ぬまっち先生コラム44 はじめての教壇(3)

楽しい給食時間。沼田クラスは全員完食がモットー(世田谷小で)

沼田 晶弘


第44回 はじめての教壇(3)


 

♣やんちゃ君に桜咲く

 2月の高校入試で周治は志望通りM高校を、ボクは都立戸山高校を受験しました。

 合格発表は3月です。当時は生徒がいったん中学に登校し、受験した高校に集団で合格発表を見に行くのが習いでした。戸山高はボクの中学から結構遠く、歩きを入れると往復2時間くらいかかりました。一方、M高はごく近いので、周治の方がずっと早く学校に戻れるはずでした。

 ボクは首尾よく戸山高に合格。中学校に戻ると、何と周治が待っているではありませんか。

 

 「沼田ぁーっ! 受かったーー!」

 

 周治は拳を天に突き上げて喜んでいます。ボクも「うおおー!」と叫びました。自分の合格より何倍もうれしかった。

 しかし実は、ボクは周治が受かることを予想していました。ボクの父はその頃学習塾を開いていたので、都立高の問題と周治の解答を採点してもらい「楽々、合格圏」と太鼓判をもらっていたからです。周治にもそれは伝えましたが、やっぱり不安だったんでしょう。なにしろザ・やんちゃ君のはじめての受験だったんですから。

 

 「で、合格証明書は?」

 

と、ボクは聞きました。周治はきょとんとして「は?」とか言っている。

 

 「え、何ももらわずに帰ってきた? 発表の掲示見てきただけ?」

 

 いや、何ともコイツらしいなと思いました。

 

 「担任はお前に書類のこととか言わなかったの?」

 「まだ報告してねえから」

 

 周治はこういう奴なのでした。担任には興味ないから後回し。それより先にボクに報告したくてわざわざ学校で待っていてくれたのでした。「ご両親と行ったの?」と聞いたら「いや、父ちゃんも母ちゃんも『怖くて見れねえ』って言うから一人で行ってきた」と周治は言います。

 

 「もう受かってんだから安心だろ? ご両親と一緒に書類もらってこいや」

 

 ボクは笑って言いました。

 

♠別々の高校になっても親友

 こうして、周治とボクは無事高校生になりました。

 学校が違うので、さすがに中学のようにべったりつるむことはなくなりましたが、それでも毎月1回は会って遊んでいました。定期試験前になると周治から「ちょっと勉強教えてくれよ」と連絡が来ます。ハンバーガーショップで落ち合ってお互い試験勉強です。いつごろからか周治は同じ高校のガールフレンドを連れてきたり、さらに別の友だちを連れてきたりで、結構ワイワイ勉強するようになりました。

 

♦ボクは高校で落ちこぼれでした

 ところで、戸山高校でボクは完全に落ちこぼれていました。周囲の頭が良すぎて、授業に全然ついていけなかったんです。中学の時、ボクは特に努力しなくてもよい点を取ることができました。授業だけ聞いていれば十分でした。ところが戸山高校はさすが進学校だけあって「ふだんから勉強する習慣」があって当たり前。ボクは高校生になって初めて「予習復習」という言葉を知りました。試験のたびに周治とその彼女らに勉強を手ほどきしていたボクは、自分の高校ではビリッケツでした。

 何とか落第だけは免れたのは、ボクが持ち前の社交術を発揮していろんな級友からノートを借りまくったからです。ただ借りるだけでなく、級友のノートのいいところを寄せ集めて「理想的なノート」を作ってお礼したりしたからむしろ喜ばれて、その次もノートを借りることができました。その頃から要領だけはよかったんです。

 特に苦手なのが英語でした。英文法の基本構造を表す「SVOC」をほとんど理解しないまま3年間過ごしました。Sって主語だっけ? てな感じです。英語の偏差値なんて何と27とか28でした。30を切る偏差値なんてなかなかないだろうと、今ではむしろ開き直って自慢してますが(笑)。

 

♥大学受験にも失敗

 そんな体たらくなので大学受験もボロボロでした。第一志望は東京学芸大でしたが、先生になりたかったわけではなく、センター試験である程度点が取れれば2次試験は体育実技だけで入れる学部があると聞いたからです。今思えばひどい動機でした。当然のように落ちました。センター試験が半分もできなかったからです。

 周治は高校生活をかなり楽しんでいたようだし、成績もよかったようです。(少しはボクのおかげ?)卒業してチェーンのドラッグストアに就職し、順調に社会人としてのスタートを切りました。一方、ボクは夢も希望もない浪人生になりました。

 そんなボクを救ってくれた「恩師」に予備校で出会うことになります。


43<< 記事一覧 >>45

 

(2016年9月 5日 10:00)
TOP