[65]学ぶだけの場所でなく
「あけましておめでとうございます」 東京都内の自宅に親戚が集まって、早めの夕食を兼ねた新年会を始めた頃、突然大きな揺れが起きた。 「令和6年能登半島地震」は、その時、襲ってきた。
大きな災害が起きると、学校は避難所となって開放される。学校職員も避難所の運営を手伝うことになる。わたしも、管理職として2度避難所運営に携わったことがあった。
1度目は、東日本大震災のとき、帰宅困難者の受け入れを行った。あの日の揺れは激しかった。「地震です。これは訓練ではありません」と、マイクを握って校内放送をしながら、身体を壁で支えたことを覚えている。周囲の住民や子どもたちで校庭はあっという間に埋まった。寒い日だった。揺れが収まった頃合いに、体育館に避難してきた人たちを入れた。JRの駅に近い学校だったため、帰宅が困難となった人たちと保護者を待つ子どもたちでいっぱいになった。それから翌日の夕方まで一昼夜、寝る間もなく毛布や防災食の配布、帰れない子どものケアに追われた。乳児が高熱を出し、病院を探してなんとか搬送できたときは心底ほっとした。
2度目は、近くの川が氾濫しそうだということで、住人が避難してきたときのことだ。浸水が予想されたので、体育館でなく2階以上の各教室を開放した。時間的な余裕もあったので、ペットの数が多く、その場所を確保したり、各教室が次の日から使えるようにしたりなど注意を払った。
学校は、子どもたちの教育や成長を支える場だけでなく、災害時には避難してきた人たちを助ける場所でもあることを忘れてはいけない。 今回の災害報道を追いながら自分自身の記憶をたどり、学校という場所の存在の大切さを改めて思う。避難されている皆様のご健康を祈りながら。
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田中孝宏 読売新聞教育ネットワーク・アドバイザー
1960年千葉県船橋市生まれ。元小学校長。「ブラタモリ」にならって「ぶらタナカ」を続けている。職場の仲間や友人を誘って東京近郊の歴史ある地域を歩く。「人々はなぜ、この場所に住むようになったのだろう」と考えると、興味は尽きない。