マタギが守った朝日連峰のブナ林《記者のじぶんごと》

大きく枝を広げた朝日連峰のブナ(宮沢輝夫撮影)

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 ブナ林というと、青森・秋田にある白神山地のブナ原生林が有名だが、新潟・山形にまたがる朝日連峰にも見事なブナ林がある。初任地の山形支局にいた時に山形県側のふもと西川町大井沢から登って堪能したことがある。ブナを見るために山に登る一般向けイベントで、1986年の新緑の季節だった。

 その案内役が伝説のマタギといわれた志田忠儀さんだった。

 志田さんは2016年に100歳で亡くなったが、98歳の時に書いた著書「山人として生きる 8歳で山に入り、100歳で天命を全うした伝説の猟師の知恵」(KADOKAWA/角川文庫)によると、70年もの間、自然と共生しながら暮らした。磐梯朝日国立公園の初代管理人を30年以上務め、遭難救助のエキスパートでもあった。マタギとしては1200頭に遭遇し、仕留めたクマは50頭以上という。志田さんは当時70歳で、長靴にズボンの裾を入れた姿はどこにでもいそうなおじいさん然としていた。

 

『山人として生きる 8歳で山に入り、100歳で天命を全うした伝説の猟師の知恵』志田 忠儀 KADOKAWA/角川文庫

 

 私は志田さんがどういう人かを知らず、マタギと聞いても理解が追いついていなかった。ところが、登り始めた途端、ただならぬ人だと悟った。志田さんはゴム長で急峻(きゅうしゅん)な山道を階段のように労なく登り、程よいところで私たちが追いつくのを待っている。全員登り終えると、再び軽々と登っていくのだ。息を乱さず登る姿はニホンカモシカのようだった。当時は私も健脚と身の軽さに自信があったが、次元が違った。

 案内されたのは、ブナを五感で体感できる場所だった。足元はコケなどでふわふわと軟らかく、一足ごとに体重で靴全体が沈んだ。見上げれば、陽光が葉裏に透けて見えた。地面では木漏れ日が色の濃淡を作り、風で動いた。

 志田さんはその場でブナ林のことを説いた。ブナの大樹の下でさまざまな命が育まれ、それが山全体の生態系に大きな影響を与えていること、ブナ伐採が進んだときに皆伐に異を唱えたことなど。ブナ林は、志田さんが「朝日連峰のブナ等の原生林を守る会」会長として10年以上かけて守ったものだった。私たちはふもとに下りて志田さんの営む民宿でクマ鍋を食べた。

 

 

 志田さんの山や動植物などに関する造詣は無尽蔵で、私はその後も山の恵みや自然とのつきあい方などを教わった。春には山菜、秋にはアケビやキノコ。いまでは当たり前に流通するそれらも志田さんには自生を見守り、採るべきときに必要分だけ採るものだった。

 教わった食材のうち忘れがたいのがキブノリだ。ブナの古木に生えるコケの一種で、ブナの大樹の20~30mの高さで風雪に耐えて10年単位で育ち、仙人の食べるカスミともいわれるという。そんなものをどうやって?と尋ねると、柔らかい笑顔を浮かべて冬の晴れた日に採りに行くと教えてくれた。

 朝日連峰は日本有数の豪雪地帯だ。雪が積もれば高いところのものが採れるようになる。山を庭がわりとする志田さんだから採取できたのだろう。

 

山形県立自然博物園のウェブサイト

 

 山形県立自然博物園が月山にできた時には夕刊コラムに書いた。園は一部を除き、ほぼブナの原生林で、志田さんは計画段階から関与していた。「野鳥だけで200種もいる」と言って声を弾ませ、ブナのすばらしさを多くの人に伝えられることを喜んでいた。

 園は昨年、開園30年を迎えた。現在、冬季閉園中だが、園のHPで四季の写真をいつでも見られる。ブナは春になれば芽吹き、その下で多くの生き物を育くみ、命をつなぐ。幹の高いところではキブノリも風雪に耐えて育っているだろう。志田さんが行ったブナの保護活動や言葉などは著書や出版物でたどることができる。最後に西川町にある民宿に泊まったのは1992年の冬だった。記憶に残るその姿は、私にはブナの大樹と重なっている。

(笠間 亜紀子


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(2022年3月29日 16:20)
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