51. 伝える気持ち 伝わる想い
早稲田大学1年 朴珠嬉(ぱく・じゅひ)
毎秒ごとに波打つ深い青のうえに、陽の反射がぷかぷかと、沈んでは現れ、また沈んだ。見上げると、真っ白な雲が空をどっしりと支えている。歩を進めて見つけた気の早い桜は5分咲き、といったところだろうか。蕾はまだその身を隠していた。
こんなにも日常が美しいと思ったことは、生きてきた中でおそらくない。ありきたりだった風景も、のぞき窓を通して見るとすべてが色鮮やかで、いきいきとしていた。それを、夢中で機械に収める。目を外したときに、この瞬間がふっと、逃げてしまわないように。カメラを構え、焦点を合わせる。ぼんやりとした対象を、ダイヤルを回しながら鮮明にしていく。人差し指に力をいれて数秒後。何とも言えない多幸感に包まれる。覗く、押す、のぞく、おす...
3月初旬、私は一眼レフのカメラを購入した。アルバイト代2、3か月分に匹敵する値段だが、後悔はしていない。出会いは、去年の秋のことだった。
インスタグラムで偶然見つけた、普通の街並みの写真。撮影者は長年写真を撮影している、一般人の方だった。その1枚を見て、何か心が強く打たれたようだった。一見するとただの街並み。しかし、写真の側から自分の心に直接、語りかけてくるような感覚になった。写真に収められた車も人も木も、ひとつひとつが誇らしげに輝いている。1枚を構成する存在がひとつでも欠けてしまえば、たちまち成り立たなくなってしまう、そう思った。また、煙がかったような少しくすんだ色合いに、余計私は惹かれた。
この写真を見るまで、私はスマホで簡単に撮れるような、いわゆる「映える」写真しか撮れなかったと思う。何が違うのだろう。シャッターを切りながら、その理由を考えてみた。画質や性能の問題だろうか? おそらく違う。なぜなら、あの写真を見たときはグッと、心に直接刺さってくるようなものがあったし、それは画質などによるものではないと直感的に感じたからだ。
一眼レフで撮る写真と、スマホで気軽に撮れる写真との違い、それは「自分の思いを伝えたい」と思う意志の問題ではないかと、ふと考えた。私の場合、一眼レフで撮る際には自分の感動を「伝えたい」と思う気持ちが強くなる。対照的に、スマホでとる写真は、「残す」ことにその目的があると感じた。撮った人の感動や思いをより強く伝えられる手助けをするもの、それが一眼レフなのではないかと思う。
写真を通じて新たに発見した「伝える」ということを、また違う視点で捉えるきっかけになった経験がある。それは、所属している雑誌編集のサークルでのことだ。サークルでは毎年、科目情報やサークル情報、ゼミ情報などをまとめた早大生のための総合誌を発行している。私も、去年はこの雑誌のいち読者だった。この雑誌を読み、ぜひ自身も制作に携わってみたいと思い入会届を出したのだった。
今年の2月。私の部屋では朝から晩までカタカタとキーボードを押す音だけが聞こえていた。どのような表現を使えば相手に分かりやすく、かつ正確に伝わるのか。ただひたすら考え抜いた制作期間だった。
「伝えるって、こんなに難しいのか」。再提出をする度にびっしりと書き込まれる校正を見て、何度もそう思った。去年まで読者だった自身が雑誌を作る側に回ったことで、その難しさを身に染みて実感した。
「自分」の感動を伝える写真と、「相手」に正確に伝える雑誌。一見、重なるところがほとんどないように思えるこの2つ。実は当てられた焦点が違うだけで、同じものではないかと思った。
伝えることは、それを発信する側がいなければ成り立たない。同時に、発信されるものを受け取る側がいてこそ初めて、伝える意義や価値が存在するのだと思う。自分がどう伝えるかを意識した写真と、相手にどう伝わるかを考え抜いた雑誌。2つの経験を通じ、「伝える」ことは一方通行ではないと知った。
個人が自分の思ったことを自由に発信できる時代。だからこそ、自分がどう伝えるか、また相手にどう伝わるか、両方に意識を巡らす必要があると思う。相手に正確に伝わってこそ伝える意味が生まれ、また自分が伝える意味も生じるからだ。
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