沼田 晶弘
第45回 はじめての教壇(4)
♣予備校でも落ちこぼれるピンチ
浪人生になったボクは、特に深く考えず予備校K塾の国立大向け上級コースに入りました。これも今思うと失敗で、授業のレベルが高すぎました。基礎がないんだからもっと低い目標のコースにすべきだったのです。たちまち授業が分からなくなり、やる気を失ってしまいました。楽天的なボクもさすがにこれではマズいと思い始めました。
夏くらいにK塾の中で「今なら間に合う 英語一から講座」みたいな特別授業を土曜に開くというチラシを配っていました。教えるのはK塾の看板講師で美人でも知られるN先生。実はN先生はボクの国立大上級コースでも教えていたのですが、内容が高度すぎてボクはついていけなかったのです。
これだ、これしかない。藁にもすがる気持ちで申し込んだボクでしたが、事務局では「君のようなコースの人は取れない」と登録させてくれません。ボクはN先生に直談判に行くことにしました。
♠救いの神・N先生との出会い
「国立の難関を狙うような人は必要ない基礎的な授業だけど、何で来たいの?」
最初N先生は渋い顔でした。そこでボクは、自分がいかに英語で落ちこぼれなのかを力説するハメになりました。偏差値30以下、SVOCさえもよく分からないのだと。こんなボクを救ってくれるのはN先生しかいないのだと。
「あんた面白いねえ」N先生はニッコリと言いました。「私にそんなこと言う学生は初めてよ」
そして少し厳しい顔になって、
「私の授業に出ていい。その代わりちゃんと予習復習して、毎回授業の前に質問を10個作ってくること。これを全部やるなら許可します。約束できる?」
ボクに否やはありませんでした。
♦偏差値が倍になった「ビリボーイ」
それからは、自分の本来のコースの授業はサボってまっすぐ自習室へ。土曜日のN先生の授業にすべてを賭けました。約束通り予習復習して、質問も作って、授業ではいつも一番前に座って聞いていました。先生もボクをかわいがってくれて、時々教壇からボクの方をチラッと見て、ボクがついて来ているかどうか確認してから先に進んでくれた。......いや、ただの思い込みかもしれませんが(笑)。
英語の成績は劇的に上がりました。偏差値30の金髪ギャルが1年間で偏差値を40上げて慶應義塾大学に合格したというノンフィクションが映画にもなりましたが、ボクだって偏差値30以下が倍の60になったんですから「ビリギャル」ならぬ「ビリボーイ」というわけです。翌年、東京学芸大に合格しました。それ以来N先生にはお会いしていませんが、ボクの恩師だと今でも思っています。
それにしても、あれほど英語ができなかったボクが後にアメリカの大学に留学するのだから、人生何が起きるかわからない(笑)。N先生が知ったら一番ビックリされるんじゃないかと思います。
♥センター試験の問題に泣く
1月のセンター試験の直前に悲しいことがありました。周治の父親が肺の病気で亡くなったんです。
ボクと周治とは中学以来、家族ぐるみの付き合いになっていました。ボクの父親も周治の父親も海が好きで一緒によく釣りにいっていましたし、ボクのことを周治の父親はいつも気にかけてくれていました。「お前は頭いいんだから大学行ってくれよ! オレの友達には大学出がいなくてな!」とよく励ましてもらったものです。
周治の父親の葬儀の1週間後がセンター試験でした。今でも覚えていますが、その年の国語問題は、敗戦直後、主人公の少年の父親が病気で弱って死んでゆく小説でした。これは辛かった。問題を解きながらこみ上げるものを抑えきれませんでした。(この作品は三木卓の芥川賞受賞作『鶸』だったと後で調べて分かりました。)
♣親友と別れてアメリカに
東京学芸大を卒業したボクは1999年8月、いろいろな縁があって米ボールステイト大学へ留学することになりました。
「アメリカにいる間、一度遊びに来いよ」とボクは周治に言いました。
「いやだよ。オレ飛行機嫌いなんだ。あんなものが飛ぶなんて信じられねえ」と周治。
「まあ、帰ってきたらまた会えるしな」
「だなッ」
軽い感じで別れましたが、その時「いつでも会える」と思ったのは大きな間違いでした。次に周治と再会したのは13年もたってからだったのです。
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