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大相撲優勝インタビューとジェンダー《記者のじぶんごと》

土俵下で優勝インタビューを受ける横綱貴乃花(1995年1月)

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 大相撲の土俵に女性が上れないことはよく知られているが、千秋楽に土俵下で行われる優勝力士インタビューにもジェンダーが少なからず関わったことをご存じだろうか。初めて行われたのは1995年初場所だった。大相撲担当だった当時を振り返りたい。

 

 大相撲の土俵は平らではない。それを教えてくれたのは、土俵の鬼といわれた初代横綱若乃花の花田勝治さんだった。東京・両国にある日本相撲協会相撲博物館長室で、名勝負として知られる1960年春場所千秋楽、史上初の全勝同士の横綱対決で栃錦を制した一番について取材していたときのことだ。

 本場所の土俵は毎回、人の手で新しく作られ、こまめに整えられている。それでも結びの一番ともなればわずかな凹みができる。花田さんには直径十五尺(4.55m)の土俵のサイズ感は体に染み込んでいた。動きながら足先にも神経を行き届かせて踏み固められた土俵の上で凹凸に足の指を食い込ませて踏ん張り、技を繰り出すきっかけにしていた。

 

 本場所の土俵は高さが66cmあり、外側の中程に土俵に上がるための踏み俵がある。後に日本相撲協会理事長となった元横綱、北の湖敏満さんは踏み俵にいつも左足をかけて土俵に上がっていた。

 北の湖さんには東京・清澄の北の湖部屋で1985年の初場所のことを聞いていた。両国の国技館が完成し、初めて迎える本場所だった。北の湖さんは横綱になってすでに10年6か月たち、膝と腰が悲鳴をあげていた。81年の九州場所以降、休場も増えていた。それでも新国技館に立つために日に3つの診療所をかけもちし、下半身の鍛錬のため自転車を使った。休場している手前、昼間ではなく夜間に毎日15㎞こいだ。ジムにも通い、スカッシュやテニスなどにも挑んだ。進退をかけて臨んだ初日の土俵入りで、目に見えるすべてが蔵前の旧国技館と異なっていて胸にこみあげるものがあったという。

 北の湖さんは2連敗して引退し、両国では白星を挙げることができなかった。「そりゃ勝てなくて残念だったが、悔いはない」と引退して10年たった時に語った。

 

名古屋場所で勝ち越した小錦に取材する筆者(1994年7月)

 

 さて1995年の初場所に話しを戻そう。社会部の担当替えで大相撲担当となって5つ目の本場所だった。いま振り返っても特別な場所だったと思う。

 主役は新横綱だった貴乃花光司さんだった。前年の九州場所の千秋楽で横綱曙を下して2場所連続で全勝優勝を遂げ、横綱に駆け上がっていた。しかし初日は黒星。10日目には阪神大震災が発生してNHK総合テレビの大相撲中継が中止されたり優勝パレードの自粛が発表されたりなど、社会全体が騒然としていた。

 その千秋楽で新横綱は結びの一番で横綱曙を寄り切り、優勝決定戦でも体格に勝る大関武蔵丸を寄り切って3連覇を果たした。優勝杯と優勝旗を受け取った後に東の花道に降りて初の優勝インタビューに臨み、「本当にうれしい」と語って館内を沸かせた。

 

 優勝インタビューについては、実施されることを1995年1月12日朝刊で報じ、場所後の1月25日夕刊 コラムでも「力士の生の声、女性記者にも聞かせて」と書いた。私が日本相撲協会に申し入れたことがきっかけとなって導入されたからだ。

 私が求めたのは優勝会見への列席だった。大相撲担当として綱取りに挑む大関時代の貴乃花さんへのインタビューを始め、さまざまな記事を書いた。しかし優勝力士のインタビューから閉め出されていた。会見は女性入室不可の支度部屋で行われ、全国に生中継されていても女性だった私は入室を認めてもらえなかった。

 読売新聞だけでなく他社の賛同も得て協会に対応を申し入れていた。申し入れがかなうことはなかったが、優勝インタビューが始まった。支度部屋の会見は女性記者だけでなく国技館に足を運んだ観客も享受できないでいたのだ。私は広報担当の親方2人と対話を重ねるなかで、「大相撲にヒーローインタビューはなじまない」と何度もたしなめられた。

 大相撲でも優勝インタビューは定着した。対話によって改革の機運が生まれ、優勝力士と千秋楽に足を運ぶファンとの距離を縮めることに貢献できたと思う。それでもなおあの時、私には何ができただろうかと考えることがある。

(笠間亜紀子


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(2022年1月19日 13:26)
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