遠野から考えたアフリカの子どもたち《記者のじぶんごと》
33.
民俗学者・柳田国男の「遠野物語」を通して「民話のふるさと」として知られる岩手県遠野市を6月末に訪れた。教育ネットワーク事務局でつくる教材「よむYOMUワークシート」を活用する小学校の取材だが、読解力の向上を昔話の伝承にもつなげたいという市教育委員会の狙いもあって、出かける前に民話について勉強した。
その中で、遠野の語りには「むがす、あったずもな(昔、あったそうだ)」で始まり「どんどはれ」で終わるという決まったスタイルがあることを知った。「どんどはれ」の意味や由来は諸説あるようだが、「めでたし、めでたし」や「おしまい」の意とされているようだ。昔話の入りと締めの決まり文句は、各地の方言とも結びついてバリエーションもあるという。東北地方の文化の奥深さをかいま見た......とその時は思っていた。
さて、いたって「日本的なもの」と受け止めていたこの語りの形が、はるかかなたのアフリカに結びついたのは、遠野から東京に戻り、半分は自分の興味で柳田について調べていた時に、言語学者で民族学者の江口一久氏の文章を目にしたためだ。
江口氏はアフリカを中心とした世界各地の口承文芸の研究者だった。記事を書くために、たまたまみつけた論文「アフリカの口承文芸」(「アフリカ研究」27、1985年12月)にはこんな記述があった。
「北部カメルーンのフルベ族のある氏族は、『おはなし、おはなし。みじかいモロコシの茎。年老いた人の頭の中にある切株のまんなか。その老人が死んだのでインディアン・ヘンプの中にほうむったとさ』というなぞのことばではじまる。おしまいは『おしまい。ニワトリの糞でできたむしやき肉』でおわる」
人をけむに巻いて引き込むような始まりの文句、終わりには、いまひとつ意味不明な締めのフレーズ。フルベ族のものは、遠野よりかなり複雑だが、どちらも定まった形の中に伝えたい歴史や教訓を入れ込んで語るスタイルだ。専門知識がないので、その理由やそうしたことに意味があるのかどうかについてはわからないが、思いがけない共通点に関心をひかれた。
話がずいぶんとんでしまったので、いったん遠野に戻る。取材した市立土淵(つちぶち)小学校は、みずから集めた遠野の昔話を柳田に伝えた民族学者、佐々木喜善(ささき・きぜん)の生地にあり、民話と縁の深い学校だ。「子ども語り部」の養成はすでに25年も続いている。
地域のオトナの語り部を招いて学び、練習し、隣接する文化施設の「伝承館」で観光客らにも披露する。校長の日影舘(ひかげだて)亨先生は、「子どもたちは、民話を学ぶのがあたりまえだと思っています」と教えてくれた。
岩手県遠野市の遠野駅前にあるカッパの像
学校の周囲は田や畑、小川や林が広がり、カッパの伝説がある「カッパ淵」もすぐそこだ。「遠野物語」になんども登場する地で育ち、地元の語り部からじかに語りを学ぶ。名文としても評価が高い「物語」に小さい時から触れ、教育委員会や学校の熱心な先生からは、文章を解釈し、伝えるための読解、表現力の指導をうける。
その成果は記事(読売新聞2023年7月17日岩手版)に記したが、民話からワークシートの新聞まで、さまざまな文章に触れて表現する力をつけてゆく子どもたち。「勉強したことは民話の語りにも役立ちますか」とたずねると、そろって「はい」との答えがかえってきた。恵まれた教育環境にある子どもたちを心からうらやましく思った。
振り返ってアフリカの子どもたちはどうだろう。先に紹介した江口先生の論文によると、アフリカには約1000の言語があるといい、「地球上に最後に残された口承文芸の宝庫ということになる」のだという。ところが、子どもたちをとりまく環境は比べものにならないくらい異なる。
国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の資料によると、小学校に通うことのできない子どもの数は世界で約6700万人。半数以上がサハラ以南のアフリカの子どもたちだ。この地域の小学校修了率は63%に過ぎず、就学しても勉強を続けられない子どもが多い。根底には戦乱、貧困がある。容易に解決できる問題ではない。豊かな文化をもちながら学べない子どもたち。できることから力を貸してあげる必要がある。
(伊藤 彰浩)
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