2045年の学力(14)「記述式」で実現したい「考える楽しさ」

試験に挑む受験生たち

 「高大接続」という言葉が独り歩きしている。目まぐるしく変わる世界で、私たちの子どもはどんな力を求められるのか、それにふさわしい教育を創っていこう。そんな思いで始めた改革だったが、その方向に進んでいるのだろうか。議論を進めてきた責任者の一人として、改革に込めた思いを語りたい――中央教育審議会会長として改革を世に送り出した安西祐一郎氏が語り始めた。

第1、3金曜日掲載(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈)

 

[vol.14]「記述式」で実現したい「考える楽しさ」


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 「高大接続改革」全体で実現したいのは、家庭の事情で進学をあきらめなくていい社会だ。学びへの志、基礎的な知識・技能、思考力、判断力、表現力があれば誰でも大学の門を叩くことができる。高校を卒業後、就職してからでも学ぶことができる、社会に開かれた学びの場だ。いま、働き方も大きな曲がり角にきている。経済界の人たちと話していると、従来の採用・育成の仕方ではダメと認識している企業も少しずつだが増えており、働き方と学び方が一本の縄のようにあざなって未来につながっていけば、と願っている。

 その改革の肝となるのが、大学入試センター試験に替わる新テストだ。いくつかの選択肢の中から「正解」を見つけ出し、解答欄にある楕円形を塗りつぶすマークシート式一色の試験に、自分の頭を使って考え、自分の言葉でつづる「記述式」が導入される。つまり、「作業」から、自分の頭を使う「思考」にスイッチを切り替えるのだ。さらにいうなら、受け身の勉強から自ら学ぶ、に挑戦してもらうといってもいいだろう。要は、「考える楽しさ」を若い世代に知ってほしいのだ。

 その思いを、2016年1月6日付の読売新聞朝刊に寄せた。

 

「考える楽しさ」大学入試改革

 大学入試センター試験に代わり2020年度から導入を予定している「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の記述式問題のイメージを昨年末に公開した。対象科目や実施・採点方法、コストについても関係者と話し合いつつ、3月に最終報告を出す予定だ。

 今回公開した問題は、国語・数学・英語の3教科で、どれも統合的な思考・判断・表現力を問うものである。記述式問題の特徴は、考えることや表現することの「楽しさ」を知っている受験者ほど挑戦しやすい点だ。答えの選択肢が並んだテストとは決定的に違う。

 例えば国語に、公立図書館の現状と課題を記した新聞記事の問題がある。1400字の記事を読み、

 (1)今後の公立図書館の役割は何か

 (2)自分が図書館員なら(1)の解答を実現するためにどんな企画をするか

――について、2段落構成の300字以内、引用に「 」をつけて記述するよう求めている。数学では図を描いたりして式を立てること、英語では<書く・話す>を通して自分の考えを英文で表現することを求めている。

 今、求められているのは、正解のない問いに向き合う力である。そのためには良い文章を読み、考え、書く経験を積むことが大事だ。

 社会現象を広く扱う新聞記事は格好の教材になる。読んで知識を蓄え、考えを養うと同時に、社会の一員としての自覚も鍛えることができる。

 現行の大学入試センター試験は、文章の読み取りや計算などが中心で、一つしかない答えを選ぶテストだ。点数で差をつけるのが目的であれば当然だが、効率よく正答することが最も大事という誤った意識を植え付けかねない。

 センター試験の問題を高校生がどんな思考方法で解くか調べてみると、国語の長文問題では成績上位層ほど設問を先に読んで小問をこなし、最後まで読み通していない、という傾向があるようだ。

 成績が優秀でも、正解のない問題に取り組むことが苦手な大学生や高校生は少なくない。深く考えることに背を向ける若者のありようは、答えの候補が与えられた小問を効率よく解くことで点数を積み重ね、一発試験で人生が決まるような現状の反映ではないか。考えなくても世を渡っていけることを国の試験がメッセージとして発信する時代は、過去のものとなりつつある。

 正解のない問いに立ち向かう場、それが社会だ。急速なグローバル化が、その問いをさらに複雑にしている。だからこそ考えてほしい。知識を身につけ、考え、表現することは、人生の選択肢を広げ、豊かにする。記述式問題は、そのことを伝える大切な役割を担っている。

 もちろんテストだけで実現できるものではない。高校・大学の教育を改めなくてはならない。

 未来に生きる子どもたちには幸せになってほしい。そのために考える楽しさ、表現する楽しさを伝えたい。大人もまた、考える楽しさを知ってほしい。(聞き手・専門委員 松本美奈)

 

 理念には、多くの人が納得してくれる。だが、そこに至る道で「厄介」な手続きや作業が生じ、さらに負担が伴うとなると、とたんに態度が硬直することがある。新テストへの記述式導入は、その典型例だろう。

 たとえば、ある大学人が日本経済新聞紙上(2017年2月6日付)にこの「記述式」への反論を寄せていた。「改革の趣旨そのものは理解できる」と前置きしながらも、数十万人規模で受験する共通テストで記述式の答案を丁寧に採点し、公平性を保つのは難しいと指摘する。そのうえで、「それぞれの大学の個別試験では、国語等の科目において記述式を必ず出題することを義務付ける」と提案していた。

 

 私は目を疑った。大学の個別試験に国が記述式を「義務付け」? 個別試験は、「大学の自治」の根幹にかかわるものだ。どのような人を学生として、学ぶ仲間として受け入れるか、それを決める重要な役割を持つ。わが大学ではこうした学びができる。だからこういう力を持っていてほしい、と受験生に伝えるために不可欠なメッセージボードでもある。それを自ら踏みにじるようなことを、大学人が提案していいのだろうか。

 その考えに立ち、私たちは、入試改革という日本の大学にとって極めてナイーブな議論をする際、個別試験は各大学が真に考えるべきこととみなし、一貫して踏み込むことを避けてきた。センター試験に替わる新テストに記述式を持ち込むのは技術的に無理、だから個別でと、代わりに差し出せるほど軽いものでは決してないはずだ。

 

 一方で、大学入試と一口でいっても、内実はさまざま。1点刻みで当落を判別する類の入試もあれば、規定の入学者数を確保するため、名前を書けば入学できる入試さえある。それほど多様化した入試を改革することに何の意味があるのか、という反論もあるかも知れない。

 だが、だからこそ必要なのだと言おう。内容のばらつきが大きい個別試験ではなく、数十万人が一斉に受ける国の大学入試センター試験を変えることが大切なのだ。どんなに困難が待ち受けていようが、正解が一つに決まった選択肢ではなく、自分の頭を使って書くことを求める問題を出す。考えを問う。それは、日本が国として教育への姿勢を示すことだ。「正しい答えが1つしかない問題」ではない、自ら問いを立て、考え、表現する力を育てていくという姿勢を。

 

 時代の変化が速い、しかも加速している、とこれまで繰り返してきた。だが、本当にそうだろうかと首をかしげている。

 1971年(昭和46年)の中央教育審議会答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的政策について」(いわゆる四六答申)は、「入試」の公共性についてこう明記した。

 「入学者選抜制度は、単に各学校がその方針にもとづいて入学者を選定する一般的な手続きであるばかりでなく、教育の過程にある青少年が、学校段階のくぎりをもっとも適切に移行できるようにする、広義の教育制度とみるべきものである。(略)各学校だけの都合によって運用されるべきものではなく、その公共性が重視されなければならない」

 それからもう半世紀近くが過ぎている。

 ペリーが黒船に乗って浦賀に来航したのは、1853年。明治維新(1868年)までわずか15年の間に、日本は劇的な変化を遂げた。安政の大獄や桜田門外の変などの事件だけでなく、大地震やコレラの大流行という災厄にも見舞われている。しかも当時は、メールどころか電話もない。郵便事情も相当悪かった。ろくにお互いの連絡も出来ないような時代に、それでも「日本を何とかしなければいけない」という思いで、大改革を進めていたのだ。

 それに比べて、ここ数十年をどう評価したらいいのだろう。変化の足元を縛っているのは、何だろう。

>>[vol.15] 心のスイッチを切り替える 


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(2017年4月21日 10:00)
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