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じぶんごとからはじめよう®

木が生きる歳月《記者のじぶんごと》

31.


 花が咲き、木々が芽吹く季節、いつにもまして天気が気になる方々も多いことだろう。

 年明けに催事で東京・文京シビックホールに入場した際、木製のフック付きマグネットをもらった。大きさは縦5.5センチ、横2センチ。開封時にスギの香りがした。ホールは2021年4月から改修工事が行われ、1月にリニューアルオープンした。マグネットは改修前に舞台で使われていた平台から1万個作られたという。平台としての役目を終えた木材が、わが家の冷蔵庫扉で輪ゴムかけとなった。説明書きに色や木目の形はひとつずつ異なるとあった。

 

 木材はひとつとして同じものがなく建材にむかないクセが見つかることもある。そういう部分も含めて日本人にあった椅子にしたのが、建築家で東京芸術大学名誉教授の故奥村昭雄さんだった。木製椅子の作品展を前に話を聞いた。1990年のことだ。

 考えてみれば当たり前だが、木材は木から生まれ、木は日当たりや環境、生長の時期などによって年輪の幅やしなやかさが違ってくる。長野県木曽郡の仕事場近くで切り倒された1本のヒノキがきっかけとなり、奥村さんは建材に向かない枝を譲り受けて家具作りを始めた。背もたれや脚、座る部分と脚とのつなぎ目など、椅子の機能に合わせて工夫して木材を組み合わせる。くぎを使わない昔ながらの技法だ。奥村さんは「丸太から買って、それがどんな場所でどう育ったかを思いながら、一つひとつ作りました」と語った。

 仕事場にはその工夫を裏付けるミニチュアの椅子や資料がそこここにあった。ナラやクリで作られた椅子は座り心地が極上で、そして無垢(むく)な木材は美しかった。

 

 比類ない大ケヤキのことを社会面の記事にしたのは、1996年だった。吉野川の最上流、奈良県川上村にある丹生(にう)川上神社の神木だった。神社は天武天皇が675年に開いたとされる。木は南北朝時代の終わり頃に境内で芽吹いた。一帯は吉野杉の産地でもあり、環境として申し分なかったのだろう。500年を経て高さ50メートル近くに育った。そうした樹齢なら鳥の巣やウロなどがあっても不思議はないが、そういうところがなく枝の先まで勢いがみなぎっていたという。岐阜の銘木業者はひと目で魅せられたが、神社からは「命ある木にオノを入れるのはまかりならぬ」と断られた。

 それから10年以上たった1986年暮れ、大ケヤキは直径2メートル、長さ12メートル、20トンの丸太になった。ダム建設で神社の移転が決まって売り出され、岐阜の銘木業者が同業2社と「億に近い価格」で落札した。伐採時に宮司は<風雪に耐えたケヤキが世の中で500年以上生きてもらいたい>と祝詞を読み上げた。

 丸太のままでは木目などはわからない。だが、丸太の段階で刺し身のトロにも相当する、木の最もいい所が「この辺りで庭付きの家が三軒は買える」(銘木業者)ほどの価格で譲渡された。購入したのは、巨木をなるべく原形のままで大テーブルにしたいと何年も木を探していた男性だった。男性は「譲ってほしい」と何度も足を運んでいた。

 丸太は木びき職人2人が丸太をはさんで向かいあい、刃渡り1メートル近いのこぎりで水平に切った。確認しながらの作業はひと月かかった。そのままでも500年はもつが、1000年もってほしい。男性はそう考えて4年迷った末、京都の木芸家に漆を依頼した。縦8.5メートル、横2メートル、厚さ45センチあり、重さは3トン近い。木芸家は専用アトリエを作ってほぼ2年、そこに寝泊まりして完成させた。

 丹生川上神社は取材の2年後に遷座し、ダムは2013年に完成した。よい木は数センチ、数ミリ単位で切り刻まれて取引されることも多いという。銘木業者、木芸家、購入者...いずれも木を扱うプロだった。そのプロたちが口々に大ケヤキが唯一無比であることを語り、自然が生んだ宝を残したいと考えていた。銘木業者は「最善の形で木を残せた。そういう人を木が呼び寄せたとしか思えない」と語った。私は水没を免れたケヤキのことを知ってから何年もどうなったのか気になっていた。ほどなくして担当が変わり、木の関係者を訪ねて歩く時間はとれなくなった。私も大ケヤキに呼ばれたのではないかと思っている。

(笠間 亜紀子


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(2023年3月27日 16:31)
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