異見交論54 「国立大学長の3分の2を女性、外国人、企業家に」長谷川真理子・総合研究大学院大学長

1952年、東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科人類学専攻。理学博士。国家公安委員会委員などを経て、2017年から現職。主な著書に「オスの戦略メスの戦略」など

 読者はもうお気づきだろう。「異見交論」の論者の大半を男性が占めていることに。特に国立大学法人化をめぐる議論では、女性の登壇はゼロだ。なぜか。それは、改革論の最前線に立つ各国立大学の執行部に、女性がほとんどいないからだ。トップの学長では、86人中わずかに3人。一方、最近の国立大学への批判を要約すれば、「進化が遅い」に尽きる。こうした現状について、「女性という『異質な人』を排除してきた結果」と喝破するのは、女性3学長の1人である総合研究大学院大学の長谷川真理子学長(進化生物学)だ。「多様性」こそ進化の鍵、という。(聞き手=松本美奈・読売新聞専門委員、撮影=秋山哲也)


 

■法人化は失敗だった

――法人化して14年たったが、国立大学への風当たりがますます厳しくなっている。それに対し、国立大学側からは、法人化制度を含めた改革全体への批判の声が上がっている。

 

長谷川 山極君の言うことはよくわかる。確かに、いまのやり方から見れば、法人化は失敗だった。法人化前後には、文部科学省は「何も変わらない」と言っていたのに、いざふたを開けたら運営費交付金の確保※という大きな変化が待っていた。山極君? そう京都大学学長の。大学院修士時代からの付き合いだから。

 

※運営費交付金の確保

国立大学法人法の成立時、国会は運営費交付金額の維持を付帯決議で明確にした。しかし、2年後の「骨太の方針2006」で毎年1%削減が盛り込まれた。

 

参考:付帯決議 衆議院「運営費交付金等の算定に当たっては、公正かつ透明性のある基準に従って行うとともに、法人化前の公費投入額を十分に確保し、必要な運営費交付金等を措置するよう努めること」。 参議院「運営費交付金等の算定に当たっては、算定基準及び算定根拠を明確にした上で公表し公正性・透明性を確保するとともに、各法人の規模等その特性を考慮した適切な算定方法となるよう工夫すること。また、法人化前の公費投入額を踏まえ、従来以上に各国立大学における教育研究が確実に実施されるに必要な所要額を確保するよう努めること」

 

――結果的には、財務面はもちろん、さまざまな面で大きな変化が待っていた。

 

長谷川 とはいえ、変わりようがない面もある。それまで国立大学は個性を求められてこなかった。全国どこでも均質な教育を提供できればよかった。大学だけでなく、学生も社会もそれを許してきた。学生は勉強しなくても良い成績がとれればいい、教員は授業なんかしないで自分の好きな研究だけできればいい、企業は教育の中身を見ないで「いい大学の学生」を採用できればいい、と考えていた。3者の均衡点が、世界の変化に背を向けさせてきたのだ。しかも教員はみんな男で、年功序列。それはいまも変わらない。それでは、国立大学は変わりようがない。

 

――ところが世界、特に欧米の大学は変わり始めていた。

 

長谷川 1992年、イエール大学で教壇に立ったとき、学生による授業評価アンケートが始まった。教員はもちろん学生も授業とアンケートに真剣に臨んでいた。学生からの評価は大学のセンターで分析され、悪い成績を取ると、カウンセリングを受けなければならなかった。

 

――それから20年以上たつが、いまだに学生による授業評価アンケートを導入していない国立大学もある。いずれにせよ、そうした現状に風穴を開けるのがこちら、総研大かもしれない。1988年に開学した博士課程のみのユニークな大学だ。

 

長谷川 日本でただ一つの特殊な大学だ。奈良先端、北陸先端、政策研究大学院大学とも違う。キャンパスが一つではない。各専攻が研究所として全国に散らばっている。いずれも特殊な研究分野を支える人材が集まった研究所だ。他大学でも利用できるから、多様な人たちが共同研究している。こんな形態の大学は日本にはない。学生は、1学年の定員3人から5人。先生とポスドクも合わせ200人近くいるところに、学生が3人から5人だ。しかも5年一貫で修士課程がなく、最先端の先生たちと一緒に研究する。

 

 

――従来の大学のありようとは、発想が違うようだ。

 

長谷川 発想も作りも全部違うから、うちは勝手にやらせてほしいと言い続けている。だから文科省が始めた「3分類※」には異論がある。ムダだ。総研大は、従来とは全く違うタイプだから、他大学と横並びで比べないでほしい。もっと言えば、86大学が86方向に勝手なことをしてなぜいけないのか。なぜ三つに分類されなければいけないのか。理解に苦しむ。ラベルを貼って、それぞれの分類の中で均質な集団を作りたいという、日本の特色そのものの政策ではないだろうか。

 

※3分類

国立大学の「機能強化策」として行われている予算の配分制度。地域貢献、特色ある教育・研究、世界的な教育・研究の三つの枠組みから各大学が取り組み対象を選び、その成果によって予算額が増減する。原資は、運営費交付金から拠出した100億円。

 

 

■オジサンがつくる日本

――均質といえば、国立大学の学長86人のうち女性は3人しかいない。国立大学の学生・教員とも女性比率が上がっているのに、変わっていない。

 

 

長谷川 本当におかしい。女性の活躍という点でみれば、自治体や企業、そして大学も、最悪の状態だ。ダイバーシティ(多様性)とどう向き合うか、ベルリンの壁の崩壊後、世界は劇的に変わったのに、日本はちっとも変わらなかった。

 

――総研大の女子学生の割合は大体3割ぐらいで横ばいだろうか。

 

長谷川 女子学生数の割合はほぼ3割程度で一定だ。世界に目を転じると、英国のケンブリッジ、オクスフォードも、理学部の半数は女性だ。だが、東大は2割に満たない。東大の現状が変われば、全国の理系学部、高校の理系にもっと女子が増えるはずだ。「3割」はまだ上限ではない。

 

――もっと増やせると。では、現状のネックは何なのだろうか。

 

長谷川 親の問題が大きい。特に地方在住の場合、娘だといくら優秀でも東京に出さず、地元の医学部に行かせる傾向が強い。息子だったら、東京に送り出す。親が女の子と男の子を区別しているからだ。親だけの問題ではない。東京の大学で理系を勉強するような女の子は結婚できないかもしれない、孫も見られないかも知れない......と、周囲が勝手に思いこんでいる。

 

――なぜ女性の学長は増えないと考えるか。

 

長谷川 日本社会はそもそも、男性、それもオジサンばかりで作ってきた。男女共同参画は掛け声ばかりで、心底では女性を入れることを嫌がっている。そこで生きるために、女性も「擬態」をしてきた。私は65歳だが、私の上の世代は、「男のふり」をしなければ生きられなかった。下の世代になると、自己規制がかかる。「どうせ女はダメだよね」と。「ダメだ」と自分で予言し、その通りになってしまう。予言の自己実現だ。異質な人が入ってこないから、オジサンに心地よい社会が形成される。

 

――その延長線上にあるのが、受験生女子を排除した東京医科大学事件か。

 

長谷川 私が学部生だった1972年、生態学で著名な九州大学の先生が「女は立ちションできないから調査には連れていかない」と公言していた。本人から直に言われたこともある。あまりに品が悪いので、「そういう話ではないと思います」と返すのが精いっぱいだった。1990年にケンブリッジのポスドクから37歳で帰国し、東大に戻った。そのときの教室主任は50歳ぐらいの男性。彼の言葉をいまでも忘れない。「女は絶対、東大で助教授以上になれないから、さっさと出て行きなさい

 

――20世紀で終わってほしい話だ。

 

長谷川 いやいや、まだまだ。私が2007年に国家公安委員に就任したときのエピソードだ。5人のうち学識経験者枠が女性で、私が選ばれた。総理大臣からの辞令を受けたあと、国会議員にあいさつ回りをしていた。ある部屋の前で待っていたら、後ろを議員の集団が通って、「よお、ねえちゃん、だれ待っているの」と声をかけられた。キッと振り向いてにらんだら、驚いた顔で階段を下りていった。

 次は2017年。学長になって最初の国立大学協会の会議に、事務局長と一緒に行った。到着したら他大学の事務局長たちが、うちの大学の事務局長に向かって「今日は学長の代わりに来たのか」と話しかけてきた。彼らは女性が学長なんて思ってもみなかったのだろう。横に私がいるので、うちの事務局長は困った顔をしていた。

 

――全然、変わっていない。

 

長谷川 この手の話ならいくらでもある。ここ5年以内でも。国際学会で同時通訳の女性たちと打ち合わせをしていたら、日本人男性が「同時通訳の打ち合わせを××時からしてほしい」と割り込んできた。私を発表者だと思っていなかったようだ。文句言って怒るのはバカらしいが、ちくちくと刺されるようで、ストレスになる。

 

 

■多様性は進化の原動力

――なぜ女性を受け入れたがらないのだろう。男性だって、女性から生まれているのに。

 

長谷川 私は、ホモサピエンスの社会の作り方と言語を研究してきた。人間は協力しながら社会を築かなければならないから、対立はコストになる。ない方がラクだ。解決策は二つある。とことん議論して、落としどころを見つけるか、権力構造を構築し、上から一方的に決めるか。封建社会は後者の典型例だ。

 欧州では多様な民族や宗教の人々が革命や戦争を繰り返し、何百年もかけてお互いが折り合えるシステムを築いてきた。一方、日本は、江戸~明治期で家父長的な制度を築き上げ、均質な集団の中の上下関係で物事を決めるスタイルが確立した。1945年の敗戦で、一致団結して経済成長を目指した。子育てとは無縁で時間を使うことができるのは男たちだけだったから、その男たちが仕事に24時間をささげ、日本の経済力を発展させた。家事や育児をしてくれる「専業主婦」という新しい職業ができた。

 

――「企業戦士」はなぜ男性だったのだろうか。

 

長谷川 女性という性の生き物は、子どもを放置して24時間を自分のことだけに使うことができない。子どもがちょろちょろ動き回るのを目の端で絶えず気にしないと生きられない生物だからだ。男は、子どもを産んでもらえば後はどうでもいいから、100%自分のことに打ち込むことができた。そうして子育てから解放された男性は、自分が気持ちいいように男性中心社会をつくる。そこに女性も進出しようとなると、男にならなければならない。だがそれは無理なのだ。

 哺乳類のオスは一般に「リスクテーカー」で、リスクを取って何かをするという形に進化が進む。オスは授精だけしたら、子どもはメスが見てくれるから、明日死んでも大丈夫だからだ。一方、メスは、出産したら自分で授乳して育てなければならないから、自分の死は子どもの死も意味する。だからリスクの査定をきちんとして、危ないと思ったらその選択はしないという方向に進む。

 

――哺乳類の特性か。

 

長谷川 だが、そもそも、人間の女性と男性の差異は、他の生き物ほどには大きくない。男性は角を生やしたり、鋭い牙を持っていたりはしないだろう。瞬発力なら男性が強いが、持久力なら女性だ。何より女性はマルチ能力を持っている。いろんな感覚を同時に働かせて、マルチにものを理解できるのは女性がはるかに上だ。それに対して男性は一点集中だが、いずれも平均値で分布図にしてみると、混然とする。本当はそのくらいの差異なのだ。

 

――結果として均質な社会ができてしまった。そうした社会の運命は?

 

長谷川 ホモジニアスな集団は、絶対に滅びる。19世紀、アイルランドで起きたジャガイモ飢饉はその典型例だ。当時、アイルランドではたくさん収穫できる品種にしぼってジャガイモを育てていたため、疫病で全滅した。みんな同じ株で、遺伝的な多様性がなかったからだ。

 個体の存続、「種」は結果論に過ぎない。個体が子どもを産んで、その子どもがまた子どもを産んで......。結果として種ができる。生き残るには、どうしたらいいか。隣と違うものを持つことだ。必要なのは、変異のバリエーション。環境の変化が起こったときに生き残れるのは、今までにはないものだ

 

――とはいえ「出る杭は打たれる」......。日本では均質性を重んじる気風がいまだにある。

 

長谷川 均質性がうまく行くのは、物理的、生物的変化がないときだけだ。気温が一定に保たれ、環境が安定し、他の生物が入ってこない状態だ。だが、たとえ10人の子どもがいたとしても、全部クローンだったら外圧で全滅しかねない。オスとメスの性で遺伝子を交換するのは、子どもが親とは違う遺伝子を持つことになるからだ。有性生殖の強みはそこにある。父親が同じでも、遺伝子は違う組み合わせで出現するので、10人の子どもはまさに「十人十色」になる。そうすると、外圧が来た時に死ぬ子がいても、別の遺伝子タイプの子どもは生き残る。多様性は進化の原動力だ。

 

――さきほど「86大学あるのなら、86通りのやり方で行けばいい」というのは、そのことか。

 

長谷川 そうだ。

 

――多様性が進化の原動力ならば、異質の排除は自ら首をしめるようなものだ。

 

長谷川 ホモサピエンスの強みは、大きなグループをつくり、抽象的なアイデアを言語で説明し、集まらなくても何らかの手段で意思疎通を図り、協力して実現してきたことだ。一方、ネアンデルタールは、小規模のグループで、しかもあちこちに点在し、協力もしてこなかった。それが滅亡につながった。チンパンジーや類人猿には競争的知能、相手を打ち負かす知能はある。だが、協力的知能を持ち、意思疎通できる哺乳類は人間だけだ。

 大昔の狩猟採集時代ならば、家族単位で暮らし方も単純だから、問題は起きにくかった。社会が大きくなり、人の流動性が高くなれば、利害対立は増える。そこで全体効率を考えれば、均一にするのが最も楽だとわかり、均一にしようという力が働く。

 

――重きが置かれているのは「今」の効率であるが、先行きは決して明るくない。

 

長谷川 現状維持ばかりで次を考えなければ、絶滅する。

 

■「国策」を体現する国立大学

――多様性こそが進化の原動力。岐阜大学元学長の黒木登志夫氏も同じ指摘をしていた。(>>vol.50国立大学をいかに多様にするかが、「進化」には不可欠だということになる。

 

長谷川 どの大学も同じことをするのなら、86大学も必要ない。どこかの国立大学はつぶれるかもしれないが、役目を終えた組織がなくなるのは仕方がない。別の存在意義をどうやって出せるか。うちの大学はどういう理念のもとでどうやっていくということを、文科省が示した「3類型」に従うのではなく、それぞれが考えて出さなくてはいけない。

 

――それこそが「ミッション再定義」だったはずだが......。国立大学とは何だろうか。

 

長谷川 どういう国民を育てたいかという「国策」を体現するためのものだ。だから、税金が投じられている。

 高校までの学校は、教わる場だ。答えがある問いに答えてくればよかった。だが、大学は、何がわかっていないかに気づく場だと思う。地平線がどこまで広がっているかを知る場だ。自分がどれほど分かっていないかを自覚したうえで、なおかつものごとを批判的に見る、「これはおかしいのではないか」と考える人、答えが存在しないかもしれない問いに直面できる人を育てる。それが大学の使命だ。

 

――批判的思考力を育てる。かなり前からその必要性は強調されている。

 

長谷川 日本の社会は、批判的思考力を持った人を育てなくてはいけないと本気で思っているのだろうか。均質が心地よくて、オジサンのやり方でものごとを進めたいと考えている限り、批判的思考力を持つ市民の育成などできるわけがない。

 

――ずばり、国立大学の進化の戦略を。

 

長谷川 学長の3分の1は女性、後の3分の1は企業家や外国人にしたらいい。大学の研究者は、研究する人として育ってきているから、大学の運営や経営に興味がなく、訓練も受けていない。大学には、資源配分や経営のプロ集団が必要ではないか。

 

――運営費交付金についてはどうか。

 

長谷川 国が大学をどうするか、どう維持するか、何のために維持するかの方針を示したうえで、明確な算定根拠を出してほしい。それでも、国立大学がこれからどうなるのか、予断を許さない。答えがないかもしれない問いに、あえて直面する。それこそが大学人の使命だ。

 


おわりに

 「文句言って怒るのはバカらしいが、ストレスになる」という長谷川学長の体験談に共感する女性は多いだろう。そういえば、とある有名企業の幹部が「男は決断力があるが、女にはない」と発言していた。根拠は、トイレ。男は大か小か決めてトイレに入るが、女は考えなく個室に入るから......。トイレの構造の問題であって性差による特性ではない、と反論しかかったが、やめた。

 進化とは、「生物が何世代もかけて形態や機能の分化・変異の過程を積み重ねながら、より環境に適した状態になること」(新明解国語辞典)とある。日本社会自体が大変貌しない限り、何世代かけても国立大学の「進化」はないかもしれない。考えたくもないが。(奈)


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(2018年8月31日 15:03)
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