「高大接続」という言葉が独り歩きしている。目まぐるしく変わる世界で、私たちの子どもはどんな力を求められるのか、それにふさわしい教育を創っていこう。そんな思いで始めた改革だったが、その方向に進んでいるのだろうか。議論を進めてきた責任者の一人として、改革に込めた思いを語りたい――中央教育審議会会長として改革を世に送り出した安西祐一郎氏が語り始めた。
第1、3金曜日掲載(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈)
[vol.13] 家庭の事情で進学をあきらめなくてもよい社会
高校と大学の教育、その間に横たわる入試を抜本的に見直す「高大接続改革」。中央教育審議会がその方針を打ち出したのは、もう2年も前の2014年12月だった。だが、今でも、当時会長だった私にこんな質問がぶつけられる。
「なぜいま『高大接続改革』なのか?」
現状でうまくいっているのに。どこに問題があるのか。面倒な制度いじりはやめてくれないか・・・・・・。「ぼやき」ともとれるそうした質問には、必ずこう答えている。
生まれ、育った環境にかかわらず、自分で何かをつかんでいこうとする力を支えたい、学びたいと努力する子が報われるようにしたい、と。親の所得など自力では何ともならないことで、次世代を担う人が幸せをつかみ損なわない社会を実現したいのだ。
中教審が答申を出した翌月の2015年1月29日、私は読売新聞「論点」に以下のような意見を寄せた。
昨年末に発表した中央教育審議会の答申は、従来の大学入試改革とは次元が異なる内容である。高校と大学教育のあり方、両者をつなぐ大学入学者選抜の一体的改革を求めた。
答申の柱は
〈1〉高校・大学教育の見直し
〈2〉個別大学の入学者選抜での多角的評価
〈3〉高校段階の基礎学力を評価する「高等学校基礎学力テスト」(仮称)の新設
〈4〉現行の大学入試センター試験の廃止と「大学入学希望者学力評価テスト」(同)の新設
――からなる。
目指すのは、知識・技能と思考力・判断力・表現力を蓄え主体的に多様な人々と協働できる「真の学力」の育成だ。グローバル化・多極化した世界、地方の活性化が急務の日本で若者が幸せに生きる上で、これが不可欠の力だと思う。
日本ではこれまでも学力の育成に取り組んできた。だが、小中学校教育の充実が高校や大学につながっていない。一つの要因は、18歳人口の減少と大学進学率の急上昇にあった。
生徒の獲得競争を有利に進めるため、教育目標を進学実績の向上に置く高校が増え、難関大合格を目指して知識・技能を重視する進学校がある。一方で大学が多様な選抜方法を設けて定員確保に乗り出し、勉強したこともないような生徒を進学させる高校が現れた。
その結果、高校教育の中身に格差が生じた。大学は、知識の伝達に終始する受動的な授業が多く、学生が自ら学ぶ場とはなっていない。これでは小中学校教育の充実が生きてこない。
この現状を改善するために構想した「高校テスト」は、知識・技能の着実な習得に重きを置く。基礎から応用まで幅広い難易度の問題を用意し、生徒は複数回受けることで、自分で学習の進み具合を確認できるようになる。教師も指導改善に生かせる。
他方、「大学テスト」の構想は、従来の入試を「大学教育を受けるために必要な能力が備わっているかを確認するテスト」に変えるものだ。複数教科を合わせた合教科型の試験問題も作り、知識・技能とともに思考力・判断力・表現力を測る。例えば、長文の日本語論説文の要約を250ワードで英訳せよ、という問題にすれば、日本語の力と英語の知識が問える。
各大学はどんな学生を求めるかを具体的に示し、主体性や協働性を問う多角的評価による選抜をしてほしい。入学後は、学生が自ら課題を設け、多様な人と議論して解決していく能動的な学びを促す必要がある。
改革に向けて課題は山積している。だが、少子化とグローバル化が進む中、次世代を育成する教育改革は待ったなしである。
答申をまとめるに当たって常に念頭に置いていたのは、高校卒業後に就職する生徒のことだ。経済的事情で進学を断念する若者が大勢いる。社会に出て主体性や協働性を磨いた若者に進学の道を開くことも「大学テスト」で可能になる。それこそ、一人ひとりの子どもを大切に育てる教育の原点だと思っている。(聞き手・松本美奈)
答申に至るまでの中教審の議論は2年にわたり、その間、意見がぶつかり合い、暗礁に乗り上げかかったことも数知れずあった。答申が出て2年後の今も、盤石の態勢で進んでいるとは決していえないが、理念は少しも揺るがない。中でも力を入れているのは、前掲の文末で書いた若者のことだ。「経済的事情で進学を断念する若者」に何とか報いることができるシステムを構築しなければならないと考える。
改めて、冒頭の質問に戻る。「うまくいっている」ように見えているかも知れないが、本当にそうだろうか。
日本の教育システムは、その時代の仕組みにとって「適当」とされるように構築されてきた。だが、いまの教育システムは、「適当」ではない。社会が大きく変わってしまったからだ。
まず、日本の若年人口が急速に減り、18歳人口はいまや120万人を切った。半世紀前(1966年=249万人)の半分以下だ。規格に沿った商品を大量に生産し、大量に消費する時代を背景に行われていた、1教室に40人以上がすし詰めになっていた時代と変わらない教育で果たして対応できるのか。
子ども一人ひとりが自分の頭で考え、判断し、行動できることの重要さは、以前とは比べられないほどふくらんでいる。世界の覇権争いは熾烈を極めており、いつどこから侵略されるかわからない。たとえばトランプ大統領を選出したアメリカ。EUとイギリスの関係。領土問題など多くの課題を抱える中国やロシアとの関係、ミサイル発射実験を繰り返す北朝鮮・・・・・・。対日本だけでなく、これらの国同士も緊張をはらんでいる。今後どうなっていくか予断を許さない。
国内に目を転じても、たとえば2030年の社会がどうなっているか予断を許さない。在宅医療や介護、年金の問題、1億総活躍社会を実現するための子育て支援の施策・・・・・・。働ける若い人口がどんどん減っていく中、どうしたらいいのか、何ができるのか。
その中で不可欠なのは、自分で考えて行動できる力の養成だ。それには、新しい時代を生き抜ける人を育てる教育が必要になる。自分の能力を発揮して、他者に貢献していく、そういう人が育つ学びの場が必要になる。
邪魔をしているのは、かつての「成功体験」だとにらんでいる。冷戦が終わり、アメリカの「傘」の下で経済が成長を遂げた時代は、それに合わせた教育の仕組みを運営していればよかった。お父さんは夜中まで会社で「モーレツ社員」として働く。お母さんは夜遅くまで家でお父さんを待ちながら、子どもには「勉強しないと、お父さんみたいになっちゃうよ」と叱咤し、少しでも「いい大学」に進学させようとする。子どもは親の言うなりに夜遅くまで塾で、先生の指示に従って問題集に向かい、「正解」をできるだけ速く見つける訓練に励む。
色々な弊害も出たが、少なくとも1990年代の初めまではそれでも何となくおさまっていた。
一方で、18歳人口が減り続けたにもかかわらず、大学の数は増えた。入学定員は、かつて18歳人口が多かった時代のまま、高止まり。だから、本来ならば望む大学に入りやすくなるはずだった。自分の行きたい大学、好きな道を究めるための大学を選べばいい時代が到来するはずだった。ところが、かえって偏差値で大学を選ぶ傾向が強化されてしまった。親や高校の教員が、「成功体験」を支えた「偏差値信仰」から離れられないからだ。企業も、社員の採用基準として、大学の「偏差値」を見る傾向が増していった。それは、学生の大学入学時の「学力の一断面」に過ぎないのだが、新入社員の質が今一つでも企業が傾くことのなかった高度経済成長時代には、偏差値は、採用担当者が採用に失敗した際の責任を問われずに済む、そして採用コストも安く済む、格好のものさしだった。こうしたことのすべてを、教育産業があおり立ててきた。
社会の流れが変わっているにもかかわらず、大人たちが顔をそむけ、従来と同じ価値観で行動してきた。その結果が「今」ではないだろうか。
自分で自分を磨いていく時代がきたことを直視しよう。家庭の事情で進学をあきらめなくてもいい時代だ。高大接続改革はその時代を開く一里塚に過ぎない。本当のヤマはこれからだ。