沼田 晶弘
第46回 はじめての教壇(5)
♣親友の写真をネットで発見
「周治さんの名前をこの間新聞広告で見ましたよ」
新年会の最中、高校の後輩からそんなことを聞いたのは2013年の正月でした。
ボクは1999年の米国留学以来、周治にまったく会っていませんでした。アメリカでの4年間はあっという間に過ぎ、帰国して周治の家に行ったら引っ越した後でした。ボクが渡米した時周治はケータイを持っていなかったし、パソコンも触れないような男だったのでメアド交換もしておらず、そうなると探しようがないのでした。その後ボクの家も引っ越したので、周治が訪ねてきてもやはり見つからなかったでしょう。
「周治に会いたいなあ」。2003年に帰国してから新年会のたびにボクはつぶやいていました。その後輩は一度周治に会ったことがあり、ボクが毎年言うものだから記憶に残っていたんでしょう。しかし彼が見た新聞広告は不動産会社のものだという。彼が就職したのはドラッグストアだったはず。同名異人かもしれません。
さっそくネット検索し、その不動産会社のホームページで周治の名前を見つけました。営業マンなので写真も付いている。かなりふくよかになっていましたが、周治に間違いありません。こんなところに手がかりがあったとは、何でもっと早く検索しなかったんだろう! しかしとにかく周治が見つかったんです。すぐにその不動産会社に電話しようとして、まだ正月休みなんだと気づきました。もどかしかった。
♠13年ぶりの再会
1月4日の仕事始めまでじりじりと待って、その不動産会社に電話しました。
「周治さんいらっしゃいますか?」
はい少々お待ち下さい、という取り次ぎの後に「お待たせしました」と懐かしい声が聞こえました。
「もしもーし、沼田でーす」
一瞬の間があって、
「申し訳ございません。どちらの沼田さんで?」
「S中の沼田でーす」
また少し間があって、おおおおー! という叫びが受話器から聞こえました。久しぶり! 懐かしいな! 声変わんないな!
さっそくメールアドレスを交換して電話を切ると、すぐにメールのやり取りが始まりました。しかし何しろ13年以上会ってなかったので妙にぎこちない。「飲みに行こう!」の直接的な一言がなかなか書けず、近々会いたいね、いつごろにしようか、という軽いジャブのようなやり取りをした後、その日はお互い空いていることがわかりました。
「じゃあ、今夜飲もう!」
♦たちまち友情が復活
周治はドラッグストアから不動産の営業に転職し元気にやっていました。この場に今から奥さんも呼ぶというのでボクは少しあわてて、
「待て待て、奥さんって、えーと......」
「お前も知ってるよ」と周治は笑いました。
奥さんとは、高校生の時ハンバーガーショップで一緒に勉強した彼女でした。男の子も一人いるとのこと。あのやんちゃだった周治が家庭を持ち、地に足をつけて生活していることがボクは本当にうれしかった。それ以来中学時代の友情がよみがえり、周治から真夜中に突然誘いの電話が来て、朝まで飲み明かすこともありました。
今思えば、もっとボクの方から誘って飲めばよかった。「これからいつでも会える」という安心感があったんですね。13年前と同じように。
♣突然かかってきた電話
その年の8月2日、ボクが居酒屋で雑誌編集者と飲み会を始めたばかりの時、携帯に周治の奥さんから留守電が入っているのに気づきました。
「周治のことで話したいことがあります。お電話ください」
その時ボクがとっさに思ったのは、あいつまた喧嘩でもしたのかな? ということでした。
折り返し奥さんに電話すると、「夫が自宅で倒れて救急車で運ばれました」と言う。
席に戻ると、ボクの前にさっき注文したビールが置かれました。ジョッキはキンキンに冷え、白い泡が縁からこぼれんばかりです。ボクはそれに手を付けずに立ち上がり、
「申し訳ありません。親友が倒れたので、ここで失礼させてください」
そのままタクシーで病院に向かいました。
♦頑張って生きてきたんだな
周治の意識はすでにありませんでした。倒れたのは前の晩、原因は脳溢血でした。
ボクは病院の親友のもとに毎日通い続けました。こんなにつるんだのは中学の時以来でした。あいつの顔をじっと見て、何かを伝えたような気もしますが覚えていません。不動産会社の同僚も見舞いに来て、「周治、起きてくれよぉ」と髪を撫でていました。ボクはその時しみじみ思った。やんちゃだった中学や高校時代、周治の髪なんか気軽に触ったらオソロシイことになるとみんな思っていたはず。しかしあれから10数年が過ぎ、周治はこれだけ同僚から慕われるような人間に変わったわけです。周治、頑張って生きてきたんだな。ボクは胸が熱くなりました。
周治が亡くなったのは8月9日の朝5時5分です。享年37歳。あと4日で誕生日でした。
■たった一人の親友が......
家族に付き添って徹夜で周治を看取った後、ボクは退院の手続きを手伝い、葬儀の日程調整を業者と行う奥さんをサポートしました。周治の家族を支えるためにできることは全部したかった。その時は動くのに懸命で、涙は出ませんでした。
すべてが終わって、午後一人で自宅に戻った時でした。
──たった一人の親友がいなくなった。
ボクははじめて号泣しました。泣いても泣いても涙が尽きることはありませんでした。泣き疲れて、朝までそのまま眠ってしまいました。
周治の分まで生きようとか、遺志を継ごうとか、そんなことはまったく思いませんでした。ただ思い出すのは、かつて中学でやらかしたハチャメチャな日々のこと。二人ともやんちゃだった。周りに迷惑もかけた。でも楽しかった。ひたすら楽しかった。
♥真夏に開くタイムカプセル
周治とボクの物語はこれでおしまいです。夏が来る度に周治を偲んで杯を捧げますが、ボクは彼の墓にお参りしたことがありません。13年もたって再会できたあいつなんだから、またどこかでひょっこり会えるような気がしてならないんです。
最初の質問に戻ります。
──ボクの教師としての原点は何だろう?
中学3年の秋。放課後のがらんとした教室。窓の外は夕暮れ。校庭から何かの部活の掛け声が響いてくる。ブレザーの制服を着たボクは板書をしている。それを熱心に見ている周治。ボクがはじめて立った教壇。
きっと、これがボクの原点です。ボクは最初から教師を目指していたわけじゃありません。でも、バカ話をしながら一緒に勉強した記憶、高校に合格した時の周治の笑顔、親友の役に立てたという喜びが、ボクを自然とこの道に進ませたんじゃないか。今振り返ってそう思います。
いなくなっても、やっぱり周治はマブダチです。彼との思い出がボクにとっての、いつでも開けられる永遠のタイムカプセルなんです。
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