異見交論

大学のいまを語り、未来を考えます。
異見交論43 国立大への税金投下に「正当性なし」冨山和彦氏(経営共創基盤 代表取締役CEO)(2018年4月 4日)

 法人化した国立大学への国からの運営費交付金は、総額約1兆1000億円にも達する。文部科学省の「内部組織」ではなく「自由に運営する」経営体であっても、運営に必要な最低限の額を保障することになっているからだ。これに対し、欧米の有力大学の経営に明るい冨山和彦・経営共創基盤代表取締役CEOは、血税に見合う成果を出せていないとして、「正当性はない」と言い切る。さらに返す刀で、国立大学への不満を漏らし続ける企業のありようも厳しく批判する。国立大学と企業は「どっちもどっち」、ともに「漫然」と現状維持を図っていると断じるのだが、さて。(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈、写真・秋山哲也)

 次回は財務省主計局次長・神田眞人氏


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■「簿記・会計」に立ち戻れ

――国立大学法人化をめぐって、京大と東大の学長が意見を異にしている。「失敗」とする山極・京都大学長に対し、五神・東京大学長は「必然だった」。大きな論点の一つが、86国立大学法人に、国が約1兆1000億円も出す正当性はあるのか、だ。

 

冨山 正当性はない。税金に見合う成果を回収できていないからだ。やっかいなのは、国立大学のあるべき姿のイメージをきちんと捉えていないことだ。オックスフォードやケンブリッジ、ハーバード、スタンフォード、マサチューセッツ工科大学と競い合う大学か、ローカルな世界で働く人の職能教育をする大学か。現状は、どっちつかずになっている。

 

――冨山さんは2014年、文科省有識者会議で大学の二分化を提案し、大学関係者の猛反発を受けた。グローバルで通用する高度なプロフェッショナル人材を養成する「G(グローバル)型大学」と、生産性向上に向けた働き手を育てる「L(ローカル)型大学」だ。これは国立大学でも当てはまるか。

 

冨山 税金でまかなわれている国立大学こそ、はっきりと二分化すべきだ。米国ですら、G型大学は10もない。日本でG型と呼べるのは、総合大学としては東京大学だけだ。京都大の一部や東工大などは、分野ごとにはG型だろう。日本の財政がこれほど悪化していなくても、86の国立大学に税金をばらまく合理性は、とうの昔に失われていた。

 近代国家の草創期、国立大学は「西洋文明の配電盤」としての機能を果たした。海外から入ってきた文明を国民に伝える機能だ。戦後も、再び海外の文明をキャッチアップするために国立大学は存在意義を持ったが、それもバブルの崩壊で終わった。もはや「配電」している場合ではない、こちらから世界に配電しなければいけない。それがG型大学の使命だ。にもかかわらず、中途半端な状況での漫然とした教育と研究がまかり通っている。

 

――「L型大学は、学問よりも実践力を」と主張し、「マイケル・ポーターよりも、簿記・会計」「シェークスピアより、観光業で必要となる英語を」と具体例を挙げていた。

 

冨山 L型は、福澤諭吉の「学問のすすめ」に立ち戻るべきだ。諭吉が簿記・会計を学べと書いていることを忘れていないか。実学こそ、教養だ。大学人はリベラルアーツの背景も意味も理解していない。

 

 

――ノブレスオブリージュ(高貴な者の義務)を背景にした教養とは違うのだと。

 

冨山 前提が全く違う。生と死を常に考えておかなければならない高貴な階級のための教養だ。東京大学の大教室で、400〜500人にシェークスピアを講義しても何の意味もない。リベラルアーツとは本質的には言語教育だ。考えるための言語を与えるものだ。立場、生きる世界によって、言語は異なる。最先端のAIを学ぶ人ならば、高度な統計数学を言語として持つ必要がある。一方、普通の会社で普通に働く人に高度な統計数学は関係ない。それより、簿記・会計の方が言語になる。「すぐに役立つもの」はすぐに陳腐化する、と大学人はさげすむ傾向があるが、簿記・会計は300年変わっていない。

 

――大学人は現実を見ていないといいたいのか。

 

冨山 そう、大学の「中途半端な人たち」は、全く見ていない。グローバルには全く通用しない人たちだ。GかLかと迫ったときに大学人が猛反発したのは、自分たちがどっちつかずだということを自覚していたからだ。世界で通用するトップレベルでもない、トップ学会で発表する常連でもない、論文が頻繁に引用されるわけでもない。かといって世の中で長期的に役立つような実学を授けることもできない。つまり、リアルな世界で戦えないから大学に残った人たちだからだ。そういう人が大学教員の7~8割を占めている。大学問題の本質は、社会的に存在意義を失っている教員の雇用問題だ。

 

 

■国立大学教員の7~8割は入れ替えろ

――なるほど。反発しているのは「中途半端な人たち」で、その人たちの雇用問題だというのか。国立大学でもそうだと考えるのか。

 

冨山 より顕著に問題になる。運営費交付金の半分以上が、まさにそこに使われている。だから税金を投入する正当性がないと言ったのだ。今後さらに問題になるのは、高等教育の無償化だろう。無償化して、さらに税金を使って教育をするのなら、国立大学教員の7~8割は入れ替えなければいけない。

 

――国立大学に、どのような成果を期待しているのか。

 

冨山 日本国民が豊かになること、幸せになること、それに貢献することだ。ところが実際は、4年間もレジャーランドで遊ばせているだけだ。日本の若者の学力のピークは19歳で、そこから4年間使って下がっていく。海外にこんなバカな大学はない。まともな計算能力があれば、19歳で就職するのと、そこから4年間勉強してから就職するのとどれだけ給料が違うかと考えるはずだ。米国の学生は自分が支払うから、自分の頭で計算する。欧州は国が学費を負担しているから国が計算する。北欧の大学は実学教育で、実社会で必要な資格や職務内容と直結している。実務的なことをクリアしないと卒業させない。まさに即戦力を育てている。

 

――卒業が資格と直結するのは、職務が限定されたジョブ型雇用だから成り立つが、日本は「社員」として雇われるメンバーシップ型だ。企業の採用と接続できるだろうか。

 

冨山 実際はもう変わってきている。たとえばパナソニックでも、従業員の3分の2は海外で、メンバーシップ型ではない。海外に人を送り込もうとすると、「その人は何ができるのか」と問われ、拒絶されるケースも出ている。コストを負担するのは現地法人だからだ。生産技術について、どこの大学でどんな教育を受け、どんな能力があるのか、質を保証する書類を送ってくれといわれて、同じ会社でも断わられることがある。彼らからすれば東大を出た人に来てほしいわけではなくて、現地で起きている問題を解決してくれる人かどうかしか関心がないのだ。漫然と「経理やりました」「営業やりました」「○○部長でした」なんて人は受け入れない。

 

――そういう能力を大学が育てるべきか。

 

冨山 自分たちが育てた学生の居場所がなくなりつつあるということを、大学は知らない。一方の企業も漫然とメンバーシップ型にすがりついてきた。幹部連中がメンバーシップ型のゲームしか経験していないからだ。ジョブ型にしたら、自己否定につながる。どっちもどっちだ。

 

――その企業と大学が、産学連携をする。

 

冨山 うまくいくわけがない。人材の流動性がない、事業や機能の入れ替えがない、終身年功制。日本以外で終身年功制なんてありえない。すごく特殊な仕組みなのだ。大学も企業も。その間でオープンイノベーションが進まないのは、当たり前ではある。

 米国では人が行ったり来たりするのは当たり前。博士号を持っている経営者がごろごろいる。インテルのアンドリュー・グローブもそう。欧米のエリートの世界では博士かダブルマスターも持たない人は、よほど勉強が嫌いか、頭が悪いかどちらかだと見られる。

 

――大学院重点化で、ポスドクやオーバードクターをとった人が大量に余った。企業がとらなかったからだと批判されている。

 

冨山 お互い様だ。大学の中で生き残るために博士の学位を取った人たちだからだ。本来は、世界のエリート社会で戦うための武器のようなもので、日本のような年功制組織では重宝されない。

 

――博士の学位取得自体がゴールの重点化だったから、大学院重点化は失敗したのだと。

 

冨山 そうだ。日本の企業に変われというぐらいなら、海外企業から金を引っ張ってくればいいではないか。何言ってやんでえ。京大が本当にトップアカデミアならば、どんどん出すはずだ。IBMだってどこだって。大したことやっていないか、あるいは言葉が通じないか、ちゃんと売り込みに行っていないか、どれかだろう。

 

――その中で始まっているのが、国立大学のアンブレラ※。どう見ているか。

 

※アンブレラ

一法人が複数大学を運営する。名古屋大学が岐阜大学などとの統合を検討している。

 

冨山 大事なのは救済型にしないことだ。何をアンブレラ化するか。G型大学なら、それ以外のものは必要ない。

 

――GかLか分かれたうえでアンブレラをするべきだと。

 

冨山 そうだ。

 

――税金はどう投下すべきか。

 

冨山 目的が明確だったら、どっちに持って行ってもいい。それぞれの目的に沿った成果が期待できるのならば・・・。漫然とどっちでもない大学に、金を使ってはいけない。企業内人材も二分化が進む。総合職でも、グローバルに活躍できるのはごく一握り。世界から人を集め、中途でも採用している。国籍もいろいろ。その中で勝ち残らなければいけない。今やニューヨークやロンドンなどは、エリートの行くところではない。成長市場ではないからだ。成長を求めるのなら、中国かインド、中南米、アフリカ。

 

――GかL、いずれで生き残るにも、お金がいる。だが、税金に依存する体質が強く、もうける仕組みも出来ていないから苦しい。東大の五神先生も指摘していた。

 

冨山 国立大学はそこを要求するべきだ。稼げない仕組みになっている、手枷足枷を外せと。稼ぐ力をつけるためには、二つの道しかない。大学が生み出してきた知財や技術を将来的に金にする。知財からグーグルのようなベンチャーが生まれて、株でもうけてしまうとか。もう一つは卒業生の何人かが大金持ちになって、寄付してもらう。スタンフォードのビジネススクールが昨年、25周年を迎え、1週間で25億円集まった。スケールが違う。

 

――金持ちになるだけの力をつけて出している、ということか。

 

冨山 そうだ。さらにそうして集めている金を運用するプロ組織もある。 法人化でその自由度を認めてこなかったことが中途半端につながった部分はある。

 稼ぐ力を考えるうえで大事なのは、社会科学や理系はリシャッフルが激しいということだ。ダイナミックに学部や学科の統廃合をしなければならない。場合によっては、ほかの大学の学部と一緒にした方がいいケースもでてくる。

 

 

■企業も大学もトップは「なれのはて」

――そうなると、学長の権限の問題が出てくる。国は2015年、学長のリーダーシップ強化を狙い、国立大学法人法と学校教育法の一部改正をして、副学長の職務を明確にし、教授会の権限を限定した。

 

冨山 それだけでは十分ではない。いまだに学長や学部長を選挙で選ぶ国立大学が多い。任期は長くても6年。どうして労働組合の投票で学長を選ぶのか。それで改革が進むわけがない。企業ならば、倒産する。しかも、学長にしても、学部長にしても、大概は大学教員の「なれの果て」。 日本以外では、学長、学部長になる人は、マネジメントラインで訓練を受けている。本人が教育・研究か経営かのどちらかを選択する。

 日本では、大学も企業も、経営のプロを育成していない。企業経営者も社員の「なれの果て」。CFO(最高財務責任者)は、経理畑の社員の「なれの果て」。経理課長、経理部長、経理担当取締役、常務、専務でCFOになっているから、自分の会社のことしかわからない。CFOとしては素人だ。

 

――国内にプロがいないから、海外から呼ぼうにも来ない。2014年、京都大学の学長選考会議が国際公募したが、たった一人しかいなかった。

 

冨山 来るわけがない。権限が小さく、任期も短い。海外では、公募ではなくサーチをする。自薦他薦で候補者リストを作り、専門のサーチ会社を使い、絞り込んでいく。

 日本のように任期が6年ぐらいだと、権力掌握で最初の2年を使い、最後の2年間はレームダック(死に体)。真ん中の2年しか本当の仕事ができない。ガバナンス改革の本質は、トップの選任だ。企業もそう。選任の仕方を変えていかないと、経営を変えられない。

 

――今、国公私をグループ化し、一体的に運営する大学再編制度※も検討されている。

 

※大学再編制度

文科省が示している新制度。国公私立にかかわりなく、新法人を設立し、一体的に運営する。

 

冨山 中途半端な国立大学から金を引き上げて、まじめにLに徹する私立大学に配ればいい。ただし、私学も中途半端が多い。設置形態はどうでもいい。大学として機能してくれるかどうかが大切だ。とりわけ無償化するのなら、GかLかはっきりしないと、税金の無駄遣いだ。4年間遊ばせるために税金を出しても意味がない。

経済人と大学について議論をすると、いつもこの二つが出てくる。「自分は若い頃、勉強しなかったか」を自慢し、一方では「最近の学生は勉強しない」と矛盾したことをいう。

 

――日本の将来をどうみているか。

 

冨山 明るいと思う。「のびしろ」がある。大学がこれだけ機能していなくて、企業も中途半端でバカばっかりやっているが、GDPが世界で3位だ。

 30年前、日本の勤労者世帯の年収は500万円あった。あの頃、肩を並べていたドイツや北欧などは、今や700〜800万円になり、逆に日本は300万円に落ち込んでいる。どうやったらこれだけ差がつくのか。GDPをみると、米国は当時の3倍、ドイツは2倍、日本は1.1倍。意図的にバカをしたのでなければ説明がつかない。

 鉄鋼や自動車は基幹産業として国内に工場を作って輸出しないと豊かにならない、と言っているバカが日本にはたくさんいる。新興国は日本の賃金の何10分の1で作る。そこと競争しようと思ったら、賃金を下げざるをえない。歯を食いしばって競争しても、豊かになるわけがない。賃金を下げざるをえないから。

 日本の子どもたちの学力は高い、大学入学までは。しかもその学生たちは卒業後、Gになりきれない中途半端な大企業に入社した途端、腐っていく。年功型組織に入って、ろくな仕事もしない。終身年功制は本当に悪。見直すべきだ。

 

――G大学とL大学に分けると、格差を固定する、と批判する声もあった。

 

冨山 結局、アカデミアの連中こそが、L型の生き方を見下ろしている。物流や医療、介護、運輸、エネルギー、小売など、ローカルな世界で誠実に生きている人たちの生活にきちんと目を向けていない。大半の人がローカルな経済圏に生きているのだから、その人たちの生産性をどう上げるか、賃金を上げるか、そこに教育はどう貢献できるかを考えろ、と言っているのだ。L型大学にちゃんとしてもらうことが、日本の将来を決定する。にも関わらず、L型大学が「グローバル人材の育成」なんて幻想を抱いているから、おかしなことになる。国際会議で丁々発止のやり取りができる英語よりは、海外からの観光客に楽しんでもらうための対話力や説明力の方が大事なのだ。

 


ひとこと

 目の前にいる学生は卒業後、どんな社会で生きていくか。そこから逆算した教育を――GかLかという二者択一は一見極端だが、煎じ詰めれば至極まっとうだろう。

 いま、国立大学は「3分類」されている。「地域のニーズにこたえる人材育成・研究」「分野ごとのすぐれた教育研究」「世界トップ大学と伍した教育研究」のいずれかで存在意義を明確にしていこうという政策で、いずれを選ぶかは大学に任された。その上でどれだけ力を発揮しているかの結果を見て、予算配分する仕組みだ。「中途半端」をなくそうという趣旨は理解できるが、現状は......。それでも日本の未来は明るいという冨山さんの言葉に救われる。「のびしろ」、いい響きだ。(奈)

 


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