たせなくなったら、国民から見放される。自律性を高めていけば、国費の比率が下がっていく。私立が国費への依存度を高めていけば、国のコントロールが高まり、両者が収斂(しゅうれん)していくのかもしれない。

 

――その中で、国立と私立の連携が増えている。

 

神田 おっしゃるとおり、教育や研究でも国公私の連携が増え、7年前に私が提唱したアンブレラ方式(持ち株会社的再編)が、ようやく実現の可能性がでてきている。これは国公私の設置形態を問わないものであり、「国」対「私」という二律背反の時代ではなくなりつつある。

 ついでに申し添えたい。「日本は国立大学への公費支出が少ない」というのは嘘だ。前にも言った通り、競争的資金の供与の激増に伴い、国立大への公費投入は大幅に増えているだけでなく、主要先進国に比べても恵まれている。粗い試算だが、国立大への公費負担約1兆2000億円を国立大の総学生数60万人で割ると、一人当たり200万円になる。一人当たりのGDPは400万円だからGDPの50%を占める。欧米の在学者一人当たりの公財政教育支出のGDP比は、フランスでは33%、ドイツは32%、イギリスは17%で、日本より少ない。日本は子どもが少ないから充実することになるが、厳しい財政支出の中でこれだけ出しているということは強調しておきたい。

 

 

■目標未達成でも、自己評価は「A」

――法人化以降、厳しくなっている評価と競争は「国立」大学を「よく」したのだろうか。文科省の当時の資料をみると、法人化で国立大学は個性を発揮できるなど、明るい未来を示していた。評価の機会は増えたが、現状は腑に落ちない点が多々ある。

 

神田 おっしゃる通りだ。実は、国立大学の評価制度は機能していない。だから評価に基づく戦略的な予算配分もほとんど実現されていない。国立大の評価は国立大学法人評価委員会が、各法人の中期目標、中期計画、年度計画の達成状況を年度ごと、または中期目標期間ごとに評価する。2017年度に86大学でそれぞれ7項目、全部で602項目の教育研究、業務運営、財務内容の第二期中期目標期間の状況が評価された。ところが、「不十分」「要改善」が指摘されているのは、わずか19項目。全体の3%だけで、ほとんどみんなOK。身内の大甘。戦略的に予算配分しろと言っても使えるわけがない。

 国立大学運営費交付金の重点支援の評価結果を見ても、評価が機能していないことがよくわかる。2017年度に行われた2016年度の取り組みに関する評価が86大学の296の戦略に対して実施された。その中で、「戦略における昨年度の評価を踏まえた対策」「戦略が進捗しているか」は296戦略のすべてがAだ。全く無意味な評価で、さすがに頭を抱えた。

 具体例を示そう【下図】。「A教育大学」は戦略の目標として学生のTOEIC500点(英検準2級程度)を設定している。2016年度の基準値は「450点」。それを5年後には500点にするとしていた。小学校英語教員に求められる英語力は英検準1級、高校卒業程度の英語力は2級だから、目標値はそれすら下回る、極めて低い目標値だ。これでは卒業しても評価されまい。それにもかかわらず、2016年度末、つまり取り組みを始めて1年後の実績は、445.3点。しかも、A大学による自己評価はなんと「A」なのだ。これほど低い目標さえ未達なのにA、よくできました、というのが評価の実態だ。信じられない。これが許されているのが国立大学の現状だ。国民のみなさまに知ってもらいたい。

 

 

――評価と競争の激化が、教育と研究の妨げになっている。それが現場で聞かれる批判の中心だったが、そもそも評価になっていないとは......

 

神田 適正な評価ができていないから、フェアな配分ができない。国立大学にメリハリをつけるために、機能強化促進費として約100億円を配分している。「世界レベルの研究」「地域貢献」「すぐれた分野での教育・研究」という3分類のうち、どこに重点を置いていくのか大学が判断するものだが、運営費交付金全体の1%未満にすぎない。

 今後、我々は努力する大学をさらに応援するために、運営費交付金全体を見直して、競争的、戦略的な配分割合を増加させていく。運営費交付金の一部を競争的資金にシフトするだけでなく、運営費交付金自体の一部を「評価に基づく再配分」に競争化しているが、そのシェアを抜本的に増やしていく。これを有効に機能させるには、評価を根本的に強化しなくてはいけない。大学の自己評価だけでなく、現場の実態を徹底的に洗い直しているところだが、こうしたひどい事例に愕然とする。

 

――大学の評価には、国立大学ならば法人評価委員会と、認証機関による評価などがある。財界、報道関係者もいるが、主力は大学人だ。

 

神田 大学や学部、領域、講座といった個別利益を代表している学者が多く、お互いに批判を避け、既得権益を認め合う馴れ合いが起きているといわれている。皆、OKですよ、という評価結果がその証左だ。ただ、本来は、官僚が評価するのではなく、あくまでもアカデミアの中で厳しいピアプレッシャーで切磋琢磨していくのが、学問の自由のためにも好ましいと私は考えている。知の世界を守るために、しっかり、自浄作用を発揮してほしいのだが、全く期待に応えてくれない。

 

 

■無償化への不安

――「高等教育無償化」が始まろうとしている。大学への新たな補助金という見方もある。その中で今後、国立大学に何を期待するのか。

 

神田 今のままで財政支援を続けていけば、血税の無駄遣いになるだけでなく、改革のモラルハザード、教育研究の質的劣化につながる恐れがある。国際競争力に応じた優先順位づけや抜本的な国際化、産学連携推進など、外部への開放性や競争環境の強化のインセンティブとなるように配分をしっかりと競争的、効果的にしていけば、自助努力での財源の多様化と合わせて、旧来型の運営費交付金は縮減し、競争的なものへと転換が促進されることになる。

 「新しい政策パッケージ」に基づく高等教育の負担軽減にあたって、適切な経営ができていない大学・専門学校を税金で救済してはいけない。現在、私大の5分の2が定員割れ、6分の1が充足率8割未満となっている。極端にいえば、フリーターを形だけ入学させて定員割れを埋める、そんなゾンビ大学が生き返るようなことになれば問題であるし、そのための不正ビジネスさえ生まれかねないので、丁寧な制度設計が必要だ。また、ただでさえ勉強しない日本の学生が無償で大学生の身分を得られることになれば、一層、勉強しなくなる、先生も一層、ちゃんと教えなくなるリスクがあるので、ここもしっかりと教育の質を維持、向上できる制度設計が求められる。そのため、支援対象者や支援対象となる大学・専門学校に関して、(1)学生の意欲・能力の確認、(2)学習成果の厳格な管理・評価・公表(出口管理の厳格化)、(3)経営・財務情報の開示(有効な第三者評価を含む)といった点について、実効性のある要件を定めていく必要がある。また、制度を公平なものとするため、所得制限の厳格化や資産要件の導入、不正受給対策も必要ではないか。いずれにせよ、2017年12月8日の閣議決定に則って、血税が最も有効に活用され、改革の障害とならず、教育の質を向上できるような制度設計に努めていきたい。

 

――大学が「成果」を求められている。つまり、大学に対する不信感の裏返しだろう。かつて大学は社会の尊敬を集める権威だった。大学の権威はなぜなくなったのだろうか。

 

神田 大事な質問だ。情報が大衆に均霑(きんてん)し、水平的、分散型社会と親和性のあるIT革命といった社会構造の劇的な変化の中で、大学、教授、博士などの価値が相対化された。政治家も役人も、メディアも含め、エスタブリッシュメントの権威が引きずり下ろされた。よくいえば「民主化」、悪くいうと、知的世界の溶解、「ポピュリズム」の跋扈(ばっこ)という現象の一側面かもしれない。あらゆる組織が生存をかけて厳しい競争と評価にさらされているのが現代だ。産業の新陳代謝、栄枯盛衰も激しくなった。

 だからこそ、大学は国民に対して社会貢献のアカウンタビリティーを果たさなければいけない。大学だけは貴族的既得権で、税金で趣味みたいなことをしているのではないかと見る人が増えると、とても守れない。一番いいのは、国際的にトップレベルとして評価される研究をしています、グローバルに戦える強い人材を生み出しています、という証明を実績でみせつけること。それで健全な権威が蘇るのではないか。大学がポピュリズムに対抗する知のアンカー、人類の知的進化の核として社会的権威を取り戻すことは義務でもあると考える。期待しているからこそ、頑張って明日のための改革を遂行してほしい。

 


おわりに

 10年前に開始した読売新聞「大学の実力」調査で、日本で初めて各大学の退学率をあぶり出して以来、退学者たちを追跡取材してきた。本人の学習意欲や志望動機の希薄さ、偏差値や知名度頼みの進路指導など、退学にいたる道筋はさまざまだが、共通するのは学費を負担してくれた親への「罪悪感」。その重さに精神を病む若者も少なくなかった。

 高等教育の無償化が難しいことはよくわかる。だが、親の懐具合を心配せずに進学を選び、合わなければ退学し、また学びたくなったら戻れる大学の実現は、やり直しのできる社会にするためにも意味があると考える。

 だからこそ、神田氏があげた無償化への条件は重要だ。ぜひ厳格な制度設計をしてもらいたい。そして100年以上も多額の税金を投じられてきた国立大学こそ、率先して無償化に堪える学びの府を実現し、いまだ見えない21世紀の大学像を示してほしい。(奈)


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(2018年4月13日 10:10)
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