悪夢のような現実《記者のじぶんごと》
17.
西の空を切り取る丹沢連峰の稜線。その手前、ビルの谷間に大型の輸送機が吸い込まれ、間を置かずに別の輸送機が飛び立っていく。
中学を卒業するまでの10年余り、米軍立川基地(東京都立川市、昭島市)の東側約2キロの公務員宿舎に住んでいた。5階建ての最上階で、晴れた日にはベランダから丹沢の山々と、その間にそびえる富士山が見えた。曇りや雨の日は山々を望むことは出来ないが、輸送機は休むことなく離着陸を繰り返していた。
立川基地は1922年(大正11年)に旧日本陸軍航空隊の飛行場として開設され、太平洋戦争終結後は米空軍の輸送拠点の一つになった。69年(昭和44年)12月に飛行場業務を終了し、77年に日本に全面返還された。
ベランダから離着陸を見ていたのは65年にベトナムで米軍による北爆が始まって2、3年後のことだったと思う。自宅の真上が飛行ルートになっていたようで、日に何度も、ときには一時間に一度ほどの頻度で輸送機が爆音をとどろかせて飛び過ぎていった。部屋のサッシ越しに輸送機の銀色の腹部、STAR AND BARの国籍マークをはっきりと目にすることが出来た。宿舎敷地の隣が陸運局の車検場になっていて平日の日中は検査を待つ車のエンジン音が響き、騒音には慣れていた。だが、大型輸送機の爆音はその比ではなかった。
ある午後、飛行機から機銃掃射を受け、逃げまどっている夢を見た。昼寝から覚めたとき、輸送機の爆音が遠ざかっていくところだった。夢とわかって心底ほっとしたが、心臓の鼓動はしばらく収まらなかった。
もちろん、実際に機銃掃射を受けた体験はない。何年かたってから後付けで考えた理由だが、そのころテレビでルネ・クレマン監督の映画「禁じられた遊び」(1952年)を見たからかもしれないと思う。主人公の両親がドイツ軍の戦闘機から機銃掃射を受けて亡くなる場面があった。その印象が強烈で、昼寝の間に聞いた爆音が機銃掃射の夢になったのではないか。
夢の中で感じた恐怖は、現実に戦争を体験した人の何百分の一が何万分の一かに過ぎないことは承知している。どんなに恐ろしくても、夢なら覚める。だが、ウクライナで起きていることは現実だ。
昨年9月、ロシアのプーチン大統領はウラジオストクの学校で子どもたちに「すべてはわが身をささげて祖国に尽くすためだった」「そして今、私はまさにそれを実践している。そういう意味では、私は何とか夢をかなえることができた」と語ったという(AFPBB News)。
プーチン大統領の「夢」は、むろん寝ている間に見たわけではない。強く意識し、努力して今の地位を得たのだろう。しかし、自分の夢を実現するために隣国の人々に悪夢、いや悪夢のような現実を強いる権利は、だれにもない。
(橋本 弘道)
参考「立川飛行場の歴史」陸上自衛隊 立川駐屯地 公式WEBサイト
「東京の米軍基地の歴史」東京都都市整備局
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